野風【上】

 江城で生まれたものの七歳の年迄基本下野で育った辰千代にとって、城に引き取られる前年に偶々母の許に呼ばれていた際に突然ーと彼は感じていたー上方から下って来て城内に住まう事になったという、兄一家は多大なる興味の対象だった。

 兄は以前より父の代わりに城に住み、国主の代わりも務めていたから別に珍しくはない。


 だが兄が連れて来た、天下人の養女だという妻女は、辰千代やその他城に元々住まう者達の前にはなかなか現れなかった。

 兄が祖母の元には自身で妻子を連れて行き紹介したと聞いた辰千代の母は、不満と憤懣を抱いたようだ。


 だが当時より世嗣である兄には直接物を言う事など許されないと分かっていただろうし、母や、ある意味父に忘れ去られた側室には何も出来なかった。

 それ程、徳川家はー父が敷いた家中の法度はー上下の別に厳しく、いや一門の中だからこそ、下の者が背く事、僅かな叛心にも容赦なかった。


 ー父が幼い頃より一貫して辰千代に対して冷ややかであったのもそうした理由だったのだろう。


 だが関東一円を支配する大大名である父を何よりも誇りとし、己がその子であるとの強い自負心を持っている辰千代には、世嗣である兄をも軽視する傾向が幼い頃よりあった。

 未だ対面を果たしていない、だが誰よりも強いと信じている父だけを仰ぎ見ている辰千代には他のモノは目に入らなかったのだ。


 だが京から来たという女人、しかも父より『偉い』太閤の養女には興味がある。

 そういう訳で、新しい住人を迎えて慌ただしい空気が充満している中、誰にも言わずこっそりと、義姉とその子が住まう一角に忍び込んだ。


 侍女等は未だ新しい主人に慣れず遠巻きにしている状態なのを確かめて、辰千代はこそこそと微妙に放置された感のある庭の庭木の影を辿って近付く。

 ぱっと目に付く華やかな衣を身につけた若い女が赤子を抱いた乳母らしき女に何やら話し掛けていると認め、おそらくあれが太閤の養女なのだろうと結論付けた。


(……何だ。普通のおなごじゃないか)


 母や侍女達の噂話で、物語に出て来るような凄いーといっても具体的にどのような凄さなのか、迄は辰千代は考えていなかったー女かと思っていたのに、ごく普通の人間に見える。


(でも、もしかしたら『化けて』いるのかも。母上が、兄上は化かされているに違いないって言ってたもの。……でも化かすって事は、あのひとは本当は狸か狢か、それとも狐なのかな)


 ふと父の忠臣と言われているだけでなく兄の信頼を得て家中で大きな顔をして大きな声を響かせている男が、京の女狐がどうこう、などと言っていたことを思い出した。

 もしかしたら、あの男が言っていたのは、兄嫁のことだったのかもしれない。


(もしかして尻尾が九本あるっていう狐なのかも。だからまんまと豊家の養女になったのかもしれないな。凄いや!)


 もっと近くで観察し、正体を見極めねば、などと意気込んで辰千代は前に出た。

 が。


「誰?!」

 神経質な細い女の声が上がるのに、慌てて辰千代は踵を返して後も見ずに駆け出した。

 悪戯っ子ーしかも大いに成功しているーとして、逃げる際はとにかく逃げる事だけに集中すべきだとは体得済みだ。


 無事に母の住む寝殿近く迄逃げ切ってから、辰千代は走るのを止めた。

 特に誰も追ってくる気配がないのに安堵しつつ、母の許へと戻る。

 母が己を叱る事など無いと高をくくっているが、家臣達の中には昔気質で喧しい連中も居る。

 父にあれこれ言い付けられて、それでなくとも普段己を忘れ去っている父に悪印象ばかり与えるという結果となるのは御免だった。


 それでも辰千代は、己の目的を忘れた訳でも、諦めた訳でもない。


 翌日には彼は目的地へと庭伝いに入り込んだ。

 数日後には城を出て、下野に戻される事になっていたから、機会は充分に生かしたかったのだ。


 今度は注意深く、相手に気取られないように慎重に振る舞っているつもりだ。

 昨日よりも手間と時間を掛けて寝殿に近付き、昨日見かけた若い女が縁へ出て来たのにも我慢して暫し覗かずにおく。


「御方様、もう少しお休みになった方が宜しゅうございますよ。……まだお顔の色が優れませぬ」

「あら。平気よ」

「薬湯を残されているではありませんか。薬湯を全てお飲みにならぬ内は、庭へお出になられてはなりませぬ」

「……」


 辰千代も知っている兄の侍女が厳しく兄嫁に小言を言っている。


 以前悪戯をした際に他の侍女等と共に散々追い掛けられ、兄の前に引き据えられた事を思い出してしまって、辰千代は隠れ場所で首を竦めた。

 本丸に仕えている侍女等は、父と兄に直接仕えているという気概故か、あまりにも性格がはっきりし過ぎていて、未だ幼い辰千代から見れば「怖い」連中だったのだ。


「……だって、苦いのだもの」

「良薬口に苦しと申します」


 子供のような言い訳をする兄嫁に辰千代は、その正体が未だ不明にも関わらず、好感を抱いた。

 彼もー滅多に薬など処方されたりしないがー薬湯や煎じ薬など大嫌いなのだ。


「……でも、私、何処も悪くない、もの」

「ええ、無論です。これは滋養強壮の為の薬湯です。……なるべく早く御子を作ると殿と約束されたのでしょう?それ故にお指図が下っておりまする」

「……」

「御子が欲しいとお望みならば飲んで下さらねばなりません」

「私はっ」

「ええ、御方様は、元々お身体は丈夫なご様子ですが」


 女主人の懸命な抗いを簡単にいなして、侍女は厳しく言い渡した。


「御子を懐妊される前に、滋養と休息を充分に摂って身を養うように努めねば、御出産の度に身を損ねる結果となります。健やかな御子を授かる為にも必要な準備です」

「……」

「御子は御方様だけの御子ではありませぬ。我が徳川家の大事な御子です。充分に御身に気遣いをして下さるのが、御家の為にございます」

「……分かりました」


 一瞬、兄嫁はぷぅぅと頬を膨らませたが、素直に頷き、侍女から椀を受け取った。

 目を瞑って一心に薬を飲み干そうとしている姿に、辰千代は他人事ながら身に詰まされて非常に気の毒になった。


(どうしようかな。石か、虫でも捕まえて投げ込んで邪魔してやろうかな)

 そんな思い付きを得たものの、咄嗟に行動出来る筈も無い。

 周囲を見廻して何か使えるモノはないかと探している内に、先程の容赦なく手厳しい侍女が「殿」と呼び掛ける声が聞こえ、辰千代は更に慌てて視線を寝殿の方へと戻した。


「旦那様!」

 兄嫁が素早く椀を床に置き、近付いて来た兄の方へ身体毎向けた。


「……全部飲んだか?」

 縋り付いて来る妻の頬を兄がとても優しく撫でるのに辰千代は目を丸くした。


「……苦いんだもの!」

「またそのような事を。そなたが我が儘ばかり申しておると聞いて態々様子を見に来たのだぞ。さ、飲むのだ。……全て飲んだら、良いモノをやる」

「え」

 顰めっ面をしていた兄嫁がぱっと顔を輝かせ、兄の表情を窺おうとする。


「良いモノって?」

「飲むのが先だ」

 冷静に兄が言い渡すのに、兄嫁は一瞬唇を尖らせたが漸く完全に観念したようだった。


 空になった椀をどうだ、とでも言うように侍女や兄に見せる兄嫁は嬉しそうに兄に身を寄せ、兄も又珍しく明るく声を上げて笑いながら兄嫁を引き寄せた。

 理由も分からず何やらどぎまぎしてくるのに、辰千代は戸惑いつつも兄夫婦の姿から目を離せない。


「よしよし。そなたは素直で良い妻だ。褒めてやる」

「旦那様」

 兄の膝の上に抱え上げられた兄嫁はぴったりと兄に抱き着いて頬擦りなどしている。


 兄が女相手にこのような振る舞いをしている所など見たことが無かったし、想像したことも無かった。

 何度か江城を訪れ、短期的に滞在している辰千代にとって、兄というひとは今迄兎に角真面目一辺倒な堅すぎる程に堅い堅物だったのだ。


 侍女が椀をさっさと下げてしまい、二人きりになったのにー少なくとも兄夫婦はそう思っているのだろうー兄は更に、兄らしくない不埒な振る舞いに及んだ。


「……秀忠様……良いモノって?」

「……」

 兄が一瞬不興を表したような気がしたが、辰千代の気のせいだったかもしれない。

 身を離してしまった妻の手を取り、そっと撫でている。


 どうやら兄は、随分と豊家から迎えた妻を重く大切に扱っているらしかった。


(やっぱり太閤殿下は偉いんだ)

 そんな風に思った辰千代だ。


「その……出入りの商人を見かけた故、求めてみたのだが……どうであろうか。あ、いや、気に入らぬならば、姫の玩具にすれば良いし」

 懐から何やらごそごそと取り出して、兄は兄嫁の手を軽く持ち上げ手にしたモノを通した。


「あら。腕輪ですね?まぁ、江戸にも斯様なモノが」

「あ。ああ!江戸だとてそれなりに発展して来ているのだ!何れは境や博多や、京に負けぬ町になる、筈だ」

「はい。まことに楽しみでございますねぇ。これも秀忠様や、御父上のご尽力の賜物ですわ♪」


 兄嫁が嬉しそうかつ楽しそうに手を掲げてみせたーおそらく日の光を当てようと思ったのかーのに、辰千代にもその「腕輪」が半透明の石で出来ているらしいと見て取れた。

 辰千代は今迄見たことが無い類のモノだ。


「まぁ、とても綺麗!……でも……」

「何だ?」


 兄嫁の声が曇るのに、兄が素早く問うだけでなく兄嫁の貌を覗き込む。

 やはりかなり気遣いしているらしい。


「このように美しいモノ……私には似合いませんわ。姫が大きくなった時の為に取っておきましょう」

「……それは……」

「ね。そう致しましょう。だってこれ……」


 兄嫁は素早く上目遣いで兄を見上げる。


「随分と高直なのでは?唐渡りのものではありませんか。私は……いけませんわ。妻として、斯様なモノ、頂く訳には参りません」

「……」

「ね。姫が大きくなってお嫁に行く時に姫に贈って下さい。きっと喜びます。このように美しいのですもの」

「しかし、」

「確かに私、とても良いモノを頂きました」


 兄嫁は素早く腕輪を外し兄の手に戻した。

 だがそのまま兄の手に白い小さな手を重ねる。


「嬉しゅうございます。私のことを忘れずにいて下さる、その御心が私にはとても嬉しくて……」

「江」

「どうか過分なお気遣いはお止め下さい。既に秀忠様は、私を何度も救って下さっただけでなく、いつも大切にして下さいます。私も姫も幸せですもの。……後、望むのは、」

「あ、ああ。何だ?申してみよ」


 兄が素早く問うのに兄嫁は少し驚いたらしく目を丸くしたものの、すぐに柔らかく微笑んだ。


「貴男様が無理を為さらず、何時までも壮健であられること、です。それ以外は何も要りません」

「……そうか」


 兄は何故か微妙にがっかりしたらしい。

 肩を落として手の中に戻った玉石の腕輪をひねくり回すのを、兄嫁も、また隠れて見守っている辰千代も不思議に感じつつ見守った。


「ね、秀忠様」

「ああ」

「御祖母様には先日ご紹介頂きましたけれど……他にもご親族がいらっしゃるのでしょう?何時ご紹介下さるのですか?」

「……七郎には会わせたであろう。兄上と忠吉は江戸に居らぬし。姉上達は当然居らぬし、あとは……振か」

「妹君でございますね」

「うむ。だが、あいつは来年輿入れする故、そろそろ伏見に発つ筈だが」

「まあ!それならば早くご紹介頂かないと!」

「……その内に、な」

「お早くお願いしますね。早く皆様のお顔と御名を覚えてしまいたいのです。私、妻ですもの」

「……ああ」


 兄は兄嫁の訴えに幾分上の空といった感で頷きながら腕輪を懐に戻した。

 それから兄嫁の小柄な身体を抱え上げたと思うとそのまま、縁から室内へ戻ってしまう。


 常ならぬ兄の様子は興味深くはあったものの、母の居所へ戻る間、辰千代の心と頭を占めていたのは、どうやら兄も又、父と同様、辰千代の事は兄弟として念頭にはないらしいという失望と怒り、だった。


(父上も兄上も大嫌いだ!)


 臨時で宛がわれた己の部屋に戻って早々、障子戸を蹴飛ばした音に飛んで来た侍女に小言を言われたが、辰千代は上の空で殆ど聞き流した。

 というより己の内で渦巻く感情に囚われ、逃れられなかった。


(父上も兄上も、私を子とも弟とも思っていないんだ。それなら私だって、思ったりしない。あの、女も、赤子も知るもんか!)


 幼い心に生じた怒りは深く激しいものではあったが、夕餉の頃にはけろっと収まり、辰千代は用意された膳を一人で摂った。


 母は物心付いた頃より、辰千代と一つ屋根の下で過ごしている時であっても「自分達のような身分の者は家族で膳を囲んだりしない」などと言って、食を共にしたことはない。

 また乳母や侍女達はこの頃には既に、辰千代が悪戯の限りを尽くすのに、自分達からは近付いて来なかった。


 あるいは微妙に家臣等も父や兄の心を察して、己を見下しているのかもしれない。

 怒りは鎮まったものの、心底には今迄には無かった、暗く澱んだ何かが生じていた。


 養育先で与えられている自室より広くはあるものの、一人で過ごす部屋はとても暗く、冷たかった。


 *


 太閤が病死し、世の中が落ち着き無く騒然となった、とは畿内から遠く離れた江戸においても感じ始めた頃。

 父と世嗣である兄だけでなく兄弟全員が江戸に勢揃いした。


 辰千代が漸く江城に引き取られ、父とも対面を果たしたその翌年だった筈だ。

 既に、それ迄に何度か遊びに来ていた城での暮らしも目新しさを失っていた。


 些細な女子供が主体の寸劇よりも、父や兄達が揃う事で一気に緊迫感に充ち、何かが起きるという嵐の予兆のようなモノが空気中に漲る、そんな気配が辰千代を昂揚させ、その心の儘に、父にも兄にも、戦が起きるならば己も初陣を果たしたいと申し出たのだが、これはあっさりと笑い飛ばされた。


 父特有の韜晦、兄の気遣いだったのかもしれないが、これにも辰千代は大いに傷付き、ふて腐れてその場を離れたが、誰も辰千代の不在など気にしていないようで、久し振りに集まった一族は楽しげに賑わっているようだった。


(どうせ私など)


 子供扱いだけでなく余計者扱い、そう受け止めて、一層己が情けなくなる。


(私はもう八歳だ!子供じゃない!……少なくともお千や子々のような、赤子じゃない)


 兄嫁が父や義兄弟達に挨拶する際、連れて来ていた幼い姫達の事を思い出し、ふんと鼻を鳴らす。


 所詮二人共、役に立たぬおなごでしかない。

 父や兄達が競い合うように赤子や童女の姫を代わる代わる抱いていたり、夢中で話し掛けていた光景はなかなか脳裏から去らないが、あんなのは羨ましくなどない、と辰千代ははっきり断じた。


 些か不穏な辰千代の期待と予兆に反してその年はごく当たり前に平和にー寧ろ、兄嫁が又も子を身籠もったと分かるなど目出度い空気にー城内は湧いた。

 おそらく今度こそ男児誕生をと家臣等、家中の者達は望んでいるのだろうとは辰千代にも分かった。


 だが翌年、父と兄が留守中に産まれた子は又も女児で、これで母やその他父の側室等は内心喜ぶのではないか、と辰千代は意地悪く考えた。

 女など所詮、男に縋って足を引っ張り合う生き物だ。


 女同士の奥での確執などどうでも良く、辰千代の興味は今度こそ戦の為ー会津討伐の為ー徳川軍だけでなく大名諸候等迄もが続々と江戸へと下り、更には北上し小山へ向かっているという、何とも痛快で胸湧き踊る出来事のみ、であった。

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