1位の値段
南木
1位の値段
秋の天は高く、雲一つない青空が広がっている。
この日はまさに運動の秋にふさわしい秋晴れの一日で、暑すぎず寒すぎない心地よい陽気の下、中学生たちが元気に汗を流していた。
「
「1位取れなかったら、お前が戦犯だからなーっ!」
「えーっ、僕にばっかり責任押し付けるとかひどくね?」
クラスメイトから、冗談とも本気ともとれるプレッシャーがかかる中、白い鉢巻を巻いた男子――
彼のクラスが所属する白組は、お誂え向きのように開が出場する400m走の結果に優勝が懸かっていた。優勝してもそこまでいい景品がもらえるわけでもなく、ましてや彼が1位になったからと言って得る物は何もない。だが、2位以下では優勝を逃したことを揶揄されてしまう。分の悪い勝負どころの騒ぎではない。
(まぁ、それだけならまだいいんだけど…………)
開はふと右のレーンを見た。右斜め前にいる眼鏡をかけた緑色の鉢巻の男子生徒と目が合った。
男子生徒は「わかってるよな」という目で開を睨んでくる。それに対し、開もゆっくりと頷いて見せた。
(なんでこう厄介なことが重なるかねぇ)
開は、昨日の夕方のことを思い浮かべる。
昨日の放課後、今右隣のレーンにいる男子――霧島聖次郎(きりしま せいじろう)に声を掛けられ、人気のないところで取引を持ち掛けられた。
「お前に1万やろう。そのかわり、1位を譲ってくれないか?」
今まで何の接点もなかった同級生から八百長を持ちかけられるとは思わなかった開はしばらく唖然とした。開にはこの時点で400m走で1位にこだわるつもりはなかったが、流石に金銭が絡む問題だったので「ちょっと考えさせてくれないか」ともったいぶるような態度をとった。すると……
「不満か? じゃあ、2万出そうか?」
「……いや、1万先払いでいいよ」
「そうか! 君は噂と違って誠実だね! 助かるよ!」
八百長の値段を倍に釣り上げてきたと言うのに、開はあえて元の値段で承諾した。その時聖次郎は、心の底から嬉しそうな笑顔で開に1万円を渡してきた。
まさか中学生にして賄賂を受け取ることになるとは思わなかった開。その心境は複雑だった。
(1位を譲れってことは……つまりほかのやつらも買収済みか)
レーンには、開の左隣に1人、右側に聖次郎を含め3人――計5人いる。仮に開と同じ金額で買収したとしても4万払っていることになる。中学生にとっては大金だ。そこまでして1位を取りたい理由があるということも、何となく見当がついている。
(まあいいや。僕は僕らしく、いくとしようか)
開がそんなことを考えているうちに、合図をする生徒がレーン脇までやってきた。
「いちについてっ! よーいっ!」
スタート前の合図。開が思った通り、本気でスタートダッシュする姿勢を見せているのは聖次郎だけで、ほかの3人は少し腰を落とすだけだった。
そしてコンマ数秒後――――パンっ! と空包が鳴り響くと同時に、5人の生徒が一斉に走り始めた。
『さあ、最終種目の400m走が始まりましたっ!』
女子のかわいいアナウンスと、各組生徒たちの大歓声が校庭に満ちる。
ここまで各組の点差は図ったように拮抗しており、どこが優勝してもおかしくないだけに、生徒たちの応援にも熱が入る。
八百長が行われているとも知らずに――――
(よしっ! よしよしよーしっ! これでいい! これでいいんだ!)
得意げな顔で走る、緑組のランナーの聖次郎。
まだ50mも走っていないのに、彼の前方視界には誰も映っていない。右側にすら誰もいないのだから、これはもう「決まった」も同然だ。
(結局10万も払ったけど……これで僕は、生きられる……!)
もはや全力で走る必要はなさそうだが、心が軽くなると足も不思議と軽くなる。これなら10万円払わなくてもよかったと思えるほどだ。
『現在のトップは――――』
だが……次の瞬間、聖次郎の視界にありえないものが映った。
『白組! 道重さんです!』
100mのカーブに差し掛かったところで、白い鉢巻――開が聖次郎のわずかに前にいた。しかも開は左のレーンである。これが意味するのは……
(こ、こいつ! 約束を破りやがった!)
聖次郎は慌ててペースを上げ、第1カーブの終わりで何とか開に追いついた。すると、開が余裕の表情で前を向きながら語りかけてきた。
「あ、そういえば、昨日1位を譲ると約束したっけ」
「そ……そうだ道重! 頼むから僕を先に行かせてくれ!」
「ごめん、あれ嘘。あと、後ろにも気を付けてね」
「なっ!?」
聖次郎が一瞬後ろを振り返ると、彼は思わずぎょっとした。
今までペースを落としていたらしい3人が「よくもだましたな!」とばかりに必死の形相で追い上げてくるではないか!
さらに前を向けば、開は今まで以上にペースを上げている。
(あばっ!? あばばばばばばっ!?)
絶体絶命のピンチに陥った聖次郎は、死ぬ気でスピードを上げた。
もともと彼は最終種目の走者に選ばれるくらい足は速いし、この日のために血のにじむような努力を重ねてきた。だが、この競争に負ければ…………彼に明日はない。そのための保険として、合計10万もほかの走者に渡したというのに……。
聖次郎はひたすら走った。脇目も振らず走った。
『緑組の霧島さんがものすごい勢いで追い上げています! 白組の道重さん、がんばってください!』
一人の命がかかっているというのに、のんきなに声援を読み上げるアナウンスが聞こえた時には、すでに開と聖次郎との間には差が1mもなかった。
(追いついてきたか! やればできるじゃんっ! そうこなくっちゃね!)
最初の100mで聖次郎を抜くために猛烈に速度を上げたせいか、開もかなり苦しくなってきている。ここで少し力を緩めて追い抜かれても3位とはまだ大きな差がありそうなので、当初の目的を確実に果たすチャンスでもあったが…………
(1万円如きで僕の心が買えると思うなよ!! せめてあと2桁上乗せするんだったな!!)
結局、開は最後でさらに速度を上げ、身体2つ分先にゴールに飛び込んだ。
開が1位を取ったことで、白組の優勝が確定した。
『1位! 白組の道重さん! 2位! 緑組の霧島さん! そして3位は――』
ゴールのアナウンスを聞いた開は、走り切った安堵感から、コースから少しそれて足を止め、荒い呼吸を繰り返した。苦しい戦いではあったが、素晴らしい充実感を感じる。
「よーし、これで戦犯とかいわれな―――」
直後、開は後ろから何者かに突き飛ばされ、校庭の土に前のめりに倒れた。そして、迫りくる拳を慌てて腕で防御した。
「ちょっ! まっ!」
「てめええぇぇぇっ! よくもっ! よくもぉっ! てめぇのせいでっ! 僕はしぬんだああぁぁぁっ!!」
案の定、襲い掛かってきたのは聖次郎だった。
全校生徒が見ている前にもかかわらず、彼は狂ったように開を殴りつけてきた。その顔は涙や鼻水にまみれ、土気色の顔色をしていた。
「かえせよおおっ! いちまんっ! このうそつきやろうっ!! しねっ!! 僕の代わりにしねぇっ!!」
「おいやめろ霧島! 1位になれなかったからって殴る奴があるか!」
「ふざけんな! おまえもさんまんかえせっ!!」
3位になった青組の生徒が聖次郎を止めようと駆け寄ってきたが、聖次郎は見境なく殴りかかり暴れた。
異常事態を察した生徒や教師たちが慌てて駆け寄ってきたが、直後に聖次郎は興奮のあまりその場で嘔吐し……過呼吸を起こして倒れてしまった。
「だ、大丈夫か道重? 膝から血が……」
「あー、これくらい唾つけとけば治るよ。それより早く霧島を保健室に」
開は左腕と両ひざを擦りむいていたが、自力で起き上がり、心配してくれた生徒と共に聖次郎を保健室に運ぼうとした。
すると―――そこに恰幅のいい中年男性が現れた。
「おいどけ! この出来損ないはうちが引き取る!」
どうやら男性は聖次郎の父親のようだ。
父親を見た生徒や教師たちがざわめく。彼はこの地域でも羽振りがいい会社の社長だった。
戸惑う人々の中、開だけが庇うように聖次郎の前に立った。
「待ってください。彼は体調を崩していますから、まずは保健室に」
「お前には関係ない! こいつは我が家の恥だ! 帰ったら「再教育」してやる!」
「ふざけるなっ! 霧島君は僕たちに八百長を持ち掛けるくらい切羽詰まってたんだっ!」
そう――聖次郎は、親から次期社長になるためとして、すべてにおいて1位を強要されていたのだ。試験でも、部活でも、イベントでも……1位を取れなかったら、食事抜きや厳しい体罰が待っている。ところが聖次郎は前回の中間試験で2位どまりで、部活でも2位どまりだった。そして、今回の体育祭で1位にならなければ……
「それより功刀、岡部、早く霧島を保健室に」
「このガキが! そいつを引き渡せっつってんだろうが!」
「うるさいっ! あんたは親なのに霧島の走りを見てなかったのか! 先生たちも何ぼさっと突っ立ってるんですか! 生徒を守るのが先生の仕事じゃないんですか!」
開の必死の大立ち回りにより、聖次郎は無事保健室に運ばれ、そのまま病院に移送された。
そのまた後日、大勢の人の前で騒いでしまったせいで聖次郎の父はマスコミの餌となり権威が失墜。悪質な虐待が発覚したため、聖次郎は信頼のおける親戚に預けられることになった。
聖次郎は結局2位だった。しかし、もし八百長で1位を取ってしまっていたら、彼はまだ底なし沼であがくような生活を強いられていただろう。
彼が退院した日、開をはじめ同じ場にいた走者たちが「約束を破った」とお金を返しに来たが、聖次郎は「目的は果たしたから」と言って受け取らなかったという。
1位の値段 南木 @sanbousoutyou-ju88
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