第六話 代償と再会
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ぼんやりとした視界に広がるのは、部屋の天井。
瞼を擦ることなく目が覚めて飛び起きた。
夢の中での出来事はしっかり憶えている。確かに玉を投げて、割れたのを確認した。そして割れた石から黒い煙が出てきて……そこから記憶がない。
千秋はどうなったのか。
本当に何かを失ったのか。
自分の体を確認してみるが、目に見える変化はない。
「和樹、いつまで寝てんの! 早く起きないと学校に遅れるわよ!」
ドアから母の声が飛んできて、慌てて携帯で時間を確認する。
普段より遅い起床ではあったが、まだ間に合う時間でホッと……しなかった。
今日は日曜日、学校は休みである。
なのに、携帯の画面には金曜日と表示されていた。
十月二十五日、日付は間違っていない。だが、おかしい。曜日だけではなく、部屋全体にも違和感がある。部屋をぐるりと眺め回すが、違和感の正体がつかめない。
「本当に遅刻するわよ!」
母の怒鳴るような大声に驚き、数秒考えた末に支度を始めた。何か起きているのは間違いない。騙されたと思って、母の言葉と携帯の画面を呑み込むことにした。
朝食を食べずに家を出て、通学路を歩いていく。しかし、外に出ても違和感が拭えない。見慣れた光景なのに気味が悪く、どこか違う気がする。立ち止まって周りを凝視するが、もどかしさが増すばかりで時間だけが過ぎていく。このまま立ち止まっていても遅刻するだけで渋々と足を動かした。
横断歩道の前で、左右を念入りに確認する。これから事故が起きて足を失う可能性も考えられる。足を失う覚悟は出来ていても怖いものは怖い。
左右を確認しているうちに青信号が点滅し始めたが、車が来る気配はない。ゆっくり歩いて渡っても問題なかったが、赤信号に変わる前に小走りで渡ろうとした。
ところが――前に進むことができなかった。
自分の意志とは裏腹に足が動かない。
走ろうとすると、足が止まってしまうのだ。
全身から血の気が引いていく。足が踏み出せない。どうやって今まで走っていたのか思い出せない。
まるで――頭の中から「走る」という選択肢が消えたような感覚。
必死になって無理やり足を動かそうとした瞬間、体のバランスを崩して倒れかけた。
なんとか一歩踏み出して立ち直したが、足は震えて全身から嫌な汗が滲み出てくる。
倒れかけた体勢を戻そうとする時は足が動くようで、前に進もうと思えば歩くこともできた。その場で大雑把に確認してみたがパッと見では問題なく、普通に動かせる。だが、走ることだけがどうしてもできない。
太ももやふくらはぎを触ってみると、やけに細くなっている気がした。よく見ると、足を触っている腕も細く、全身の筋肉が落ちているようだった。
細すぎる。明らかに一日で変わるような変化ではない。スポーツとは無縁の生活を過ごしてきたような体。
とは言え、病的に痩せているわけではないし、これが原因で走れなくなったとは考えにくい。そもそも走り方自体が思い出せないのだから、原因は他にあるのだろう。
僕は混乱している頭を落ち着かせつつ「なるほど」と小さく呟く。
これが身代わりになった代償なのだろう。今考えられる限りでは一番可能性が高いし、そうでなければ困る。
僕の中で確信に変わっていくと、次第に落ち着きを取り戻す。
そして僕は――ほくそ笑んだ。
この足ではサッカーなんて到底無理だ。やはりプロサッカー選手を諦めることが代償だった、と内心浮かれていた。
走れなくなった。
サッカーができなくなった。
ショックだって当然大きい。今までの努力が全て水の泡になるのだから当たり前だ。
でも、それ以上に千秋の意識が戻ることの方が嬉しかった。
もう一度、千秋と話すことができるのなら、走れなくなろうと、サッカーができなくなろうと、僕は構わない。
それに予想してたよりも失うものが軽かった。足を切断して車イスで過ごすことになるとか、千秋の代わりに自分が意識不明になることも考えていた。これらと比べたら、走れなくなるのは全然マシな方だろう。
勘ぐり過ぎていたのかもしれない、と安堵の笑みがこぼれる。
あの身代わり石が出てくる夢は本当に特別な力を持っていた。
走れなくなったのが確かな証拠だ。夢の中で感じた腹を突き破るような自信は、夢が覚めた今でも延々と湧いてくる。病院に行けば千秋が起きているって思い込むほどだ。そうだ、代償を払ったにもかかわらず、千秋が目覚めないなんてアンフェアなことが起きてたまるか。
今すぐ千秋に会いたい。
学校へ行かず、病院に向かって一刻も早く確かめたい。
しかし、急いで支度したせいで財布を持ってくるのを忘れていた。千秋が入院している病院に行くには電車に乗らなければいけない。今から家に戻って母を納得させるのも大変だし、学校にも変化が起きていないか確認しておきたかった。
そのまま学校へ歩いていき、遅刻することなく教室に辿り着いた。
けれど、教室に足を入れてすぐに廊下へ引き返す。
教室に先輩がいたからだ。それも教室にいる生徒全員が一つ上の学年だった。
ルームプレートを確認するが、教室を間違えたわけではない。ひとまず教室に入り、仲の良い先輩に「どうして二年の教室にいるんですか?」と訊いてみることにした。
先輩は顔をしかめて「君は一年だろ」と返してくる。
出会ったばかりの他人と話すような口調にも、すんなり頭に入ってこない返事にも疑問を抱いた。返事に困って数秒黙り込んでしまい、なんだか気まずい空気になってしまったから礼を言って、そそくさと教室を後にする。
さっきの先輩の発言はなんだったのか。何か事情があるのかは知らないが、少なくとも三年が二年の教室を使用するのだろう。だとすれば、僕達二年は別の教室を使うことになり、先輩の発言は「二年は一年の教室に行け」とも解釈することができる。
他に思い当たることもないので、一年の教室へ向かう。
今度は入る前に教室を覗き、クラスメイトをいるのを確認する。一年の教室を使うなんて話を聞いた憶えはないが、急遽変わったのかもしれない。
千秋が事故に遭ってから先生の話を聞き逃す回数も増えていたこともあって、その時は深く考えなかった。
いや、正確には考える間すらなかった。
僕は目を大きく見開いて、視界に飛び込んできた彼女を見た。
視線の先に――千秋がいた。
窓際でクラスの女子と楽しそうに会話をしている。いつものように手で口を隠しながら笑っている。怪我も見当たらない。事故に遭う前の元気な彼女が、そこにいた。
もう見ることすら叶わないと思っていた光景が、そこにあった。
教室の入口から一歩、また一歩と彼女の方は歩く。嬉しさのあまり、瞳から涙が溢れ出そうになる。ずっと心細かった。何度も諦めかけた。何度も心が折れそうになった。
ひょっとしたら身代わり石の力で事故が起こらなかったことになっているのかもしれない。走れなくなったのも何の前触れもなかったのだから、そういう奇跡が起こってもおかしくない。
千秋が僕の視線に気付き、微笑みながら手を振って駆け寄ってくる。
事故に遭った日から何十回、何百回と夢見ていた千秋の笑み。
堪えていた涙が頬を伝い、流れ落ちた。涙を拭うことなく、右手で小さく振り返す。
あれだけ遠く感じられた彼女との距離が、あと数歩で届く。
一生待ち続けることになっても聞けるか分からなかった、あの声に。
最愛の恋人の名前を呼ぼうと、口を開く。
「ちあ……」
しかし、千秋は僕の横を通り過ぎた。
「……え?」
後ろを振り返り、教室の入口へ駆け寄っていく千秋の先を見た。
そこには通学鞄を持った大地が立っていた。
「大地くん、遅いよ!」
頭を掻きながら「寝坊した」と軽く笑う大地と、それにつられて笑みを見せる千秋。
二人が会話するところは何度か見てきた。僕と一緒にいる時間が長い二人だから自然と会話する機会が生まれる。だが、あんなに仲良さそうに話す二人は見たことがなかった。
動揺しながら二人の元へ駆け寄り、「おはよう」と声を掛けてみる。けれど、二人とも困惑気味の表情で、お互いの顔をチラッと見交わす。
それは僕に話しかけられたのが予想外といった反応であった。
「……おはよう」
先に口を開いたのは千秋だったが、他人行儀な返事だった。
「二人ともどうしたんだよ」
笑いながら話しても二人は気まずそうに苦笑いするだけ。
「そ、そろそろ先生が来る時間だね。席に座ってないと……」
千秋が逃げるようにその場を離れようとし、僕は反射的に手を伸ばした。
「ちょっと待ってよ」
腕を掴んで引き止めた瞬間だった。
「きゃっ!」
千秋が小さな悲鳴を上げた。
掴んでいた手は力強く振り解かれ、怯えた瞳で僕を睨みつける千秋は――別人に見えた。
「諏訪くん……だっけ? 千秋に用があるの?」
背中で千秋を隠すように大地が睨みながら僕の前に立つ。いつもは名前を呼び捨てしている大地が「諏訪くん」と呼んだ。ますます訳が分からなくなる。
「恋人なんだから用が無くたって会話ぐらいするだろ」
そう言った途端、大地の顔が見る見るうちに険しくなっていく。
「恋人って……何言っているの?」
大地の後ろに半分隠れたまま千秋が呟くように言った。初めて聞く声だった。千秋の怒りと怯えの入り混じった声を聞くのは。
「一体どうしたのさ。僕達……恋人だろ」
それを聞いた千秋は顔を引きつらせて、大きく口を開いた。
「変なこと言わないでよ! 付き合っているわけないじゃない!」
敵意がこもった千秋の言葉に頭が真っ白になった。理解しようにも理解できない。
一斉にクラスメイトの視線が集まり、険悪な雰囲気に包まれる。
「い……いや、待ってよ。二人とも揶揄っているんだろ?」
なんとか声を絞り出した僕に対して、大地はトドメを刺すように言った。
「揶揄っているのはお前の方だろ。勝手に俺の彼女を自分の恋人にすんなよ」
俺の彼女?
千秋と大地が付き合っている?
何がなんだか分からなかった。
千秋は僕を見て怯えていて、大地は本気で千秋を僕から守ろうとしている。二人とも揶揄っている様子はない。
言葉を失った僕は一歩後ずさりした。
「もう二度と千秋に近づくなよ」
大地は「気持ち悪い」と吐き捨ててから、千秋を連れて席に座った。
状況を全く呑み込めない僕は教室の後ろでうつけたように立ち尽くす。
動こうとしても自分の席がどこなのかも分からず、空いている席を探しているうちにクラスメイトと目が合い、視線を逸らされた。
どうしようもないほど惨めな気持ちに襲われ、教室を飛び出た。
飛び出たと言っても可能な限り、早く歩いただけだ。走ろうにも走れない。ポロポロと涙が溢れ出てくる。千秋に拒絶されたからか、走れなくなったからか、何故自分が泣いているのか分からない。
「こんなの……何かの間違いだ……」
嘘だ、夢だ、といくら口から零れても夢から覚めない。
どこかに隠れたかったが走れなくて、それが惨めに思えて余計に涙が出てくる。
涙を拭いながら来た道をそのまま辿って家に帰り、母に適当な嘘をついて部屋にこもった。
ベッドの上でうつ伏せになり、頭の中を整理する。
千秋と大地が付き合っている?
――そんなはずがない!
心の中で叫んだ。僕と千秋は恋人で、大地は誰とも付き合っていなかった。確認するまでもない。
教室で見た千秋と大地以外にも引っかかりを覚えた。
朝から違和感が続いている。
目が覚めた時からずっと。
――昨日までと何が違う。
起き上がって部屋の中をじっくりと見回す。
朝起きた時は動揺していて部屋を隅々まで見ていなかったが、目をこらして探してみれば、昨日までとの相違点が徐々に浮かび上がった。
まず、本棚にある本が違う。読んだことのない漫画が何冊もあった。机の上や引き出しの中にある参考書やノートも若干違う。他にも買った憶えのないゲームやおもちゃが沢山出てきた。
部屋を漁れば漁るほど、昨日までの部屋から遠のいていく。
何よりサッカーに関する物が全て消えている。本棚にあった戦術本や好きな選手の自伝も、クローゼットにしまっていたユニフォームも、子供の頃から大事にしていたボールすら消えていた。自分の部屋なのに、自分の部屋だと思えなかった。
そしてもう一つ、部屋になくてはならない物が無かった。
どこを探しても千秋との思い出が見当たらない。小さい頃の写真も、デート先で買ったお揃いのキーホルダーも何一つ出てこない。
千秋の反応は恋人どころか友達ですらないように見えた。だからって素直に信じられるわけがない。きっと否定できる物があるはずだと我武者羅に部屋を漁り、探せる場所が減っていく度に心臓を締め付けられるような不安と焦りに駆られる。
結局、部屋から千秋との関係を証明できる物は見つからず、足から力が抜けて跪いた。
他の部屋も探すか考え始めた時、ハッと携帯を見た。
千秋との関係を確かめるのなら部屋を探すよりも携帯を調べた方が簡単ではないか。ラインでのやり取りや写真が残っているはずだ。
しかし、携帯のデータを確認するまでもなく、現実を突きつけられる。
待ち受け画面が違った。朝は曜日が違うことに戸惑って気付かなかったが、本来なら千秋とのツーショット写真が表示される待ち受けにはデフォルトの壁紙が表示されていた。
千秋の写真は一枚も保存されてなく、ラインにも名前がなかった。それも千秋だけではない。登録してあるのは家族だけで、大地や他の友達も登録されていなかった。
どうやら今の僕には友達と呼べる親しい人物が一人もいないらしい。
いよいよ、頭がおかしくなりそうだった。いや、既におかしくなっているのかもしれない。非現実的な夢を見たことも、千秋が恋人だったことも、サッカーやっていたことも、全て自分の妄想だったんじゃないか。
曜日は違うし、教室で見た千秋と大地からはどことなく懐かしさを感じた。時系列すら滅茶苦茶になっているんじゃないかと本気で自分を疑う。
だけど、疑心暗鬼に陥ったおかげで、あることに気付けた。
部屋の中もどこか懐かしい雰囲気に包まれていた。それが違和感の正体だと気付き、同時に原因も突き詰めた。
引き出しに入っていた教科書や参考書には見覚えがあるが、一年の頃に使っていた物ばかり。というよりも二年になってから使い始めた教科書やノートが一冊も見当たらない。通学鞄の中には去年の教科書やノートしか入っていなかった。
――君は一年だろ。
先輩の言葉を思い出して、携帯でカレンダーのアプリを開く。
今日が十月二十五日の金曜日であることは間違いなかったが、確認したかったのは日付ではない。西暦の方である。曜日が違うというのは、そういうことなのではないか。
携帯の画面に表示されたのは、一年前のカレンダー。
僕の予想していた通り、一年前に――タイムスリップしていた。
信じがたい話だが、現状から考えればそれしかない。千秋が教室にいたのは「事故が起きなかったことになっていたから」ではなく、「事故が起こる前に戻っていたから」と考えられるし、曜日が違ったり、教室が違ったことも辻褄が合う。通学路で感じた違和感も去年の風景が、昨日までの風景と微妙に違ったことが原因だったのだろう。
しかし、相変わらず分からないことだらけだ。
身代わりになった代償として走れなくなり、千秋の事故が起こる前に時間が戻った。そこまでは理解できるが、千秋と大地が付き合っているのは何故なのか。
仮に身代わりになる代償が「プロサッカー選手を諦める」ではなかったとして、他に思い浮かぶのは「千秋と結ばれなくなる」のみ。
僕は必ず千秋と結ばれると信じ込んでいたから将来の夢とはまた違うものだと考えていたが、人によっては将来の夢と呼べなくもない。将来の夢に「お嫁さん」と書く女子も何人か見てきたし、可能性はゼロではないだろう。
だが、千秋と結ばれなくなることが代償なら、何故走れなくなったのか。それに友達がいなくなったことに関しては見当もつかないし、訳が分からない。
考えたところで頭が痛くなるだけで答えは出てこない。様々なことが立て続けに起きて、精神的に疲弊している。
これ以上考える気力も湧かず、布団を頭まで被った。
その日から日曜の夕方まで最低限の食事しかとらず、寝腐っていた。失ったものがあまりに多く、立ち直れずにいた。
それでも諦めはせず、まだ何かあるはずだと必死になって考える。走れなくなった上に恋人を失うなんてそんなはずがない。きっとこれから逆転劇が始まるに違いないと、「夢」みたいなことを期待していたのだ。
それから一ヵ月間、周りの反応を見て自分がどういう立場にいるのか確認していった。
結論から言えば、僕はどうしようもないレベルの落ちこぼれになっていた。
勉強も運動もできず、友達が一人もいない。順風満帆とは真逆の人生を送っていたことに改変されていた。
運動に関しては走れないからとして、勉強ができないのは意外である。走り方を忘れた足とは違い、身代わりになる前に学んだことは憶えていた。だから、落ちこぼれだった僕が改変後からテストの点数が急激に上がり、先生達が驚いていた。
友達がいない点については、走れないことが関係しているようだった。変に思われないように遠回しで聞き出した母の話によると、僕は幼少期から走れない子供だったらしい。
最初は病院で足に異常がないか検査を受けたようだが異常は見当たらず、原因不明の精神的な問題として片付けられてしまったようだ。
母はとても言いづらそうに話していたが、どうやら走れなかった幼き日の僕は「かけっこ」や「鬼ごっこ」に参加できず、友達の輪に入れなかったようだ。友達を作れないまま幼少期を過ごし、小学校でも友達を作れずにズルズルと生きてきたのが改変後の僕であった。
おそらく「幼少期に友達の作り方を学べなかったから」とか「走れないことをコンプレックスにしていて自尊心が低かった」といった理由で、友達を作れなかったのだろう。確証はないが父から「最近、よく喋るようになったな」と言われた辺り、口数が少ない奴だったのは間違いなさそうだ。
千秋とは改変後の世界でも幼少期に何度か遊んでいたようだが、小学校に上がってからは家族ぐるみの付き合いが無くなり、両親の知っている限りでは遊んでいなかった、とのこと。
身代わりになる前の世界でも小学校に上がった頃から僕と千秋の家族ぐるみでの付き合いは減っていた気がする。大抵、僕と千秋をどこかに連れていく時くらいしか僕の両親と千秋の両親は顔を合わせていなかったはずだ。
つまり、今いるのは小学校で僕と千秋は仲良くなれなかった世界線ということになる。
あれだけ特別な恋とか運命の相手だとか言っていたのに僕が走れなくなっただけで、こうも運命が変わるとは。
走れない自分に自信のなかった僕が自分から周りを避けていた可能性もあり得るが、小学一年生の昼休みにやったサッカーでの一戦が運命の分岐点だったとしたら。
千秋は単に「運動神経が良かった諏訪和樹」に惚れていただけなのではないか。
運動神経が良ければ誰でも良かったのではないか。
現にこの世界では、身代わりになる前の世界でまったく見向きをしていなかった大地と付き合っているではないか。
そう考えると、やるせない気持ちになる。
けれど、それでもまだ信じている自分がいた。馬鹿だった当時の僕はここから千秋と結ばれるチャンスがあると思っていた。
千秋と大地がキスしているところを見るまでは、そう思っていたんだ。
あの教室での一件から度々、僕への嫌がらせや陰口が聞こえてくるようになった。そりゃ今までクラスで空気だった奴がいきなり人の彼女を自分の恋人だと言い出すのだから、頭がおかしいと思われても仕方ない。気持ち悪いとかストーカーだとか言われても仕方のないことだ。
何から何まで失ってしまった。
恋人も、ライバルも、友達も、何もかも。
全てを犠牲にしてでも千秋を助けるつもりだった。
死んでも構わないつもりで身代わり石に玉を投げた。
その結果、好きな人が助かったのだから文句なんてない。
自己犠牲で恋人を救うなんて、漫画やアニメであるような特別な恋みたいじゃないか。
そんな馬鹿げたことを自分に言い聞かせたところで、僕は納得できなかった。
千秋に裏切られた。彼女が悪い訳じゃないのに憎んでしまった。どれだけ言い聞かせようと見返りを求めてしまう。千秋じゃなくてもいい。誰でもいいから慰めてほしかった。これのどこが特別で理想の恋なのか、下らなすぎて笑ってしまう。
そこでようやく自分が何を失ったのか理解した。
玉に書かれていた「夢」とは「夢見がちな自分を捨てろ」ということだった。
空想ばかり見ていないで現実を見ろ。運命の相手も特別な恋も現実には存在しない。おかしいのは周りではない。お前である、と。
僕は高校生にもなって現実を見れてなかった。
小さい頃は世界がとてつもなく広く、輝いて見えた。悪を倒すヒーローがいて、魔法を使える少女がいて、世界のどこかにまだ恐竜が生きていて、海の底には怪獣が眠っていて、クリスマスにはサンタクロースがやってきて……不思議なことで溢れかえっている世界だと信じていた。
でも、大人に近づけば近づくほど目に見えるものだけが現実で、目に見えないものはこの世に存在しないことに気づいていく。
悪を倒すヒーローも、魔法を使える少女も、恐竜も、怪獣も、サンタクロースも、不思議なことなんて何一つない世界だと知っていく。
世界はどんどん薄汚れていき、それが汚れであることさえ分からなくなる。高校に上がった頃には周りの人間は汚れてしまったように見えた。自分だって例外ではなく、無垢なままではいられなかった。
だけど、僕には一つだけ汚れずに残っていたものがあった。目に見えなくて、でも実在するものが一つだけ残されていた。
それが「恋」だった。
漫画やアニメのような体験をできる唯一無二の存在であると信じていた。だから恋だけは綺麗なままでいてほしかった。打算的な恋も外見だけで決める恋も目に入れたくなかった。僕を現実に連れ戻そうとする存在が許せなかった。
――もう僕は現実に期待しない。
前向きに考えれば、これは悪いことではなく、成長とも言える。大人になる為に夢を捨てたのだ。これは現実を生きていく上で避けて通れない道だったんだ。
僕はそれから一人で過ごすようになった。友達も恋人も欲しいとは思わない。身代わりになる前と比べて世界はモノクロに見えて、何をしても楽しくないと決めてつけていた。千秋と過ごしていた幻想の日々が綺麗すぎたのだ。もう何を目標にして生きればいいのか分からない。
ただ、慰めだけが欲しかった。僕の心に空いた穴はとても慰めの言葉で埋まるものではないけれど、もうそれぐらいしか欲しいものがなかった。
あの少女に再会するまでは――。
身代わりになってから一ヵ月半が経った十二月のある日、僕は川を眺めていた。千秋と一緒に歩いた川沿いを歩くだけ。僕の横には誰もいない。
そこで彼女と目が合った。
あの日と同じように。
僕達は数秒間、お互いの顔を確かめるように見入っていた。
そして目線の先にいた少女は微笑み、手招きしてきた。驚いたというより少し怖かった。死んだ人間が三途の川から手招きしているようなものだったから。
だけど、招かれるままに少女の元へ足を運んだ。
「ねぇ、ひょっとして私のこと知っている?」
少女がフレンドリーに話しかけてきて、目の前の彼女がまだ生きていることを確認する。
「同じ学校の生徒だろ」
僕がそう返すと、少女は目を丸くして驚いていた。
「それで……こんなところで何してんの?」
少女はその言葉を待っていたかのように嬉しそうな声で答えた。
「四つ葉のクローバーを探してたの」
一瞬、発せられた言葉が理解できなかった。言葉の意味は分かっていても、高校生が四つ葉のクローバーを探すことが理解できなかった。
「今空いている?」
「空いていると言えば……空いているけど」
返事を聞いた少女は「じゃあさ、手伝ってよ」と言った。
「一緒に四つ葉のクローバーを探してよ」
微笑む少女は、あと数ヵ月で死ぬとは思えないほど眩しく見えた。
これが――幸野綾香との再会だった。
思い返せば、この時から四つ葉のクローバーを探していたり、夢見がちな少女ではあった。身代わりになる前の僕と、どこか似ている。現実を見ずに空想の世界を見ている少女。
サガリバナに憧れた少女と夢を捨てた僕の関係は――ここから始まった。
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