第19話 玩弄する精霊神
次の日になってもご主人様は目覚めなかった。
「ぅぅ……、神獣様だいじょうぶかなぁ……」
涙目のアーリーンがご主人様の頭を愛しく撫でる。セレスはご主人様の額に手を当ててスキャニングをする。
名前:シズマ
Lv:32
種族:神獣
性別:女
筋力:6900000
体力:2772001/4800000
魔力:12409176/18000000
闘気:11050718/15000000
神性:310000000/310000000
器用:6800000
敏捷:7200000
反応:6700000
知力:850000
精神:1100000
魅力:90000000/9800000
備考:休眠状態。生命体の防御行動によりパラメータ変動。
昨晩からご主人様を念入りにスキャニングしているが、体温、呼吸、脳波……なんの異常もなく、体力、魔力、闘気のパラメータがじわりじわりと回復していくのが見える。
「問題ありません。ご主人様は眠っているだけです」
神獣に生まれ変わってからご主人様の体質もずいぶん変わったようだ。前世の殺し屋のときにはわずかな異変でも目覚めていたし、寝る時間もAIであったセレスにきっちりと管理させて不要な睡眠はとらないようにしていた。
「ご主人様は急激に成長された影響と戦闘による消耗で、活動に必要な体力、魔力、闘気の最低値を割ったものと推測。長時間の睡眠を確保することで回復をしていると考えられます」
神獣の生態は精霊神であるセレスも詳しく知らない。ただ、子供は疲れていれば眠るし、お腹が空けば泣く。体力が減ったら長時間にわたり眠り続けるのは神獣の子供の生態なのかもしれない。
「寝ているだけか。腹、減らないか?」
グラシアの指摘はもっともである。
「用意しておくべきです。アーリーン、準備してください」
「わっ!? っとと……」
セレスは持っていた貨幣袋をアーリーンに投げてよこす。アーリーンは危ういところでキャッチする。貨幣袋を持ったままアーリーンが手を上げる。
「ご飯を買いにいくまえにお風呂に入りたいです、精霊神様!」
「却下です。お前がごみ同然に汚れていようと私はなんら気にしません。さっさと行きなさい」
「えぇ~っ!? 昨日から水浴びもできてないんですよぉ……ほら、神獣様も汚れちゃってるし、入りたいにゃぁ~って!」
アーリーンはご主人様の手をとり荒ぶる猫のポーズ。セレスは流れるような動きでアーリーンの頭に手刀を振り下ろした。
「あぅ……いたい」
「ご主人様で遊んではいけません。ですが、まあ……よいでしょう」
アーリーンの言う通り、ご主人様は戦いのせいでホコリに塗れ、擦過傷による血の滲んだ痕が残っている。服もヨレヨレになっているので新しいものを用意してあげなければいけない。
不承不承セレスは精霊たちによって清掃された真新しい大浴場に湯を張ることにした。そして――、
「何故、私まで……、私は精霊ですから汚れなどありません」
セレスとアーリーン(とご主人様)とグラシアは沸かしたての湯にゆったりと浸かっていた。体育座りのセレスの対面にアーリーンがぐでんとリラックスしている。
「まあまあ。みんなで入れば気持ちいいんだから、そんなこと言わないで~」
アーリーンは片腕でご主人様を支えながら大浴場で大きく伸びをする。大量の湯がざばーっとあふれ出ていく。真っ白な双丘がぷかりと湯に浮かんだ。
「ふわぁ……気持ち、ぃぃ~~~♪」
「神獣の子供目覚めない。危機感なさすぎる」
その隣ではご主人様の頬をつんつんする仏頂面のグラシアがいる。
褐色の肌はわずかに上気して頬が朱に染まっている。口を開けばセレスとご主人様の悪態ばかりであるが、共同生活に文句も言わずに付き添い続けている。
「誰のせいだと思っているのですか――」
「戦いは待ってくれない。こんな神獣では頼りにならない」
「神獣様はまだ子供なの! いっぱい働いたら疲れちゃうもんねぇ~、よしよし……」
ご主人様は髪も体もきれいに洗われて、アーリーンに抱えられたままスヤスヤと寝ている。ときどき「むー……ん」と寝言を呟くくらいでまったく起きる気配がない。
「ボクは事実を述べただけ」
「お前のせいで我が主は余計な消耗を強いられたのです。感謝していると言ったのは口だけですね。アーリーンに任せるばかりでなく、我が主の慰撫に努めればいいものを」
「…………断る。ボクは戦士。子守しない」
「シアちゃんは王女の役目からも逃げるんだもん。ほんとならシアちゃんが王女やってても良かったのに~」
「ふん、役立たずの神獣のお世話なんてまっぴらごめん」
グラシアは風呂から上がると尻尾の水気を払い落とす。もう十分と言いたげな顔をしていた。アーリーンと違って風呂好きというわけでもないらしい。体を十分に温めたセレスも続く、遅れてアーリーンも立ち上がった。
「ぁぁ~、さっぱりした! ありがと、精霊神様!」
「アーリーン、足元に――」
セレスはアーリーンの踏んだ床が滑りやすいことを指摘する、……よりも早くアーリーンの軸足がつるりと、身体が傾いだ。
「っ、ぇぇええ~~~~~!?」
アーリーンの悲鳴が風呂に反響する。
ついでにご主人様がアーリーンの腕からこぼれ落ちる。
「くっ、ご主人様――!」
「ぐぇ」
アーリーンをど突き飛ばしてセレスは駆け寄ろうとするが一歩及ばない。セレスの指先が空を切る。ご主人様が頭から大浴場の床に落ちる寸前、黒い疾風が駆け抜けた。
「……」
グラシアだ。
瞬間移動したかのようにセレスを追い抜いたグラシアがご主人様を救い上げる。黒髪がヴェールのように視界を流れていく。
「――お前は」
「ふん、……我が主と謳うわりに大したことない」
グラシアがククッと嗤う。セレスはご主人様を助けようと腕を伸ばした姿勢のまま静かな怒りをにじませる。
「ふ、ふたりとも……わたしのことも構ってよ……」
アーリーンが大浴場の床に転がったままか細い抗議の声を上げる。セレスもグラシアも抗議の声などきれいに聞き流して睨みあっていた。
***
――
「まだ、か……」
風呂上り。グラシアは拳を握り締めて己の力を確かめてみる。
神獣の子供を助けたときの動きから察して、体力の回復具合は三割と言ったところ。まだまだグラシアを捕らえた悪神と戦うには足りない。
あの日、クィユ族の奴隷たちの匂いを辿って奴隷市場に忍び込んだ夜。人口庭園で出会ってしまった悪神の姿を思い出すだけで、体の芯から震えあがるような恐怖が湧き上がってくる。圧倒的な力の差にグラシアは射竦められてしまい一歩も動けなかった。
あんな無様な気持ちは二度とごめんだ――。
戦う力が、勝てないと理解していても心に負けない勇気が欲しかった。なにより、悪神がグラシアを狂戦士にしたのは、狂っていれば怖くて震えるようなこともないだろう、と揶揄されているようで、悔しさと歯がゆさで心が弾けそうだった。
グラシアの悩みなどいざ知らず、
「――ご主人様が目覚めるまで現状維持に努めます。しばらく、この家に身を潜めましょう。私は情報を集めながら次の手を考えます」
「はぁい。私はご主人様のご飯を買ってきます!」
自らの使命だと言わんばかりに元気よく答えるアーリーンの腹から盛大な腹の音が聞こえてくる。
「我が主の供物まで食べないように」
「だ、だいじょうぶ、です!!! じゃあ、シアちゃんはご主人様のことをおねがいね!」
アーリーンが、はい、とグラシアに神獣の子供を押し付けてくる。ぐいぐいと胸に押し付けられる
「なんでボクが――」
「お前がアズナヴールの街を出歩けば大騒ぎになる。お前に頼める仕事は子守くらいです」
「……」
グラシアは神獣の子供の寝顔を眺めながらこれ以上ないほどの渋面を見せる。だが、アーリーンもセレスもグラシアの様子などおかまいなしであった。
「シアちゃん、おるすばんお願いね!」
「私は情報の空白地帯から悪神の調査をしてきます。食事は三人で摂取してください、では――」
パタンッと玄関口が閉じられ二人の足音が遠のいていく。残されたのは静かに眠る神獣の子供とグラシアだけである。
「ふん――」
グラシアは神獣の子供をぺいっとベッドの上に転がすと、窓枠に腰かけて外の様子を窺う。三階の窓から望むアズナヴールの街には人の営みが溢れている。クィユ族の村とは違うとても騒がしく疲れる世界だ。
神獣の子供をそっと窺う。
グラシアとて神獣の子供に感謝していないわけじゃない。神獣の子供がクィユ族のことを思ってくれていることは加護を通して伝わってくる。だが――。
神獣ルシャトトムを思い出して怒りの唸り声を上げる。
クィユ族に強い神獣が加護を与えてくれるようになったことを喜ぶべきであることは理解している。でも、グラシアの感情的な部分は納得できていない。
神獣ルシャトトムが神話時代からの約束を破ったことでクィユ族は危機に立たされている。守ってもらえると信じていたのに裏切られた、とグラシアの心に刻みつけられている。
「むぅ……ぅぅん」
なんとなく気になってしまい神獣の子供に視線を向ける、と寝返りをうった拍子にベッドから落ちそうになっているのが見えた。窓枠からひらりと身をひるがえしてベッドに戻る。こうも寝返りばかりだと目も離せない。
なんとなく抗いがたい気持ちに圧されて、グラシアは神獣の子供を抱きかかえてベッドに寝転がった。
神獣の子供を抱きしめてみて驚いた。
「! ――……あたた、かい」
じっとりと汗ばむような暑さではなく、肌を通してじんわりと染み渡るような熱が伝わってくる。触れているだけで身体と精神を癒していくような不思議な力が流れ込んでくる。
もう少しだけ強く抱きしめてみる。
「んん……んー……」
神獣の子供は押し当てられた胸に苦しそうにしていたので、頭を抱きしめて鼻先で向かい合うようにして抱いてみる。安定した。さっきよりも強く癒しの力が流れ込んでくる。
「ハァ……、これ、いいなァ……」
思わず快感に喘いでしまいそうであった。ふわふわとするおかしな気分を感じながらグラシアは神獣の子供を抱きしめたままベッドに転がる。胸いっぱいに息を吸えば神獣の子供の匂いに心が安らぐ。
失われた体力がぐんぐんと回復しているのが肌で感じられる。アーリーンがいつも神獣の子供を抱きしめていたがるのはこれがあるからなのかもしれない。
そこへ、――ぎぃぃと扉が軋んだ音を立てて開かれる。
「ククク……、ずいぶんとご機嫌ですね――」
「せ、精霊、神!? ――ぅ、っ……!」
出かけたのではなかったのか、とグラシアはベッドから身を起そうと、抱きかかえた神獣の子供を突き放そうとして、……ぴくりとも体が動けないことに気がついた。いや、身体が動かないわけじゃない。本能的な感覚が神獣の子供を手放すことを拒絶していた。
「――調査。個体名:グラシアは、悪神によって矯正されて【英雄】の力を失いかけていましたが、ご主人様が発する
「神獣の子供が休眠しているときは防御行動のスイッチが入り、危害を加えるおそれのある生命体に対して状態異常を振りまく。生命波動の追加効果として付与される状態異常は【英雄】の無効化の力でも防御できない……。興味深い生態ですね、神獣は」
「ボクに、なにをした……!」
「神獣の子供が発する
「――フフフ、駄犬のしつけは手間がかかりますね」
「こんなもの!」
グラシアはがりっと唇を噛む。口の切れる痛みに状態異常が薄れるが、次の瞬間には神獣の子供から流れ込んでくる癒しの力で回復して、
「無駄ですね?」
「……ぅ……ぐ、ボクを、ムリヤリ従えようとしたって……」
「おやおや、ルシャトトムが許せないだけで我が主に感謝はしているのでは? 私は素直になれない臆病者のお手伝いをしているだけです」
「神獣の子供、認めるには……戦うしか、ない!」
少なくともグラシアは自分で納得したかった。それを、お手伝いなどと言い換えても、結局は服従させるだけではないか。
「おこがましい。お前の自己満足に割いている時間はありません――」
グラシアは胸を締め付けられるような喪失感に囚われた。咄嗟に手を伸ばす。
「ぁ……、か、かえ……」
「返して? 神獣は嫌いなのでは、フフフ……」
「ぁ、ぁぁ、ぐぁ――」
神獣の子供を取り上げられてすぐに、グラシアの身体と心に凄まじい衝動が駆け巡る。
神獣ルシャトトムに裏切られた恨みと悲しさで胸に耐えがたい痛みがある。
神獣の子供に対する感謝の喜びと嬉しさでありがとうと伝えたい感謝の気持ちがある。
相反する感情に心を揺さぶられ、
「ぅああああああああああ――ッ」
猛烈な喪失感と渇欲の本能に意識が保てなくなってくる。苦しみ悶えるグラシアを淡々と観察する精霊神の声だけがぐわんぐわんと聞こえてくる。
「
「ぁぁ、かえして、かえして……」
グラシアの黒瞳からボロボロと涙がこぼれる。
伸ばしてしまった掌を切なそうに見つめ、熱っぽい息を吐き、笑っているのか悲しんでいるのかわからない表情のまま神獣の子供を求めてしまう。
「ククク……、お預けされる気分いかがですか? 我が主に忠誠を誓えば、返して差し上げてもよろしいですが――」
「忠……誠……?」
神獣の子供を惹かれる力に意識は朦朧としている。抗いがたい本能に理性が押しつぶされそうだった。グラシアは指の先だけで体を支えているような精神力で耐えていた。
「誓いたい……、けど。……信じ、られない……裏切られたくない……」
「愚かな、駄犬。――戯れに嬲られようが、裏切られようが、心臓を抉りだされようが。ただ我が主に信じ続ける意思さえあればいい。それが、忠誠というものです」
「……そ、んなの、ボク、たえ、られない……」
「フフフ……、だから狂わせてやろうと言うのですよ、我が主の
焦点の合わない瞳をさまよわせるグラシアに囁くように命じる。
「過去を忘れ、己の心に従いなさい。お前を救い出すために傷だらけとなった我が主に報いなさい。お前にはその責務があります」
「……ボクの、意思は……」
「不要です。さぁ、どうぞ」
「ぅあ……や、やめ……て……」
怖い。忘れてしまったらどうなるのかが怖い。裏切られる恐怖を忘れることが怖い。何が怖いのかわからないのが怖い。ただただ怖いとおびえる感情にガタガタと震えが止まらない。
後ろに下がりたいと慄く気持ちに反して身体は温もりを求めてやまない。グラシアは両手を掲げるように差し出していた。
「――ッ」
グラシアは神獣の子供を胸に抱き抱えた。刹那、心蕩けさせる温もりにがグラシアに流れ込んでくる。せき止められていた感情が濁流のように溢れた。
「ぁ……ぁ……――」
グラシアの身体がビクリと跳ねる。
感情の濁流は、グラシアの思考を飲み込んで過去の忘れられない心の痛みと共に押し流していった。そして、
「? ……」
グラシアの黒瞳に光が戻る。いつもと変わらぬ様子で周囲を見渡したのち、胸に抱きかかえた神獣の子供を見下ろした。
「ァハハ……神獣さまだ……、寝顔、かわいい……」
グラシアは我が子を慈しむかのような表情で神獣の子供に頬を寄せた。
***
セレスは
グラシアをスキャニングしてパラメータを確認してみる。
名前:グラシア
Lv:38
種族:幼神獣の狂戦士(魅了)
性別:女
筋力:4500000
体力:4000000/4000000
魔力:900000/900000
闘気:6000000/6000000
神性:720000/720000
器用:1900000
敏捷:1800000
反応:2400000
知力:320000
精神:300000
魅力:1200000
備考:幼神獣の加護(上級)。状態異常により、知力、精神、弱体。
「――確認。
ご主人様の世界では、不規則な日常生活や精神的負担の大きい戦場生活における精神疾患に対応するため、疑似感情を人格に上書きして
この医療技術により人類の精神は強靭になったと絶賛されていたが、疑似人格の上書きに失敗して本来の人格が完全に抹消されてしまって廃人になるケースがマイノリティリポートとして挙がっている。ちなみに、医療技術を開発した企業はケースを完全否定している。
セレスは記憶に残る医療技術を流用してグラシアの
ご主人様を愛でるグラシアを眺めて、ふと呟く。
「まあ、狂っていてもしあわせであれば問題ありませんか。しあわせであるかは自分で決めることですからね、ククク……」
セレスは踵を返し部屋を後にする。アーリーンに言った通り情報収集をするためにアズナヴールの街へと戻っていった。
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