【肆】

 徳川に敵対し、直接徳川本隊と戦い、大損害を与えた義父と源二郎は、戦の後、夫信之ーこれも徳川家への恭順を示す為、改名していたーとその舅の助命嘆願により、切腹は免れ、紀伊の九度山へ蟄居する事となった。


 しをりは夫に頼み込んで、上田の城へ居を移し、舅と姑に仕えた。

 しをりにとっては養父母でもある人達だ。

 源二郎は別途、北の方と共に上方で軟禁されていると聞いている。

 少なくともしをりは、源二郎とは、沼田の城に彼が忍んで来た時以降、会っていなかった。


「このような事になるなんて」

 哀しく寂しくてつい何度も言ってしまう言葉に、だが舅と姑は二人とも穏やかだった。


「気にせずとも良い。儂等は儂等が信じる筋を通す為に戦ったのじゃ。何も悔やむ所は無い」

「……でも」

「そうですよ、姫。私は殿に惚れ直しました。まこと、日の本一の天晴れな殿方です」


 変わらず、あるいは一層仲良さ気な舅達の様子が救いと言えば救いではあったが、それでもしをり自身の遣り切れなさは薄れなかった。

 あるいは養父母は、共に付き従いたいというしをりの願いを察していて、彼女を諫め、宥める為に何でもない風を装っていたのかもしれない。


 何度か己の気持ちを訴えようとしをりは思ったものの、舅も、のんびりとした姑ですらも、不穏当な望みをしをりが言葉にする、隙を全く与えなかった。

 優しくはあるが反論を許さぬ、今後の指針ーしをりが進むべき道ーを、明確に示す。


「良いか。姫は何も余計な事は考えず、大きな顔をして源三郎の側におれば良い。真田の正嫡はそなたなのだぞ。そなたが腹を痛めて産んだ源太こそ、真田の跡継ぎじゃ」

「そうですとも。源三郎の事、くれぐれも頼みますよ。あの小松殿に良い様に引き回されないように気を付けてやっておくれ。あと源太もね。あの子は殿に似て、寂しがりやだから」

「儂の何処が寂しがりやだ!」

「まぁ、ほほほほほ。幾つになっても、一人でお寝りになれない所なぞ、そうとしか言い様がございませんでしょう?」


 軽やかな言い争いーという名のじゃれ合いーに発展するのを微笑ましく見守り。

 旅立ちの日迄、しをりは城に留まった。


 最後迄ー二人を乗せた輿が見えなくなる迄、城の天守から見守り続けた。

 しをり達が生まれ育った上田の城も、近々、放棄され、破却される事が決まっている。

 おそらく、この眺めも生涯最後のものとなるのだろう、としをりは思いながら、徳川軍本隊に攻められた疵痕も未だ生々しい城下を眺めた。


(このように傷付けられて……それでも御家が無事と、言えるのだろうか)


 そんな風に思い、侘びしくなる。

 泉下にいる父も、叔父も、病で歿した祖母も、怒り悲しんでいるに違いない。

 真田家の人々が散り散りバラバラになってしまう、そして国も真田の名も消えて行ってしまうかもしれないと思うと怖ろしかった。


 それでは己の生きる意味を問われる、そんな気がしたのだ。

 ぼんやりとー茫然と、あるいは泣きたい心地でしをりは知らない場所のようにも見える光景を見詰めるだけ、だ。


「しをり」

 名を呼ばれ、一瞬、彼が会いに来てくれたのかと思った。


 だが抱き締められた、その香で己の愚かさ加減を思い知らされる。

 確かに、従兄達は幼い頃から良く似た兄弟だったが、それはあくまでも背格好や顔立ちだけで、それぞれ纏う雰囲気や表情、目の配りや仕草などは全く違うのだ。


 最早、彼は、しをりがどれ程待ち続けようと、しをりの元には戻って来ない。

 分かっていても期待してしまう、頑固に待ち続けている己を知り、しをりは改めて哀しみと痛みを覚えた。


「良かった。そなた迄、行ってしまうのではないかと思って……」

「源三郎兄様」


 常に落ち着いて温和なーつまりは物事に動じた所をあまり見たことが無いー夫らしからぬ弱々しい声音と言葉に、つい幼い頃のような呼び方、祝言を挙げた時、新床の夜に禁じられた呼び名で、呼んでしまった。

 そしてそれは確かに、酷く敏感になっている夫の癇に障ったらしい。


「止めよ!私は兄などではない!」


 鋭く叱られて、しをりは抱き竦められた状態で身を縮めた。

 この従兄に叱られた事などー源二郎の真似をして川に飛び込もうとしたといったー危ない無茶な振る舞いをした時だけだ。


「しをり。もう、戻ろう。この城は、最早終わりだ。……いや、元々我等の家は沼田なのだ。上田の事は忘れよう」

「……はい」


 忘れられるのだろうか、としをりは疑問に思う。

 幼い頃の思い出は全てこの城に、城下に直結している。

 真田の血、顔も覚えていない父の想いも、此処にある筈だ。

 現実の上田の城と町が粉々に打ち砕かれようと、しをりの中に存在する上田は、消えはしない、消せはしないのではないか、と思った。


「そなたは何も案ぜずとも良いのだ。……そなただけは何があろうと守ってみせる。そなたこそ、我が真田の、正嫡の姫なのだからな」


 信之、という名さえ変えてしまった男が、しをりに触れ、しをりの頬や唇を吸ったが、しをりはただ己の中にある真田の家、真田の国を見つめ続けた。

 彼女が守るべき家は、確かに其処に存在する。


 *


 小松は九度山に定期的に送る包みを幾つか作った後、文机に向かった。

 今度こそ、嫁及び義姉らしい言葉を、などと思うのだが、思い付かず、結局簡単な時候の挨拶と身体に気を付けて、などという当たり障りのない文句のみ綴って終わらせる。


 正直、このような事はー少なくとも自身ではーしたくなかったが、しかし、関ヶ原の戦の翌年、灯火が消えるように儚く亡くなってしまった女人ー元々は夫の正室であったが、小松が嫁いで来た為に、側室に下げられた真田一族の娘ーに、臨終の床で頼まれたのだ。

 武家の女として違える訳にはいかない誓い、と小松は捉えていた。


 おそらく彼女は自ら、このように舅や姑ーといっても舅は昨年、亡くなったのだがー義弟の為に乾物や衣を選んで荷造りしたかったに違いない。

 忌々しい程に、仲の良い『家族』であったし、彼女もとても義理の親兄弟を大切にしていた。

 彼女がこの世を去った後でも、負ける訳にはいかない、のだ。


 文と共に荷物を送るよう申し付けてから、小松は衣を整え、化粧を直してから茶を夫の書院へと運んだ。

 五十近い年齢であっても長身の堂々たる体躯を真っ直ぐ伸ばして端座し、書を読んでいる夫の姿に、小松は思わず見惚れる。

 初めて会った時から殆ど、夫は変わらない。


 初めて会って、言葉を交わしたその時に、この男の妻になると小松は決めた。

 父親を口説き落とし、更に真田家が逃げられないように主君の養女となって無理矢理押し掛けるようにして妻となった。

 己の決断や行動を後悔したことはないが、夫にとっては全く突然の不意打ち、あるいは災難だったに違いないと今では冷静に判断出来る。


 彼女がこの世を去ってから、歳月がどれ程経過しようと、あるいは月日が過ぎれば過ぎる程、夫の心を占めているのは彼女なのだと思い知らされる日々だった。


 だからといって、別に小松がないがしろにされている訳ではない。

 小松が夫として選んだ男は、男女の事でも公正で、あるいは公平であろうと努める男、だった。

 新婚当初や戦の後など、内心ではもう一人の女の元へ行きたがっている癖に、己の側に留まる男を憎らしくーこの上なく恋しくー思ったものだ。


「……」

 小松の気配を感じたのか、一瞬、信之は何かを探すように視線を動かした。

 が小松が戸口で立ち尽くしているのを認めると、穏やかな笑みを浮かべる。

 諦観と達観しか見られない眼差しだ。


「済まぬな。態々、茶を運んでくれたのか、奥」

 労いの言葉は温かみはあるが、何処か乾いている。


 彼女が死んで以来、小松が好きだった少年のような笑い声やはにかんだ眼差しーとはいってもこれらは全て、小松に向けられたものではなく、彼女に与えられたもので、小松は脇に佇んでいたか、物陰に隠れていたか、して覗き見ただけだーは、最初から無かったもののように消えている。


 それでも信之は常に良き夫、良き父だった。


「何の。妻ならば当然の事にございます」

「……そうか」


 未だに妻という言葉で、この男が想起するのは、あの幼げな顔立ちの女、儚い印象の、だが芯は凛としたモノを感じさせる雪割草のように愛らしい従妹なのだろう。

 小松だって夫を挟む関係でなければ、好意を抱いたであろう、優しく素直な女だった。


「先程、九度山へ荷物を送りました故、承知置き下さいませ。……江戸から何か言ってきましたら、私が応対致します」

「そうか」

 何時ものように頷いて、だが信之は幾分固めの目線を小松に合わせて来た。


「そういえば、左衛門佐が出家したそうだ」

「それは」


 一瞬声を無くしたものの、小松はすぐに回復して彼女らしくきっぱりと続けた。


「何故今更」

「……確かに。今更、ではある」


 信之は苦笑し、小松から受け取った茶で唇を湿らせた。


「あ奴、あるいは、父上が亡くなる迄待っていたのかもしれぬ」

「……」

 そのように殊勝な男だろうかと小松は疑問に思ったものの口には出さなかった。

 関ヶ原以降、夫は特に口にしはしないものの、未だ父母や弟の事を大切に強く思っていると、小松は承知している。


「奥方は、利世殿は如何されたのでしょう。御子も沢山おいででしょうに」

「さあな。……相変わらず、勝手な奴だ」

 既に信之は九度山に関する話題に興味は失ったようだった。

 茶を戻して、読書に戻る。


 小松は夫に対して一礼してから退室した。


 仏間へと赴き、彼女が生前良くそうしていたように位牌の前で手を合わせて祈る。

 子等は皆大きくなってしまっていて、手も掛からなくなっていたから、時間は充分過ぎる程ある。


(しをり殿。源二郎殿が出家されたそうです。源二郎殿も貴女の為に祈るのでしょうか)


 この世に亡い人に語りかけた言葉が、相変わらずなものであるのに、小松は唇を歪めた。

 夫の留守中に、義弟がしをりを訪ねて来て二人きりで親しく会っていたと、その都度、夫に報せてやったのは小松だ。


 だが、夫は小松が内心密かに期待したように、しをりを捨てはしなかった。

 温和な見かけに反して真田家の人間に相応な激しさや狡猾さも持ち合わせている男は、嫉妬心と独占欲は煽られたようだったが、より強く深く女に執着しただけで、女を手放そうとはせずー別途、ある意味小松が望んだ通り、父親や弟との間に距離を置いた。


 肉親としての情はあっても、冷徹な武将あるいは国主としての目で、何より大切な筈の『真田の血』も計り、切り捨てた。

 まさしく小松が惚れ込み、小松の父や主君が見込んだのに相応な男であった訳だ。


(いいや、違う。あの人にとって、本物の、真田の血を引く人間はただ一人だけだったのだ)


 柔らかい微笑みを絶やさなかった少女のような面影が甦る。


 肝心のしをりの気持ちが何処にあったのかは、小松には結局分からなかった。

 あるいは最後迄、しをりにとって真田家の兄弟は、あくまでも従兄達、兄のように思う相手に過ぎなかったのかもしれない。


(貴女が憎い。いえ、本当に憎く思ったこともありました。でも、もう貴女には何も届かないのですね)


 今は真田家を守り、盛り立てていく妻は己一人だ。

 夫を支え、守るのも、彼女しか居ない。

 小松自身も又、夫と同じ道を進むのは望むところだが。


(ごめんなさい、しをり殿。殿や、子達の為に、私も又何れ、源二郎殿を切り捨てるかもしれませぬ)


 今は亡い人に対しては申し訳なく思う気持ちはある。

 何も出来ない、言えない人々が決して喜ばない事を、今後小松と夫は為す筈だ。


 実家を通して徳川宗家との間に繋がりを持つ小松には、当代将軍家が真田家に対して強い遺恨と猜疑心を抱いていると知っている。

 信之から将軍家のーあるいは幕府のー敵意及び害意を逸らすには、犠牲として追い立て追い詰めるべき生贄が必要だ。


(でも信じて下さいませ。貴女の御子は、必ず守ります。殿が、何より大切にしておられる血を継ぐ御子ですから)


 祈りを終えてから、小松は立ち上がり、縁先へと出た。

 小さな城であっても、だからこそか、眺めも空気も江戸など比べ物にならぬ程素晴らしい、と思う。


 *


 そして。

 乱雲は、未だ遠い。

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まつとしきかば 一宮 オウカ @sorano138

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