レライエ

植物学者は背中から落ちた。

 ……そこには、穴があった。甘い風が、僕の顔に吹き付けてきて、僕は思わず咳き込んだ。


 未開のジャングルを三日、岩肌露な険しい山道を更に三日。文明の手が届かないヤトゥラ山の中腹に、穴があった。


 僕が落ちるための穴だ。

 ヒトが落ちるための、穴だ。


 何の穴なのか知らない。

 誰がどうやって開けた穴なのか、この世の誰も知らない。


 いつ開いた穴かも判らない。

 いつから開いていた穴かも、判らない。


 とにかくそこには穴があり、僕は長い旅路の末に漸く辿り着くことが出来た。


 圧巻、の一言だ。


 僕の生まれたあの村くらいなら軽く覆い尽くせるくらい、穴は大きい。一日休まず歩いてどうにか一周できるかどうか――ここまでさんざん歩いてきたのだ、試してみたいとは思わないけれど。

 ゴツゴツとした赤い岩が辺りに転がる中、ぽっかりと口を開ける大穴の偉容は、実に幻想的だった。


 僕はゆっくりと穴に向かおうとして、瞬間、何やらごてごてしたシルエットに気が付いた。

 人影も、僕に気付いたようだ。

 挨拶するように片手を挙げると、足早にこちらへと向かってくる。


 ガチャガチャと金属の擦れ合う音に、僕は顔をしかめた。


 人影の格好は、ひどいものだった。


 バケツを逆さにしたような兜をすっぽりと被り、両手には金属製の小手ガントレット、両足には分厚いブーツ。オーバーオールの隙間からは、鎖かたびらが覗いている。

 一切皮膚が露出していない完全防備の服装は、相当の年代物らしくひどく汚れている。小手も兜も赤黒い錆がそこかしこに浮かんでいて、オーバーオールは元の色が判らない程だ。


 珍妙な格好の中でも人影の左手に、僕は身構えた。そこには、衣服と同じくらい錆びついた鉈が一振り、無造作に握られていたのだ。


 鉈を携えた得体の知れないバケツ頭は、幸いにも三歩ほど間を空けて立ち止まった。


「いらっしゃいませようこそ」

 見た目に反する歓迎の言葉に、面食らう。「観光ですか、それともまさか、道に迷われましたか?」

「いいえ、僕は……」


 穴に落ちに来ました。


 そう言うと、バケツは揺れた。笑ったのだと、僕は何となく思った。


「そうですか、それは良かった」


 兜で反響した声は、何とも詰まらなそうに聞こえた。


「というのも穴はついさっき、開いたばかりなんですよ」

 僕は首を傾げた。「普段は、閉じているんですか?」

普段かにも寄りますが、えぇ、以前は千年に一度開く他は閉じていたと聞いています」

「そんなに?」

「嘘か真か、です。私が見ていたわけではありませんから」


 歴史って、大袈裟に伝わるじゃあないですか。

 バケツ頭は向きを変え、ついて来い、と言うように歩き出した。


「どうぞこちらへ。穴はしばらく開いていますから、今日のところは準備していただきます」

「準備?」









「歴史的な習わしというやつです。穴に落ちる前に、一晩、身を清めてもらいます」


 アリシア、と名乗ったバケツ頭は囲炉裏の炎に鍋を掛けた。

 重装備を外した彼女は驚いたことに女性であり、更に驚いたことに、僕や妻よりも五つ以上若く見えた。


「君は、番人なのか?」

「えぇ。番人であり、案内人であり、世話人です。穴に関わる殆んど全ての雑事が、私の担当であります」


 先程は掃除と収穫です、とアリシアは笑った。


「つくづく良いタイミングで参られましたよ、あなた様は。昨日は丁度行商が来て、新鮮な肉を仕入れたのです」

「行商、こんなところまで?」

「それもまた慣習です。穴が開いていないときに来てしまった人のために、生活必需品を持ち込むのです」


 まな板の上で、アリシアは生肉の塊を豪快に切り刻んでいく。肉切り包丁は幸い、他の金属製品よりは清潔な輝きを放っていた。


 僕は、回りを見回した。


「ここも、そのためにあるのかな」


 アリシアが僕を案内したのは、古びた見張り小屋だった。

 使われている丸太はところどころ腐っており、また、ところどころは真新しい。恐らく、修繕に修繕を重ねて使い込んでいるのだろう。


「最低でも一晩は、準備が必要ですからね」

「その草は?」

 煮えた鍋に肉を放り込んだアリシアが続いて刻み始めた植物を、僕は見詰めた。「見覚えの無い植物だ」

「この辺り、穴の周りにしか生えない草です」

「興味深いな」

 僕はこれでも植物学者だ、こうした特殊な環境での植物の成長が専門である。「サンプルを採らせてもらえないか?」


 ダンッ!

 大きな音に、僕は口を閉ざした。


「質問が多いですね、あなた様は」

 包丁を引き抜いて、アリシアは僕を睨む。「まさか貴方は、?」


 草を潰したためか、鼻孔をくすぐる甘い香りが立ち込める。

 それを吸いながら、僕は慌てて首を振った。


「そんな、まさか。僕はただ、ただ穴に落ちに来たんだ」


 何かを調べたり、知るために穴に落ちようだなんて、そんな不敬なことを考えたりしていない。舌をもつれさせながら力説する僕に、アリシアは暫く警戒するような視線を向けてから、ふう、と息を吐いた。


「それなら、良いのです。穴はただ落ちるためのもの、何かのためとか、何かのせいとか。そういうしがらみは、不純物です」

「あ、あぁ……」

「失礼しました、最近は、原始的な宗教観に生きている方が多くて困ります」


 さあ、どうぞ。

 差し出された椀を受け取りながら、僕は思わず汗を拭った。

 湯気と共に昇る甘い香りが、僕の心を落ち着かせてくれるようだった。









 次の日、僕は穴の縁に立っていた。


「そこに橋があります」

 僕の背後で、例の装備に身を包んだアリシアが淡々と説明する。「手すりはありません、先端まで行っても、途中でも、何処から落ちても構いませんから」

「落ち方に、作法はあるのかな」

「いいえ、特には。全ては貴方の自由です」


 そうか、と僕は橋に足をかけた。

 古いが、しっかりとした板の感触がダイレクトに伝わる。


 今の僕は、履き慣れた登山靴を履いていない。裸足である。

 着ているものも、習わしとしてアリシアに渡されたものだ――簡素なローブで、軽く、何の装飾も付いていない。


 リュックもピッケルも、アリシアの足元に置いてきた。

 落ちるのに登る道具は要らないし、そもそも落ちる人は金属を身に付けてはならない決まりだという。

 世界各地、珍しい植物を探す旅に出て以来、こんなにも身軽なのは初めてだった。


 一歩、また一歩、僕は慎重に歩を進める。


 落ちるために来たのだから落ちたって構わないのだが、どうせここまで来たのだ、気に入る場所から落ちたい。

 歩きながら、僕は祈っていた――穴に対する祈りだ、この雄大で偉大な穴に落ちることのできる我が身が、とても誇らしい。

 ローブからは、あの甘い香りが漂ってくる。とても満ち足りた、幸せな気分だった。


 ――


 彼女、僕の太陽、僕の月。

 ジャングルの途中で熱を出した妻は、山の麓の村で僕を待っている。本当なら一緒に来て、特殊な植物を共に探すつもりだった。


 先端に、辿り着いた。

 穴からも、甘い風が吹き付けてくる。僕の悩みは跡形もなく消えて、僕は幸せな気分になった。


「上を見るよ」

 振り返り、僕は言った。「空を見ながら、僕は落ちたいんだ」

「えぇ、宜しいでしょう、全ては貴方の自由ですから」


 僕は頷くと、両腕を広げた。

 そのまま、ベッドに倒れ込むように背中から、穴へと落ちていった。


 僕は幸せだった、そして空を見上げた瞬間、僕は長い長い悲鳴を上げた。









『植物学者は背中から落ちた。彼は最後に星を見たが、彼の月を見ることは出来なかった』

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