おらあ寛太だ

ハリマオ65

第1話:父の突然の死

 北海道、苫小牧、1968年4月20。北海道の4月は、まだ寒く、氷点下の

日も多い。そんな1968年4月20日、苫小牧漁港から2人乗ったホッキ漁船

が出港した。15分程度で漁場に着き、船尾から浮き球のついたアンカー(錨・

いかり)を海中に投入して、数回、網をあげて、港に戻ろうとしたとき佐藤義之

の同僚の嵐山正一(38歳)が急に胸の痛みを訴えて、うずくまり、少し休ま

してくれと、大の字になった。


 緊急事態を漁協に連絡すると、すぐ戻ってこいと言われ、佐藤義之は、全速力

で港に戻て漁協の人が嵐山正一を数人で船から降ろすと、既に、息が絶えていた。

そのまま、救急病院へ電話をしたが脈をとれと言われ手首の押しても脈がないと

言うと、ご臨終ですといわれ仕方なく山の家に電話して、ご自宅へ搬送した。


 憔悴しきった奥さん(嵐山和子)が出てきて亭主(嵐山正一)の亡骸に取りす

がって、なんで、こんな時に死んじゃうんだよ、わしゃどうしたら良いんだよと、

すがりついて泣き崩れた。なだめるようにして、とにかく暖かい部屋へ入れてや

れと言われると、我に返り、すいませんと言い、家の中に運び入れた。


 5人の子供達は、眠い目をこすりながら事の重大さを知ってか、信じられない

と言った表情でみな、呆然と立ち尽くしていた。布団に寝かせ、後で、診療所の

先生が来て下さるから、待ってろと漁協の人が言い、奥さんが彼らにご苦労様で

すと言った。30分後、車で、診療所の鈴木先生がきて、死亡の確認をとり救急

車で苫小牧の病院へ連絡した。電話した後、病院へ連れて行き、詳しいことがわ

かったら知らせると佐藤先生が言ってくれた。


 救急車が来て、亭主を乗せて、家を後にした。2時間位して診療所の鈴木先生

が亭主の遺体と共に家に来て急性心筋梗塞だったと言い死亡診断書にハンコを押

すように言われ、和子はハンコを押した。しかし亭主の死を悲しんでる暇はなく

子供達に朝食を作り、その後、電話を入れておいた和子の実家と亭主の実家から

数人の人達がやってきた。狭い家なので座布団を出し応対、和子の実弟、山田幸

夫が心筋梗塞かと言い長く苦しまずに逝ったのがせめてもの慰めかなと静かに

言った。


 山田幸夫が葬式の手配はしてやるからと言い電話を貸せと言って、てきぱきと

関係先へ電話し火葬場の手配、葬式の場所、時間、人数を確認してくれ、葬式は

4月23日(日曜)10時からで場所は漁協の集会所、参加総数は15名、食事

は漁協のレストランに頼んだと嵐山和子に伝え、葬儀は、実家の世話になってる

王禅寺の住職にお願いしたいと言った。


費用は嵐山の実家と山田家の実家で折半すると言う事で良いですねと言い、幾ら

かかるかと40万円前後と伝え20万円ずつだというと、そんなにねーと嵐山の

実家で言うので兄の山田幸夫がしかたねーな、俺が立て替えておくと一言、言い、

金ができたら支払ってくれと言いうと嵐山太郎さんが済まねーと話した。

1968年4月23日、雪の日、漁港の集会場で15人で家族葬として嵐山正一

(享年38才)の葬儀が執り行われ、大泣きするというよりも、あまりに突然の

死に呆然といった感じで、信じられないと言う声が多く葬儀の最後、泣き崩れる

、嵐山正一の妻の和子の代わりに、実の弟、山田幸夫がかわって挨拶した。


 みなさん、こんな天気の日に、来ていただきましてありがとうございます。亡

くなった嵐山正一も、こんなに突然に皆様とお別れするとは思ってもみなかった

と思います。ただ、残された5人の子供と家内の和子は、これからの人生、厳し

い日々が続くと思いますので皆様におかれましては何卒、御協力、ご支援いただ

けます様に亡き嵐山正一の妻、安江に成り代わりまして、お願い申しあげますと

話した。話を終えると帰り際に嵐山安江と5人の子供達に頑張れよと肩をたたく

人が多かった。

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