キルシュブリューテ

真崎いみ

第1話 きっといらない記憶はなかった。

『気を長くして、回復を待ちましょう。』


医師の言葉。精神科の入院施設、А棟の3階。自殺防止の鉄格子が嵌められた窓の中、羽鳥透子は収容されていた。最初は誰も透子の異変に気付かなかった。それぐらい緩やかに、だけど確実に透子の心を蝕んでいった。繊細な心は悲鳴を上げて、ある日突然それは発症した。

「誰?」

気分が悪いからと自宅の自分の部屋で休んでいた透子を母親が起こしに来たときには、もうすでに遅かった。


記憶喪失。


もどかしくて寂しい、孤独な戦いが始まる。透子の記憶は抜け落ちて、更に新しい記憶も120分しか保てないことが判明した。毎日夜を明かせば、友人知人、もう覚えていない。全てがリセットされている。自分が何者なのかもわからない不安は、透子を苦しめた。他人の前では平静を装い、だけれど影では涙が零れる、精神衛生上、バランスが崩れる寸前だった。まるで底の見えない綱渡りだ。暗い底に待つのは冷たい地面か、はたまた全てから解放される自由か。それは堕ちた者にしかわからない。

透子は山奥のサナトリウムさながらの病院に入院することになった。そして、今に至る。

透子は窓の外に手を伸ばす。伸ばしたところで何かに届くわけではなかった。ただ、目眩を覚えそうな蒼穹に手を掻くだけだった。幾度、繰り返したのだろう。もう覚えていない。好きだった人、好きだった物。全てを無くした。

「やれやれ。」

「!?」

脳に直接響くような、低い声。聞こえた場所へと視線を移すと、壁から溶け込んできたかのように人物が現れるところだった。

「随分と陰気な場所だな。」

背が高く、色素の濃い髪の毛。全身黒づくめで、精悍な顔立ちは動物としては狼を案じているかのようだった。

「…今、どこから…?」

「!」

今度は透子が見つめられる番だった。

「お前、俺の事が見えるのか?」

「え、あ…見えるけど。」

「名前は?」

「多分、羽鳥透子。」

人物が手を前にかざしたかと思うと、宙に本が一冊浮かび上がる。その本のページをぱらぱらとめくって、何かを探しているようだった。

「おかしい…。羽鳥透子だなんて名前は載っていないが。多分って言うけど、間違いないよな?」

「う、うん。何か問題でも?」

「ん?ああ。このままじゃ何が何だか、君にはわからないよな。」

無理もない、と独り言のような声が聞えた。透子は次に続く言葉を待つ。

「俺はだな、透子。死神なんだ。」

「死神…。」

「そうだ。だから、死に近い人間ぐらいにしか俺の存在を確認できないはずなんだが…。」

「私は、死ぬの?」

「いや、リストに載っていない。」

ぱたん、と死神は本を閉じる。本は紐がほどけるように、掌の中に納まった。刹那、透子の瞼の奥にスクリーンが現れたかのように、一つの単語が浮かび上がった。

「…晃?」

「!」

はたと目が合う。晃と呼ばれた死神は、驚愕に目を見開いていた。

「何故、俺の名を?」

今度は透子が驚いた。何もかもを諦めていたのに、自分にもまだ光が残っていたことを。覚えている。記憶に残っている。触れれば弾けて消えてしまいそうなほど儚い、たった一つの思い出。名前しか覚えていなくても確実に自分の過去に関係しているのだ。

「どこで出会ったんだろう…。」

透子の呟きに、晃も首を傾げる。

「それは俺も知りたいところだな。」


さりげない日々が、かけがえのないものになっていく。

相変わらず記憶は、零れて、溢れて、戻らないけど晃の名前だけは刻まれていた。ふと気付けば、傷口を塞ぐ瘡蓋のように。自分に良くしてくれていた人たちには、心からすまないと思う。でもそんな気持ちでさえも、忘れてしまうのだから残酷なものだ。

晃が透子の病室に入り浸るようになってから、三ヶ月が経った。真っ白なベッドの上に腰掛けて、透子を後ろから包むように晃は抱きしめる。

『透子はどうして、いつも悲しそうなんだい?』

『…記憶が保てないから。』

『記憶なんてものは、いつかは必ず途切れてしまうものだ。』

『大好きだった人たちの記憶も?』

『と言うことは、俺は好かれていないのかな?』

最初こそ慣れずに声に出していた会話も、今は強く思うだけで伝わることが分かった。

『そんなことは、ないよ。』

ストレートに『好き』とは言えなかったが、晃に対して抱いているのは好意であることに間違いなかった。彼はとっくに透子の気持ちに気付いているのだろう。晃の事はいつでも思い出せる。だからこそ、戻らない。戻れない。


―…いつか、晃のことまで忘れてしまったら?


その時は本当にもう、ただの生きているだけの人形になり果てるのだろう。遠くない未来を想像して、死にたくなる。ずっとこの気持ちを抱いたまま、私は生きていく。

涙が一筋、透子の頬を伝った。晃はその涙を舌で舐めとる。ぬるりとした舌は冷たくて、少しだけ気持ちよかった。親猫に舐められる子猫は、きっとこんな感じなのだろうと思った。



「晃。」

「おはよう、透子。よく眠れたかな?」

病室に着いた途端に抱き付いてくる透子を抱く。背を撫でると、透子は安心するようだ。

「今日、催眠療法をするらしいの。サイドテーブルにメモが置いてあった。」

「そうか。記憶が戻るといいね。」

「…ぃ。」

「え?」

「…怖い。」

透子の身体は僅かに震えていた。恐ろしく繊細な、透子の心。自身の身に何が起こったのか理解できない気持ちを抱え込むのは、自然なことだった。一方で時を止めた晃は少しの寂しさを感じていた。病を克服し、いつか晃の年齢を超えて透子は生きていく。きっとその途中で、晃の事を忘れていくのだろう。

「怖くない。大丈夫だ。」


『怖くない。大丈夫だ…、』


氷にひびが入るような音が晃の中で響いた。前にも同じようなことを言ったような…。

誰に向かって?

腕の中にいる、透子に。


「羽鳥さん。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。」

そう言いながら手元の懐中時計を確認し、ぱちん、と閉じた。

「それでは始めましょうか。」

医師は透子をベッドに寝かせて、ペンライトの灯りを強めたり弱めたりを繰り返した。

「ゆっくりと、同じリズムで呼吸してください。」

透子は言葉に導かれるまま、酸素を体内に取り入れる。徐々に灯りだけになる視界。とろりとした眠気にも似た感覚が、手足の先から痺れるように襲ってきた。重くなる目蓋は重力に逆らえず、ゆっくりと閉じられる。透子の様子を見て、医師がタイミングを見計らい質問を投げかけてきた。

「貴方が、一番楽しかった思い出は何ですか?」

「…わかりません…。」

「貴方が、一番嬉しかった思い出は何ですか?」

「…わかりません。」

「貴方が、一番哀しかった思い出は何ですか?」

「…。」


「貴方が、一番つらかった思い出は何ですか?」

「わからな…、」


刹那、透子の脳裏にモノクロの記憶がカメラのフラッシュのように、焼き付けられた。


揺れる機体。

轟音と悲鳴。

そして戸惑う自分を、優しく包み込む広い胸。

『怖くない。大丈夫だ…、』

窓の向こうに陸地が近づいてきた。スピードは緩まない。


『俺が、君を守るから。』


「私なんか…、守らないで…。」

閉じられた目蓋から涙が溢れだす。頬を伝い、耳の奥に熱く届いた。

「貴方を守る人の名前はわかりますか?」

医師の問い掛け。透子は静かに眼を開けた。


「…晃…。」



『飛行機事故。緊急着陸失敗。乗員・乗客、104名死亡。生存者、18名。』


翌日の新聞に躍り出た見出し。

透子は生き残り、目が覚めた時にはすでに病院に居た。

「ここは…、どこ…?」

傍らに控えていた両親が、目に涙を溜めていたことに気が付いた。

「病院だ。良かった、生きてて…っ。」

「晃は?」

「晃…?あ、ああ。お前を庇ってくれた彼は…、」

言いづらそうに、迷いを含んだ父親の視線は下に向く。透子の心にぽつり、ぽつりと黒い染みのような不安が広がった。

ぱちん、とテレビが消えるように記憶はそこで途絶えた。


「どうして泣いているんだい?」

「…。」

言葉が見つからず、ただ涙を零す透子を見て、晃はしゃがみ込んで下から見上げる。そうすることでようやく目が合った。

「…透子。」

「晃は、僕の所為で死んだの。…ごめんなさい。」

透子の告白に晃は、ただただ、驚くばかりだった。そして思い出す。

死神になる、寸前の記憶を。

「…透子。ごめん、苦しかっただろう。」

「…。」

晃は透子を抱き締める。最後の瞬間のように、強く。でも優しく。

「生きるんだ。透子。」

晃は自分の胸に収まる、大切な存在を慈しむ。突き放すわけじゃない。今が、決別の時と言うだけ。晃の足元から金色の光が現れる。光は二人を包み込み、温かい何かが満ちていく。その光が溶けていくように、晃の姿を溶かしていった。その姿を透子も気付いた。

「嫌。嫌!晃、まさかこのまま…っ。」

「大丈夫、きっとまた会える。」



晃には、まだ会えてはいない。だけれど、自然と寂しくはなかった。『きっとまた会える』から。

安室の家の前には、桜並木がある。ただ一本だけ、狂い咲きの桜があった。雪と共にちらちらと舞う花弁は、とても美しい。

仕事の帰り道。透子は桜を見上げていた。呼吸さえ忘れてしまう。とても寒い日で、墜落事故の時と同じだった。

ざり、と砂利を踏む音に透子が振り返ると。

そこには。


晃が立っていた。


「…透子。」

「晃…?」

死んではいなかったのだ。

晃は事故後、植物状態と化して病院の点滴に繋がれていた。そして死神の記憶を手に、覚醒した。それからは、すっかり弱った足の筋肉を鍛えるリハビリを続けていた。

「歩けるようになったから、会いに来た。…言っただろう?また会えるって。」

死神は、人のために魂を犠牲にしたものがなるらしい。

「…生きてる…?」

「触ってみるか?」

赤井は安室の手を取って、自身の胸に宛がった。温かくて、心臓の鼓動が伝わってくる。

温かい。

生きてる。


一番目に嬉しい記憶は、あなたが生きていたこと。


二番目に嬉しい記憶は、あなたと共に生きていけること。



END.

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キルシュブリューテ 真崎いみ @alio0717

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