第26話 10/25 あの赤の馬印は、真田幸村で御座いますぞ!(後日談有り)

 一方、数で圧倒する徳川方の本多忠朝は、物見遊山だった。


 「あれを見るがいい。何も出来ず、身を潜めておるわ。ここは一つ、揺さぶってやるか」


 その行動に真田隊に緊張感が走った。


 「殿、松平、本多勢がこちらに向かって進撃して参りました」

 「まだ動くでない」


と、真田隊は、策に重きを置き耐えていた。最前線に到着した本多勢の鉄砲隊が、豊臣方を誘き出そうと一斉に威嚇射撃を開始。それに業を煮やした毛利勝永は、


 「もはや、狼煙の合図など、待てぬ、出陣じゃ」


 勝永指揮下の寄騎は、銃口を本多忠朝に向けて放った。

 狼煙の合図とは、豊臣方の策。徳川方を四天王寺の狭隘な丘陵地に引きつけ、解隊し順次叩く。敵を四天王寺に丘陵地に引き寄せ、横に広がった陣形を縦に変えさせ、それによって、本陣が手薄にさせる。そこで、別働隊の明石全登を迂回して、家康本陣に突入させる。それが叶わない場合、別働隊が、敵本陣の背後にまわった所で狼煙を上げ、それを合図に前後から敵を挟い場所で攻撃する。そして、宿敵、家康を討つ。と、言うものだった。


 「殿、毛利勢が出陣いたしました」

 「なんと、毛利殿は何ゆえに待てぬのか…」


 幸村の思惑とは裏腹に、東西の戦いの幕は切って落とされた。豊臣勢の体制が整う前の合戦開始。狼煙を待っての攻撃の策が、破綻のほころびを見せた。合戦はこれまでにない、兵力と火力がぶつかりあった。戦場は、幾多の誤報、噂が飛び交う混乱を見せていたので御座います。

 豊臣方・毛利勝永勢は、徳川方・本多忠朝を討ち取り、先鋒本多勢を壊滅させた。

本多隊の敗北に家康は、業を煮やしていた。


 「何をしておる。えええい、もう容赦はならぬ、一機に叩き潰せぇー」


 激怒した家康は、最前線に本隊である小笠原秀政、忠脩勢を駆けつけさせた。


 「申し上げまーす。殿、家康本隊が動き出しました」

 「それを待っていた、出撃じゃ」


 幸村も参戦を決断した。家康の差し向けた小笠原秀政、忠脩勢は、毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明らによって、側面からの攻撃を受け、小笠原忠脩は討死。小笠原秀政も重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。

 二番手・榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ壊乱。これらの徳川方の先鋒・本多、二番手・榊原らの敗兵が酒井家次の三番手に雪崩込んできた。

 家康は高台に陣取って、戦いを見ていた。よもや苦戦するなど考えもしなかった徳川方は、苦戦を強いられ、混乱の渦の中に陥っていたのです。

 鉄壁に思えた軍勢は、砂城が崩れるように陣形が崩れ、家康本陣は、瞬く間に無防備となっていった。しかし、家康は合戦に興奮していたのか、自らの陣営が手薄になっていることに気づいていなかったのです。

 

 松平忠直勢15000は天王寺口にいた。忠直は、功を焦っていた。その目前に、徳川家を幾度も悩まさせた隊がいた。


 「あの赤の馬印は、真田幸村で御座いますぞ」

 「おう、天が私に下さった好機であるぞ」


 やるか、やられるか、その戦が真田隊を飲み込んでいった。幸村は即座に対処し、隊を先鋒、次鋒、本陣など、数段に分けた。幸村は多勢の松平忠直勢と天王寺口で一進一退の激戦を展開。しかし、劣勢であることは変わりなかった。


 「若様、このままでは本願成就は難しいことになりますぞ」

 「何か手立てはあるまいか…」


 そこへ幸村配下の戦忍びが駆け込んできた。


 「幸村様、浅野長晟が松平忠直軍の備えの跡を通っておりまする」


 浅野長晟は今岡より兵を出し、松平忠直軍の跡を追って軍を進めていた。それは、戦場にいる者からはそのまま直進し、あたかも大坂城に向かっているように見えた。


 「それは使えるかも知れない。忍びに申し付けよ。浅野長晟は徳川を裏切り、大坂城に入ると」


 忍びは敵味方が分からない足軽に偽装して、虚報を流した。


 「浅野が裏切ったぞー」

 「何、浅野が逃げただと」

 「浅野が攻めてくるぞー」

 「紀州殿の裏切りか」

 「浅野殿の寝返りか」


 その支持は、たちまち徳川方に動揺を与えた。それに特に反応したのが松平忠直勢だった。


 「裏切りなど、許してなるものか」


 忠直は真田勢との戦いより、一路、大坂城を目指した。その混乱の隙をつき、真田隊は松平勢を突破し、毛利隊に苦戦する徳川家康本陣に向かった。


 浅野の裏切りの噂で動揺を隠せない徳川軍を見て「今じゃ、目指すは家康本陣、参るぞー」。幸村の号令で真田隊は一機に家康への強行突破に挑んだ。まず幸村は越前、松平勢と激突した。それを見ていた家康は「なかなかやりおるではないか、真田の小倅目が」と、まだ物見遊山の気持ちでいた。(幸村は四十半ば。それでも、家康から見れば、幸村の父・昌幸の息子という印象が強かった)。幸村には、策があった。決死の強行突破にあたって、まず自らが囮になり、別部隊が、家康の後方から襲撃するものだった。口では強がっていた家康の心境は、穏やかでなかった。その目先に幸村は、存在感を固辞した。家康の警護隊は、その幸村に立ち向かった。その時だった。四方から出現した幸村の影武者数名に警護隊は、混乱の渦の中に叩き込まれた。たちまち隊列は乱れ、警護どころではなく、狼狽えるだけだった。

 幸村の影武者たちは、家康を警護する兵の多くを引きつけた。幸村の思惑通り、家康の警護は手薄になった。迫り来る幸村の殺気。


 「おおお、攻めて来るぞ、攻めてくる…」

 「ここは退却を。お急ぎくだされ」

 「馬印を下げー」


 家康一行は、幸村と一定の距離を取りながら、追っ手から、必死とも思える形相で逃げ出した。


 「急ぎなされー、真田が攻めてきますぞ」


 真田隊は、警護隊を強行突破し、家康を追い詰めた。


 「更に、距離を取れー」


 家康は、警護の数が減る度に死の恐怖に怯えた。真田勢の攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。戦意を失った約500名の旗本が戦線離脱。旗本の中には三里も逃げたという者もいた。混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した。その際、旗奉行は不覚にも家康を見失ってしまった。

 後にこの旗奉行は、詮議され、閉門処分となった。「馬印も打ち捨てられた」と大久保彦左衛門忠教は自伝に書いた。「浅野長晟裏切りの噂のために裏(後方)崩れが起きた際、両度までも、はや成るまじと御腹をめさんとあるを…」と戦記にある。


 天王寺・岡山での最終決戦の朝、徳川家康は本陣に馬印を置き、自身は白い小袖を着て玉造方面の谷間に入った。家康は、死を覚悟していた。家康は、詮議され、晒し者にされる屈辱を恥じた。威厳を損なう。それは、自己否定であり、決して認めたくなかった。


 「もう、駄目じゃ。駄目じゃ。捕まって恥を晒す。ならば、恥を晒すより、儂は自害する」

 「何を弱気な。勝敗は期しておりませぬぞ」

 「そうですとも、敵方にも負傷者が多く出ておりまする。救援隊がつくまでの辛抱で御座いますぞ」


 騎馬で逃げる家康自身も切腹を口走る始末。家康は、二たびも自害しようとした。

それを黒衣の宰相と呼ばれた二人の僧侶・金地院崇伝と南光坊天海が身体を張って、必死に制止したので御座います。


 九死に一生を得た家康らは、常に同行していた探偵の導きにより、安息の地に辛うじて辿り着くことができた。探偵らは、真田勢を幸村同様に家康の影武者と馬印を用いて攪乱していた。探偵らの多くが犠牲になった代償の命拾いだった。


 天海は、本陣についてすぐに、本多勢と毛利勢が合戦に突入した。真田勢に突き破られた酒井・内藤・松平などは「固まれー、それにて敵を包囲しろ。離れるでないぞ」と号令を掛け、急ぎ体勢を立て直していった。

 豊臣方による損害は思ったより少なく数で勝る幕徳川方は、援軍の到着もあり、戦局を挽回し始めた。

 大和路勢や一度は崩された諸将の軍勢も、陣を立て直し、豊臣方を側面から攻め立て始めた。次第に、真田隊、豊臣方は逆に詰められていった。


 「若様、ここは一機に家康の首を」

 (真田十勇士とよばれた者にとって、幸村は若様だった)

 「…。無念、無念なるぞ…」

 「若様」

 「見ろ、皆、疲れきっておるわ。ここは引こうぞ」

 「若様…」


 十勇士は幸村を取り囲み、幸村の胸の内を察した。


 「皆の者、体制を立て直す。無駄に死すは真田にあらず」


と、高らかに指示を伝えた。幸村らは、失意を抱え、重き足取りを大坂城へと向けた。幸村は、休息を取れる場を探していた。夢も希望もない帰路に、ひと足毎に膝が崩れそうだった。辿り着いたのは、茶臼山の北にある安居神社だった。


 「皆の者、ここにて、しばし休まれるが良い」


 兵たちは、重い腰をつるべ落としの如く、その場に沈めた。


 「才蔵(雲隠才蔵)、若様はどうされるつもりかのー」

 「甚八(根津甚八)、決まりきったこと言うな。家康の首を討ち取るのみよ、そうじゃろう小助(穴山小助)、そなたもそう思うじゃろ」

 「儂らもそう思うぞ。援軍さへ来なければ、間違いなく、家康の首はこの手にあったはず」

 「そうよ、そうよ」


 三好清海入道、三好伊入道は、息を荒げて、自らの手を眺め、力強く、握りこぶしを作ってみせた。


 「しかし、何故、秀頼殿の出陣が適わぬのだ」


と、望月六郎は、合点の行かない疑問を口にした。


 「そうよな、元はと言えば豊臣の戦。ならば、何故ゆえにその総大将である秀頼殿が出陣せぬのか…分かり申せぬわ」


 由利鎌之助は、握りこぶしを膝に叩きつて悔しそうに言った。


 「まぁ、豊臣には豊臣の事情と言うものが、御座いますのでしょう」

 「十蔵(筧十蔵)、何を言う」


 三好清海入道は、十蔵に食ってかかった。それを制しながら、海野六郎が割って入った。


 「十蔵が言いたいのは、豊臣など頼りにならぬ、この戦は真田の戦であると、言いたかったのじゃ、のう十蔵」

 「豊臣が我らの申し出を聞き入れておれば、戦況は如何せんじゃ」


 十蔵は、憤りに任せて、言い放った。一同は、その無念さに鉛のように重たくなった体と心を憂いだ。沈黙が、闇を包んだ。ぱたぱたぱた…。数羽の鳥が繁みを突き破った。


 「脅かすな、うん、若様の姿が見えぬが何処へ」


 雲隠才蔵が、重い空気を平静に戻した。


 「幸村様は、一人になりたいと言われて、姿を消されました」


 幸村の付き人のような役割を果たしていた、猿飛佐助が言った。


 「よもや、若様、失意のあまり…」

 「鎌之助、取り越し苦労がすぎるぞ」

 「そうじゃ、そうであれば、討ち死に覚悟で家康本陣に突き進んでおるわ。こうして、休息するは次なる戦への望みを思ってのこと」

 「悪かった悪かった、許されよ、許されよ、ほれこの通りじゃ」


 そう言って鎌之助は、大袈裟に頭を垂れて見せた。一同が一抹の不安を抱えていた中での確認行為だった。口にし、皆がその不安を払拭するための確認だった。皆が同じ心であることを改めて認めあった上で、いまこのひと時は、和みとなっていた。

 

 真田十勇士たちが休息と心を交わす頃、幸村は、安居天神の前に、ひとりでいた。

木々を擦りぬける風の音、山の匂い、静寂に幸村は包まれていた。幸村は家臣の前では気概を見せていたが、真意は、絶望と憔悴で立つことも適わない程、疲れきっていた。安居天神の祠の前に、ゆったり鎮座し、誰と話すでなく、淡々と、見えぬ相手に語りかけていた。


 「これでよかったのかも知れませぬぞ、父上…。誠を申せば、無念の一言…で御座いまする。なれど、家康を追い詰めた武将の一人として、天下に真田家ありを知らしめたのでなかろうか。これで、家康の天下となっても、兄上とその子らが立派に、真田家を守ってくれることでしょう。家康を傷つけなかったことが幸し、肩身の狭い思いを掛けた兄上にも幾分かの慰めとなりますでしょう…そう、願っておりまする」


 幸村は、回想していた。眼下に雲霞の如く群がる関東方の軍勢。それを真紅の甲冑に身を包み、真田丸、茶臼山から眺めていた。幾多の戦が走馬灯のように流れては消えていた。


 「思い起こせば、九度山の蟄居先で父上が世を去られたのは、もう四年も前になりますな。臨終間際、父上は、徳川と豊臣が手切れとなった時の豊臣必勝法をそれがしに語られましたな」


 「父上が語られた必勝法は、全国を巻き込む大戦でしたな。それは、父上であればこそ、実現させられたやも、ですよ」


 幸村は当時のことを思い出し、薄笑いを浮かべていた。


 「私は父上ではありませぬ。また、全国を巻き込む戦を民は最早望みますまい。それは、関ヶ原で家康に挑んだ義父上、治部殿も同じ思いのはず。あくまで豊臣政権を支え、世の安寧を守るために、石田三成、大谷吉継は起ったのですから…」


 幸村は、懐かしいふたりの温顔を思い浮かべていた。


 「それがしは、父上のように全国にいたずらに戦火を広げずして、この大坂周辺で家康と雌雄を決するのが望むところでした。如何でしたか、父上。父上直伝の真田の兵法、天下に知らしめたのではないかと…そう、受け止めてくだされ」


 意気消沈した幸村の記憶に、鮮明に蘇る場面があった。


 「我らが目指すは家康の首ただひとつ、遅れを取るでないぞ」

 

 勇ましく鼓舞する自分自身の姿だった。いまは、その面影もなかった。項垂れた幸村を睡魔が襲ってきた。前のめりに屈しようとした時、木々を突き破る鳥たちの羽ばたく音で我に戻った。茂みの中を彷徨う男がいた。真田家に仕えていた下級武士・向井佐平次だった。佐平次は、戦の最中、群れから離れ、死に場所を探していた。そこに一頭の馬の足音が聞こえた。耳を澄ましたが、その他に足音は聞こえなかった。馬に乗るのは上級武士、それもひとりで。佐平次はその主を確認するために近づいた。

敵方であれば、一矢報いようと考えたからだ。馬は木に繋がれていた。そっと近づいてみると、幸村の矢倉ではないか。孤独と死の狭間で見つけた一筋の光だった。


  「幸村様、幸村様でありますまいか」


  その声のする方に幸村は振り向いた。幸村にとって、聞き慣れた声だった。


  「幸村様」

  「おお、佐平次ではないか、如何しておった」

  「隊とはぐれ、死に場所を探しておりました」

  「そうか、そうか、近くに寄れ、ほれ、ここへ」

  「無念で御座います…」

  「そうよな…。何もかも終わった」


  佐平次は、幸村の懐で嗚咽を漏らしていた。そこに、複数の慌ただしい足音が静寂を切り裂いた。再会を果たした真田幸村と向井佐平次の前に現れたのは、徳川勢の追っ手たちだった。佐平次は幸村を庇うように立つと、槍先を追っ手たちに向けた。


 「大坂方じゃぁ」


 佐平次の問いかけに返事はなかった。敵方と確信した佐平次は、常軌を逸して、槍を突き出し、追っ手たちに目掛けて飛びかかった。乾いた銃声が数発、木々を騒がせた。幸村の目に飛び込んできたのは、銃弾を間近に受けて倒れこむ絶命寸前の佐平次の姿だった。佐平次に近づこうとする幸村に、追っ手たちの銃口が向けられた。

 

 「静まれー、静まりなされー」


と、幸村の恫喝は、緊張感を静寂と変えた。


 「手向かいは、いたさん」


 幸村の迫力に押され、兵たちは、小刻みに震えていた。幸村は、重い体を引き摺り、佐平次の元へ近づいた。佐平次を抱えると幸村は優しく語りかけた。


 「以前、汝とは共にに死ぬような気がすると申したのぅ」

 「ゆ・幸・村様」

 「それが誠となったのう、死ぬる場所は同じじゃぞ」

 「ゆ・幸・村様」


 佐平次の命は幸村の手の中で散った。幸村は、佐平次の亡骸を抱えながら、自らの定めを悟った。


 「どなたか知らぬが、手柄とされよ」

 「名は…」

 「真田左衛門之助幸村」

 「な・なんと…」


 追っ手たちはその名を聞いて、たじろいだ。大物だったからだ。


 「其れがしは、松平忠直家臣、鉄砲組、西尾仁左衛門と申す」


 それを聴き留めると、


 「兄上、左衛門之助幸村は、かく相成りました。父上、これでよろしゅうございますな」


 そう言い残すと幸村は、自ら命を絶った。真田左衛門之助幸村、四十九年の生涯をここに閉じたのだった。幸村の首を討ったという知らせはすぐに広まった。直ちに、その首が幸村のものかどうか、大将が確認する首実検がなされた。首実検には、幸村の叔父にあたる真田信尹が呼ばれた。信尹は、じっくりとその首を検証して「人相が変わっており、分かり申さぬ」と、場の空気を読めない返答を行った。更に、首を持っていた西尾仁左衛門を見て仰天した。声には出さなかったが「こんな男にあの幸村が…有り得ますまい。本当にこの首は、幸村なのか疑わしく思えてきたわ」その疑惑は、他の武将も同じように抱いていた。それでも、兜での確認や首の口を開け、欠けていた前歯二本を確認し、幸村であると判断したのだった。


 〈幸村を討った男〉となった西尾は、家康から尋ねられた。


 「それで、幸村の最期はどうだったか」

 「誰とは存じませんでしたが、人間業とは思えない奮戦ぶりで戦う男を見つけたので、あれやこれやと、なんとかして最後にどうにか討ち取れたので御座います」

 「有りの侭を語るが良い、もう良い、大儀じゃった、下がれ」


 家康は、叱責しつつも西尾をとにかく褒めて退出させた。西尾の姿が見えなくなると、家康は笑ってみせた。


 「…まあ…幸村ほどの男があやつごときと戦って、「あれやこれや」で討ち取られただと、そのようなことはあるまいな…。武道に通じぬ者の申し様じゃわ…」


 家康は、西尾の話を全く信じなかった。細川忠興などは、戦後に国元に送った書状の中で、「古今にこれなき大手柄」としつつも、「負傷し、草むらに伏していたところを討ち取ったわけだから、手柄でもあるまい」と、残している。更に、幸村に関してもこう残してる。「徳川家の旗本は逃げない奴のほうが少なかった。その中で幸村の戦いぶりは見事だった」と書くなど、徳川軍についていながら、幸村を賞賛した。


 首実検には「幸村の首です」として、別人の首が差し出されていることが多かったこともあり、家康は、真田信尹に確認させた。その真田信尹は、それっぽい首があれば一件落着させる為、「これぞ甥の首でござる」と、言えばよいところを、生真面目さからか「死んでいると、人相が変わってしまうので、幸村か確認しろって言われても…難しゅ御座います」と、言い出す始末。「死んでいても、甥の顔くらい判別つくだろ」。幸村が生きていたら気が気でない家康は、この信尹の発言に苛立ち、不機嫌になったのも当然のことだった。「信尹の真面目さが仇となりよったわ」と、怒りを隠せないでいた。

 戦国武将には影武者の存在は、当たり前。事実、家康を追い込んだ時も複数の幸村の影武者が存在した。しかし、体格、顔立ちまでが瓜二つの影武者がいたのかは定かではない。だからこその影武者だから。不思議なのは、安居天神で幸村が絶命する前に向井佐平次が数発の銃弾を受けて絶命した時のことだ。銃声は、付近で休息する真田衆に聞こえないはずがない。銃声のする方向に馳せ参じて入れば、幾ら鉄砲隊と言えども山の中。接近戦となれば、真田隊の勝ち目が濃厚。仮に真田幸村の命を救えなかったとしても、その亡骸を人目につかないように葬るのは戦国の世では必定。真田の死を誰もが疑った。話を聞けば聞くほど、合点のいかない事実が浮かんできた。弱りきった幸村を鉄砲隊が討つのは有り得る。しかし、付近に真田衆がいる限り、容易く幸村の首を持ち帰るのは難しいのではないかと思われた。それを持ち帰らせた。それは、影武者の首であったから、西尾仁左衛門らに追っ手が掛からなかったのではないのか。最早、真実は、闇の中に深く沈み込んでいた。

 貧しい山奥での暮らし、白髪が増え、背も曲がり、歯も抜け落ち、加えて、激戦の最中での変貌も真田信尹の判断を鈍らせていた。「真田幸村は、生きている」そんな噂は面白おかしく、密かに広まった。西尾仁左衛門(西尾宗次)が主張する幸村の首を家康に届けた。その際、家康は誇張報告をした西尾を叱咤した。家康にしてみれば、自分を死の淵に追い込んだ相手がこんなにも容易く、討ち取られるなど、信じがたいことだったからだ、いや、無念にさへ思えていた。名だたる武将には、それに相応しい死に様と言うものがある。それがこのような結末を迎えること事態、家康は、認めたくもなく、許せないものだったので御座います。


 幸村を討ち取った喜び、安堵感よりも、その不甲斐なさを自分のことのように思い馳せらせ、落胆していた。家康の怒り、苛立ちは、幸村死す、の事実を突きつけてきた西尾仁左衛門に向けられた。漁夫の利で得たような功績を、家康は無視しようと思った。その思いは適わない事態にまたもや心を痛めた。直前に、同じ越前松平隊所属の野本右近が、首を持参し、それに褒美を与えていたため、建前上、仕方なく、公正を期するため、同様の褒美を与える羽目になった。

 下級武士の名誉など正直取るに足らず。しかし、それを家臣に持つ大名への配慮は別だった。「真田の小倅は、不運な最後を遂げよったわ」。戦場で逃げ惑う名前だけの武将も少なからず存在した。だからこそ、勇敢な武将を家康は敬意を払い好んだ。

 事実、幾度も手を変え品を変え、幸村を傘下に収めようとしていた。手に入れたくても、手に入らない。とかくこの世は思うようにいかぬもの。その歯痒さゆえに、その思いは過度に募っていった。

 敵ながら、戦略も、その勇敢さ、家臣の優秀さを認める幸村の最後の不憫さを家康は、隠せないでいた。西尾仁左衛門は、徳川家康及び秀忠からは褒美を、松平忠直からは刀などを賜り、700石から1800石に加増された。


 ※さて、真田幸村の件は、これにて一件落着…とはいかないのが歴史の奥深さ。幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』。しかし、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には、幸村の兜首が3つも出てきたと記されている。

その中で、西尾仁左衛門(久作)のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされた。

 しかし、『真武内伝追加』によると、実は西尾のものも影武者・望月宇右衛門の首であったとのこと。西尾の主人・松平忠直は、将軍秀忠の兄・秀康の嫡男であり、その忠直が、幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかった、と記している。豊臣秀頼の薩摩落ちを伝える『採要録』は、秀頼とともに真田幸村や木村重成も落ち延びたと記し、幸村は山伏姿に身をやつして、頴娃(えの)郡の浄門ケ嶽の麓に住んでいたという。幸村の兄・信之の子孫である信濃国松代藩主の真田幸貫は、この異説についての調査を行った。その結果報告を見た肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山は、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」

と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。鹿児島県南九州市頴娃(えい)町には幸村の墓と伝える古い石塔があり、その地名「雪丸(ゆんまい)」は「幸村」の名に由来するという後日談もある。


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