第13話   性格

    『 性  格 』              (没13)

 私も見事に騙されたが、「いかに羊の衣を被ろうと狼の本性は隠し通せない」ように、山・Iのあの激昂は結局、迷コメディアン(横・N)の猿芝居だったという実に冴えない落ちで終幕した茶番劇から、私はかつて友と交わした論争を思い起こした。

 大学生の頃、私は無二の親友となった彼のボロアパートの一室で安いウィスキーを飲みながら、彼と様々な事について論じ合った。三島の死や永山事件の判決など、硬派の問題になると、互いの酒量が増えると共に血量までも急上昇して激論になり、たびたび隣室の人に「うるさい」と怒鳴られた。

 中に『性格』の論争があった。私は自らの意図しない生活環境の激変や事件・事故などの外的要因による以外、性格というものは完成された彫刻と同じで「ロダンの考える人が永遠に考え続けなければならない」ように、一旦形成された性格は一生変わらないと主張した。友は仮に自分の嫌いな性格に気づき、それを変えたいと願う強い意思があれば性格は変わると言い、そこが人間の人間たるゆえんで、ロボットや他の動物には成し得ない人間の特異な能力さ・・と微笑んだ。

 私は高校生までの自分の性格が好きではなかったので、彼の論に従って『自己改革』に挑戦した。そして(もちろんかつての雰囲気は残しつつも)過去の私しか知らない友人が私の振るまいや話しぶりを見て、多大な好奇心と疑いの眼で驚きの失声を漏らすさまに、私は一人ほくそ笑んだ。

 ところがわが子たちに以前の私と同じ性格を見出したり、あるいはふとした切っ掛けでかつて嫌った自分の性格に気づいた時、性格というものは一時的には変えられても、「ジキル博士とハイド氏」のように全く逆の性格に変えることはできないと悟った。

 恐らく私が変わったと喜んだ性格も実は生来併せ持っていたもので、たまたま私がそれに気づかなかっただけの事に違いない。そして大学生になって変わったのではなく、徐々に賢くなった私が性格の対処法を身につけて自分の中の良い面を見つけようと試みた為に変わったように見えたのだろう。

 長じて自らの意識で修得したものは後に変更修正も可能だが、環境や様々な要因によって長い月日を経て物心がつく年頃までに熟成された性格は、「三つ子の魂百まで」という慣用句が示すとおり、容易に変わるものではない。三歳児と言えば、ようやく他者と会話ができる年頃で、未だ人生の意義を模索する能力が備わっていない幼少期に、幼児の意思が自己の性格の決定に関与するだろうか? 否とすれば益々、子供の性格の形成には親の責任が重大だという事になろう。

 とは言え、超難関の司法試験を見事に突破して弁護士になる夢を果たした友のような強い意思を持てば、没価値男のセコイ性格の変更ごときは屁でもないって、か・・・。

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