メトロノームと白昼夢

9ON

第1話

今日もメトロノームはリズムを刻む。


一寸の狂いもなく規則的に、一定のテンポを保ちながら。


私はそんなメトロノームを胸に強く抱きしめながら、色褪せていく世界の中心に立ち尽くしていた。




カチッ カチッ カチッ カチッ カチッ




メトロノームは決して止まることはない。


だってそれが当たり前。一度動き続けたら、止めようとしない限り勝手に何時までも動き続けるのだから。


足下には沢山の楽譜が散らばって、私が奏でてきた世界がこちらをただ見つめている。その中の小さな、手のひらに収まる小さな楽譜を、私は拾い上げた。




今日は週末、何をしよう。暇ではないけど退屈だ。学校が休みだと世界の全てが止まったように感じるのは私だけ? 今日もメトロノームは動き続ける。


あの人にも会えない、何かがはち切れそうな気がして軽く胸を押さえ、一つ大きな深呼吸。――電話しようかな。


メトロノームの刻むリズムが速くなる。番号を押し続け、通話ボタンを押すと彼の声。




「あのね、今日――」






小さな楽譜はそこで途切れている。優しく畳んで足下に置き、私は前へと歩き出す。


くしゃり、くしゃり。紙を踏みしめる音が灰色の世界に木霊する。


私以外白か黒、モノクロな街並みを眺めながら散らばる楽譜の悲しげな詩を聞き流す。


もう戻れない。私には許されたのは進むことだけ。振り返ると真っ黒な私の足跡が規則的に続いている。




もうこんなに、歩いてきたんだ。




果ては、何処だろう。




私のメトロノームは、いつまで私を刻み続けられるのだろうか。


既に、本当の私が刻むことは出来なくなっていたけれど。




風が吹いてきた。流されるように、導かれたかのように一枚の楽譜が私の足下へ舞い降りる。


その周りには沢山の楽器が転がっている。どれも真っ黒、絵に描いたように嘘っぽい。それでも触ってみると確かに楽器で、なぜか不思議と懐かしい感じがする。


この楽器に何か思い出なんてあっただろうか。その疑問に応えるかのように、楽譜は風を受け激しくページをはためかせる。バタバタと音を立て、無数のページが私に読めと激しく主張しているような気がして、私は楽譜を開いた。






「今日は何してたの?」


「……どうしたの、急に」


「一人で何やってたのか気になったから。嫌だったらどっか行くから、よかったら教えてよ」




まだ誰もいない朝、教室の廊下側の一番後ろの席。私がひっそりと五線譜に音符を連ねていると、既に学校に来ていたらしい彼が話し掛けてくる。


明るい声で話し掛ける同じ年の少年は、物心付いた時には私の傍にいつもいた。


無遠慮だけどどこか憎めない笑顔は、誰にでも向けられる平等なもの。好奇心のままに自由に行動できる姿が私はとても羨ましかった。




「曲を作ってたの」


「どうして? 創作意欲が湧いてきたの?」


「そうかも。趣味の意味合いが強いから、これといって明確な目的を持って作っているわけではないし」




言われるがままに私は質問に答えていく。その間も五線譜に旋律を紡いでいくことは止めない。メトロノームで拍を取りながら音階を頭の中で奏で、紙に記していく。




「やっぱ書くの早いね。できたら聴かせてよ、その曲」


「やだ」


「お願いだから、ね?」


「ダメです」




絶対に聴かせません。


これは大切な人に贈る曲だから。


大切な想いを込めた曲だから。


いつか来たるその時まで、あなたには聴かせることはできません。




「なんか今日は意志が強いね……」




私の徹底抗戦に軽くたじろぐ彼。意志が強いとは何ですか。私はいつだって強い意志を持っています。ただ、重要なときに迷ってしまうだけです。


なんてこと、言えたらいいのに。上手く返せなくて、結局黙り込む事しか出来ない。




「まあ嫌なら仕方ないか。じゃあ会いに来た本題に入るよ。今日さ、駅前に新しいスイーツの店が来たんだけど、一緒に行かない? 全額僕が出すからさ」


「行く」




口が無意識に動いていた。今では思い出すだけで恥ずかしい。返事を聞いて、彼の表情もぱあっと明るくなる。やっぱり、子供みたい。私もまだ子供だけど。




「よし、決まり! 放課後、玄関で待ってるね。もしも遅れそうだったり用事が入っちゃったらその時にでも教えてよ。じゃあね、自分、まだ宿題終わってないんだ」




バタバタと彼は教室を去って行き、再び教室には微かな私の呼吸音と紙が擦れる摩擦音だけが取り残される。さらさらと音符を刻む手は進み一枚分の楽譜が書き上がる頃には、教室に他の生徒が入ってくる時間だった。




「……ここの音は一オクターブ上げよう」




誘われたせいなのか、気付かぬうちに気持ちと音と口角が上がっていた。




楽譜はそこで終わっていた。いつか私が刻んだ楽譜、いつか私が刻んだ道。


その白ばかりの楽譜は何故か黒く染まり、記されていた音符すらを呑み込んでいく。


恐怖を感じ楽譜を足下に捨てると、黒がじわりとこちらに向かって染み出していた。


アメーバみたいに形を変え、水のように不規則に迫り来る黒に、白い私は逃げ惑う。


嫌、来ないで。か細い声なんて黒には届かず、周辺の楽譜を取り込み続ける。




加速するメトロノーム。私はそれを強く抱きしめ、後ろへ向き直った。戻るんじゃなくて、後ろに進めばいい。私は後ろへ向かって走り出す。


これは白昼夢、現実にはあり得ない光景だもの。どうやったら醒めるのかは分からないから、あの黒から逃げながら手がかりを探しながらこの白黒に埋め尽くされた街を彷徨うことが今のところの最善。




黒に呑まれたとき、終わる。私は無くなってしまう。


対して活躍しない本能がそう告げていた。


走り続けると、何処とも知らぬ街から先程行こうと言っていた駅前に出た。さっきの得体の知れない黒ではなく、光と影を表す綺麗な白黒がきちんと広がっている。


ここにもおびただしい数の楽譜が散らばっている。お目当ての楽譜探しは少し骨が折れそうだ。




拾い上げては読み、拾い上げては読み、私は過去を奏でゆく。けれどもさっき見た楽譜の続きは見つからない。手当たり次第に楽譜を読むのを止め、手がかりを探しに駅前を歩き回る。


付近の公園にたどり着くと、例のスイーツ店を発見。クレープを中心に売っている移動式のお店のようだ。


メニューの書かれた看板に、楽譜がぴったりと貼り付いている。営業妨害で捕まりそうで怖いけど、私を除いて人は誰もいない。私は楽譜を看板から剥がすと、ゆっくりと開いた。






「……ご馳走様でした」


「ごちそうさまでした。美味しかったね、ここのお店」




カチッカチッカチッカチッカチッカチッ




「でもちょっと高い気がするんだよね。一つ五百円は高校生の財布に優しくないと思うんだけど」




カチッカチッカチッカチッカチッカチッ




「おーい、聞いてる?」


「はうっ!?」




彼は目の前で手をひらひらと振って私の意識を現実に引き戻した。今何していたんだっけ? 誘われたスイーツ店に行って、一緒に食べて、確か、確か……




「何だか今日は様子がおかしいよね。体調大丈夫? 病気とかだったらまずいよ?」




ぎくりとした。




「だ、大丈夫! 病気なんかじゃ全然ないから」


「でもやっぱり心配だよ。いつもだったら、「何でもない、平気」とか言うのに今日はビクビクしてるし。熱とかある?」




彼はそう言うと、私の顔に手を近づけてきた。そのままおでこに触れ、ゆっくりと離れていく。


メトロノームは車のウインカーもびっくりするくらいカチカチと音を立てていた。




「うーん、熱はないっぽいな……万が一のことも考えて今日は帰ろうか」


「え……?」




待って、そのままでいて、私は平気だよ、次々と言葉が思い浮かんでは消えていく。帰りたくない。もっと今を続けていたい。だって、今が終わってしまったら、私は――――




呼吸が、速くなっていく。


明瞭だった視界が、ぼやけていく。


耳から聞こえる音が、遠くなっていく。


速かったメトロノームが、遅くなる。






カチッカチッカチッカチッ


カチッ カチッ カチッ カチッ


カチッ  カチッ  カチッ  カチッ


カチッ    カチッ    カチッ


カチッ       カチッ


カチッ――――






どさり。






「やっと、思い出した」


「私は白昼夢を見ていたんだ」


「あれは幻、私が勝手に生み出した幻想」


「叶わない夢なんて見なくて良い」


「いい加減、夢から醒めましょう」


「彼のことなんか忘れよう」


「あんな曲なんか捨てよう」


「だってそれが最良なん」




「うるさいっっ! 黙れえっ!」




楽譜が、弾けて消えた。




真っ白だった空はいつの間にか真っ黒に染まり、星のない宇宙のように底知れぬ闇を内包しているようだった。


フォルテシモで叫んだ喉は酷く痛み、荒い呼吸を繰り返す。




夢を見て何が悪い? 叶わぬ夢を妄想して誰かに迷惑を掛けるのか?


違う。悪くない、迷惑なんて掛からない。


いずれ向き合う現実に、自分が酷く傷付くだけだ。




黒は浸食を続ける。既に周辺は黒に呑まれてしまった。このままでは続く道を断たれるのも時間の問題だ。私は続きを識るため、病院へと走り出す。




メトロノームは、遅くなる。




機械はいつか壊れるものだ。老朽化が進み、その内動かなくなる。


それは人も然り。年を取り、次第に衰えていく。


脆弱なメトロノームは既に悲鳴を上げている。


メトロノームが止まる時が、すぐそこまで迫っている。




ゆっくりと、私は病院へと歩を進める。


誰もいない白黒の病院は不気味さをこれでもかと漂わせている。しかし黒は後ろから迫ってきている。この白昼夢が何処まで続いているかは分からない。時間を無駄にせず、進めるだけ進もう。




病院の中には楽譜が一枚も見当たらない。でも必ずここにはある。大きな病院はここしかない。なら必ずここのどこかに―の――はあるはずだ。


私は病室を一つ一つ丁寧に探す。一階、二階、三階。楽譜はどこにもない。




楽譜が見つかったのは四階だった。四〇三号室、中にはベッドに横たわり延命処置を受ける寝たままの私と、私の手を握り続ける彼の姿。


その彼の足下に、楽譜はあった。


手に取ると、とても温かい。人の温もりが込められた私の記憶を、私はそっと開く。






「何で、教えてくれなかったんだよ……?」




急に倒れた彼女は救急車で運ばれ、沢山の管を繋がれて横になっている。


彼女は元々体が弱く、安静にしなければ生活の出来ない体だったらしい。


高校になってからはやや回復傾向にあったため運動なども一部許可が下りた、遅れて来た彼女の両親はそう教えてくれた。今回倒れた原因は極度の緊張による呼吸困難と医者は言っていたが、目覚める様子は一向に見られない。心臓の衰弱が激しく、手術をしなければ非常に危険だという説明を上の空になりながら聞いていた。そもそも体が手術に耐えられないようで、延命治療を施すことしか出来ないそうだが。




自分にもっと、できることはなかったのだろうか。もっと様子に注意して、気に掛けていれば、こんなことにならなかったんじゃないか?


意味のない後悔ばかりが溢れていく。もうどうしようも無い。奇跡が起こることを願うしかないんだ。




「結局、曲は完成してないんだよな……」




朝、幼馴染みの音楽少女が楽しげに書いていた楽譜。偉大な作曲家達のように、あの楽譜は未完のまま忘れ去られていくのか。




自分のせいだ。今日彼女を誘わなければ、こんな事にはならなかったのかもしれない。


誰かに贈るはずだった彼女の想いをきちんと届けさせることができたかもしれない。


邪魔をしたのは、誰だ? 道を断ったのは誰だ?




「僕だ」




涙が、零れた。身勝手な自分は彼女の将来を断ち切った。


そうだ、僕は、




「君を殺してしまったんだ」






「ううん、殺してなんかない、君は何一つ悪くない」




ただ、タイミングが悪かったのだ。私があそこで心臓発作を起こさなければよかった。美味しいものを食べて、楽しかったと笑い合って、また明日が来ればよかったのに。楽譜は粒子のように細かい粒となり、モノクロの世界に融和していく。私は彼の手を優しく握り返した。後ろを見ると、いつの間にか今いる病室の扉を黒が浸食し始めていた。


「ねえ、私。もう時間が無いんだよね」




返事は返ってこない。




「ねえ神様、いるのなら、最期のお願いを聞いて」




黒は扉を破り、病室をゆっくりと呑み込み始めた。後数十秒で私も呑まれてしまうだろう。どうせなら、別れが言いたい。私は普段は祈りもしない神に向かって願った。




「彼に会わせて」




瞬間、今いる世界が消えていく。モノクロの街が白く染まっていく。


全てが白に埋め尽くされた跡に立っていたのは、モノクロではない、カラーの私と彼。


まさか神様がいるなんて思いもしなかったけど、現実になった以上やりたいことをやってしまおう。




今日は終末、何をしよう? 最期に彼に伝えよう。何を伝える?




私の想いを、伝えよう。




「え、どうなってんだよ、これ……?」


「白昼夢だよ」




混乱して、頭が回ってないみたい。私は懇切丁寧に説明をした。




「ここは現実じゃない。現実では起こりえないことを見ることを白昼夢と言うの。あなたに別れを言いたくて神様にお願いしたら、叶っちゃった」


「別れって、そんな……」




早くも後ろから黒の気配を感じる。猶予はそんなにないみたい。私はさっさと本題に入ることにした。




「時間がないから手短に話すね。私はあなたのことが好きだった。昔からずっと一緒にいてくれて、適当だけどいつも気を遣ってくれて、今日だって誘ってくれてとても嬉しかった。でも緊張しちゃって、こんなことになっちゃったんだけど」




彼は最初こそ目を見開いていたけど、すぐに涙目になって震えた声で叫んだ。




「僕だって、君のことが好きだった! ずっとずっと、昔から! 他の人からの告白だって沢山あったけど全部断った! 君に好きだって伝えたかったんだ!」




「なあんだ。私達があと少し、勇気を出せば良かったんだね」




あと一歩、前に踏み出していれば、願いは叶っていたんだ。でも後ろから、空気を読まないモノクロームが迫ってきている。私は彼に一歩近づいた。




「もう戻れないから、私から最期のお願い。どうか、幸せになって」


「幸せって、君がいないのにどうすればいいんだよ……!」


「大丈夫、私はあなたと一緒に生きていくから。そうだ、私の作ってた曲、聴いてよ」




思い出して私は、あの朝書いていた曲を歌う。三十秒もすれば終わってしまう簡単で短いメロディー。ほんとは歌詞も付けたかったけど、残念ながら時間切れ。今歌うので精一杯だったから。




「あの曲、僕に贈るつもりだったんだ……」


「うん。ごめんね、未完成で」


「全然、最高に嬉しい」




私と彼はひとしきり笑い合う。背丈は同じくらいだから、隙をついて抱き付くことは造作もなかった。




「え、何、急に」




その言葉を鼻先がくっつくくらい近づいて塞ぐと、彼の頬が赤く染まった。こういうときは目を閉じて欲しいけど、私が不意を突いたから仕方ない。顔を離してその感触を確かめる。触れ合うだけでもこんなに気持ちが高まるなんて、激しくしたらどうなってしまうのかな?




最後に彼の体をぎゅっと抱きしめると、彼のメトロノームが聞こえた。




とくん、とくん。




温かな、優しい音だ。私は彼から離れ、黒の方を向いた。




「待って、まだ、一緒に居たい……!」




その言葉に君を貸さず、ゆっくりと、ゆっくりと進む。やがて黒が足に触れると、じわり、じわりと体を塗り潰していく。




白昼夢はこれで終わり、これからは終わりのない何かが待っている。私は彼に向かって、精一杯の笑顔で言った。




「あなたに出逢えて、私は幸せだった。もし叶うのならば、あなたが」




そんな悲しそうな顔をしないで。私も辛くなっちゃうから。また会えたらいいな。




 さようなら、愛しい人。




「――でありますように」




最後の一言を機に、黒が全身を包み込む。




私のメトロノームが、止まる――――――










「起きて、起きて!」




誰かが呼んでいる。何度も繰り返されるその声に応えようと目を開くと、眼前には病室が広がっていた。僕と彼女以外には誰もいない。一体誰が起こしたんだ?




「あれ、僕、どうして……」




遅れて、自らの手が握っているものに気付く。それは大切な手、いつの間にか冷え切っていた小さな手、僕の好きな彼女の手。


すぐ近くの機械はただ一つの同じ音を吐き出し続ける。耳障りなその音は今起きている現実を僕へ突き付けた。




「夢を、見ていたんだ」




彼女と話し、笑い合った短い夢。唇をなぞると微かに感触が残っている気がした。


あれは白昼夢、現実では起こり得なかった空想や妄想の類い。




不思議と、そんな気はしなかった。


黒に呑まれた彼女の言葉が、胸に残っていたから。悲しいけど、僅かに微笑みながら僕は彼女に伝えた。




「君の分も、幸せになってみせるよ」




その時、メトロノームは動き出す。


終わらない願いを刻むために。




いつまでも、いつまでも、モノクロの世界で私は待ち続ける。




「あなたが幸せになる、その時を」




 また一つ、カチリと。


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