スイッチオンパー

@moonbird1

スイッチオンパー

 学生時代、俺に電話がかかってくることは少なかった。

 もちろん、当時にはすでにスマートフォンやSNSアプリが普及していて、他の若者たちだって「電話番号」からかかってくることは少なかっただろうが、俺が言いたいのはそういうことではなくて、たとえそういうアプリからでもかかってくることが少なかった、ということだ。

 だから、妻から頻繁に電話がかかってくるようになってから、ああ、俺結婚したんだなぁとぼんやり思うようになった。友人も恋愛経験もそう多くなかった俺からすれば、着信音はいつだって新鮮だった。



 その電話がかかってきた時、まだ仕事中だった。いつも最後まで残っている清水さんさえ、扇風機切って帰れよと言い残し帰ってしまった。電気つけとくか? と訊かれ、他は切っといてくださいと答えた。あまり根詰めるなよ、と言いながら俺の肩に手を置き、清水さんは帰っていった。電話がかかってきたのは、それからしばらくしてからだった。



「もしもし? まだ仕事なん?」

「うん」

「早く帰ってきてやー。段ボール開けてしまわんと」


 そうだ、と新居を占領しているであろう茶色の箱を思い浮かべる。いざ結婚、新居となるとすでに気が重くなってしまっている自分がいる。人生の墓場の入り口かもしれない、と思った。


 そう思うなら、しなけりゃよかったのに。


 声が聞こえた。うるせぇよ。


「『すぐ開ける』って書いた段ボールあっただろ。それ先に開けて」

「うーん、うん」

「スイッチオンパーが入ってるから」

「は?」

 ゴソゴソという物音が止まる。

「なんて?」

「スイッチオンパー」

「え? なんて?」

 妻には通じないのか、という当たり前のことに気がつく。

「……リモコンだよ、テレビのリモコン」

「ああリモコン。とにかく早く帰ってきてや」


 電話が切れた。腕時計に目をやると21時を過ぎていた。机の上には未決裁の書類が溜まっていて、でも課長も帰ってしまっているのは確定的だった。早くケリをつけたいのに、借金のように負債は増えて棚の奥で蠢いている。段ボール開封作業は夜通しになるかもしれない、と思った。隣人はどんな人だったっけ。たとえどんな人でも、深夜の物音を好む人はいないだろう。

 手帳を開き、日付を確認する。くだんの日は金曜だった。有休自体は残っているが、この状態で休めるかどうかはわからなかった。何としてでも行かなければならない。たとえ本人が望んでいなくても。



 べっつにー、という甘ったれた声を反芻する。



 そうか、べっつにー、か。



 妻はあまりテレビを観ない。スイッチオンパーを奪い合うようなことは、金輪際ないのだろう。



 帰宅した時には、23時を回っていた。

「早く帰ってきてって言ったやんか」

「ごめん。仕事が」

「結構開けておいたから。テレビもセッティングして、リモコンも置いといた。こっちのラジオって何やってるんやっけ? FMトーキョー?」

「ああ」


 薄型のテレビの隣に置かれた黒いスイッチオンパーを見ながら、俺の意識は過去に向かっていった。



 お兄ちゃんも休みなよ、という声が聞こえた。これは過去の再現か、それとも現在の幻聴か判断がつかなかった。


「ちょっと! 大丈夫?」


 意識が暗転する。



 なぜリモコンのことをスイッチオンパーと言うのか、その由来は忘れてしまった。けれど、祖父がよく口にしていたことを思い出す。そう、あの日も俺はあの言葉を聞いたんだ。妹はスイッチオンパー、スイッチオンパーと馬鹿みたいに連呼して笑っていた。

「咲ちゃん、スイッチオンパー取ってくれないか」

「はいはい。おじいちゃんチャンネル変えるの」

「天気予報が見たい」

「このニュース終わったらやるよ」

「そうか。じゃあいい」

「ここに置いとくよ、スイッチオンパー」

「ああ、スイッチオンパーそこに置いといてくれ」

 スイッチオンパー、スイッチオンパーと2人は何かに取り憑かれたかのように口にしていた。暑い夏の午後で、俺は受験勉強をしていて、妹は買ってもらったばかりの携帯電話をいじくっていた、テレビは相変わらず哀しいニュースを伝えていた。いつも通りの日常だった。


 妹の携帯が鳴った。由香からだ! と満面の笑みを浮かべた。


「うん、うん、……今から? いいよ、行く行く!」

 妹は時計を確認した。もうすぐ15時になるところだった。

「友達の家行ってくる。またね、おじいちゃん」

「送っていこうか?」

「もう中学生なんだからそんなことしないでよ。それに、自転車で行くから」

 そう言っている間も、妹はまるで猫を愛でるかのように携帯電話の表面を撫でていた。

 買ってもらったばかりだからなのだろう。数秒おきにピロピロと通知が来ていた。

 妹は俺と違って友人が多かったのだ、と嫉妬した記憶がある。

「運転中に携帯触るなよ。危ないから」

「うるさいなぁ」

「待望の携帯電話なのは分かるけど、浮かれすぎるなよ」

「べっつにー。お兄ちゃんも休みなよ」



 妹は昔から俺の言うことを聞かなかった。なぜ上の兄の言うことは聞くのだろう、と不思議に思っていた。



 それが妹との最後の会話だった。新品の携帯電話は、ほんの数日で役割を失った。何度電話をかけても、妹に繋がることはなかった。



 ベットの脇に置いた時計の音で目が覚めた。でも寝室の照明は消えていて、何時か確認できなかった。そばにはスマートフォンが置いてあり、指を触れるだけで過剰なほどの光が灯った。0時を少し過ぎたところだった。

「急に倒れたからびっくりしたわ」

 妻の声が聞こえて、ベッドの中で少し飛び上がってしまった。

「ごめん」

「謝ることやないけど……無理しすぎなんちゃう? 仕事大変なん」

「ああ。ま、そのうち余裕ができるよ」

「そうやと良いけどな」



 少しの沈黙が流れた。俺は何かを話さなければならないと思ったが、うまく言葉が見つからなかった。

「そういえば」

「なんでリモコンのことスイッチなんとかって言うん?」

「スイッチオンパー」

「スイッチオンパー?」

「スイッチオンパー。フフ、スイッチオンパー、スイッチオンパー」

「何笑ってんねん、きも。私寝るからな。おやすみ」

「ああ、おやすみ」



 妻が出て行ってしまうと、静寂が俺を襲った。カチ、カチと時計の音だけが規則的に響いていた。俺は声に出さずに、スイッチオンパー、スイッチオンパーと心の中で繰り返していた。

 着信音が鳴った。画面を見ると、兄だった。



「はい」

「俺だけど」

「こんな時間にかけてくんなよな」

「すまん。夜勤のせいで時間感覚おかしくなってしまってる」

「仕事大変か」

「お前ほどじゃない」

「いやいや、俺仕事楽だよ」

 また、沈黙が流れた。次に兄が口にする言葉は分かっていた。

「……お前、咲の十三回忌来れるのか」

 ああ、もうそんなに経ったのか。

「そういや、咲の好きだったアニメあっただろ、あれ、なんて名前だったかな。あのリメイクやるらしいぞ」

「へぇ」

「お前覚えてない?」

「覚えてないなぁ」

「……そうか」

 俺は大きく息を吸い込んで、そして吐いた。

「必ず行くよ。それじゃあ」

 電話を切ると、また静寂が訪れた。咲の声が聞こえてくれればいいと思ったが、都合のいい時にあの声を聞くことはできなかった。

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