星が輝く夜に

『七瀬を忘れたフリをしてください』


 事故に遭って病院に運ばれた俺の前に現れた初老の女性は表情を変えずにそう言い放った。その言葉ですぐに分かる。この人は七瀬さんの母親だと。何も言わない俺に彼女は続ける。


『それで七瀬があなたを諦めなければ、あなたとのことを認めます』


 七瀬さんは泣いていないだろうか。七瀬さんは俺を待っていてくれるだろうか。七瀬さんは俺を、信じてくれるだろうか。

 きっと俺は、不安だったのだと思う。だから頷いたのだ。

 門倉は毎日病院に来て俺の世話をしてくれた。だけど俺を好きだとか、そんなわけでは全くないようで。


「おう関、辻のこと諦めたか」

「……諦めるわけありません」


 部長も毎日のように顔を見に来た。……まさかこの人がライバルだったなんて。無防備で可愛い七瀬さんを思い出して頭を抱える。この人の前で隙を見せたりしていないだろうか。


「部長ー、毎日お疲れ様です」

「門倉も、関の見張りご苦労様」

「部長のためなら……きゃっ、言っちゃった!」


 キャピキャピ嬉しそうな門倉にため息を吐く。門倉は部長のことが好きらしい。そんな部長の協力をしてしまうのだから……。お人好しにも程がある。


「関くんも馬鹿だよね」

「……」

「お母さんのあれ、嘘だって薄々気付いてるんでしょ。だからみやびさんにも協力してもらったんでしょ?だってお母さんの言葉が本当なら、センパイに関くんが記憶なくしたこと伝えてすぐ来るはずだもん。でもなかなか来ないからみやびさんにそう伝えてもらったんでしょ」

「……門倉には馬鹿だって言われたくない」


 攫えるなら、攫いたい。でも今の俺は怪我で動けないし、その間に七瀬さんと部長の結婚が決まってしまったら。それに、やっぱり七瀬さんにとってお母さんも大切な人だから。あの言葉を信じたいのだ。俺たちのことを、認めてほしいのだ。何年かかっても。


「でもセンパイが本当に諦めちゃったらどうするの?みやびさんにお母さんの言葉も全部伝えてもらったほうがよかったんじゃないのー?」

「……うるさい。いいんだよこれで。俺はお母さんのことも七瀬さんのことも信じたいから」

「ほんと生真面目だねー。やっぱりお似合いだわ」


 カラッと笑った門倉からは切ない胸のうちが少し伝わってきて。俺は思わず目を逸らした。

 そしてみやびさんが七瀬さんに会えたと連絡をくれたその日に、七瀬さんは俺に会いに来た。俺がつけた痕は消えてしまっただろうか。会えてうれしい。そう思って昂ぶる気持ちを何とか抑えようと、俺は七瀬さんから視線を外す。

 七瀬さんの声が震えている。……ごめん、もうすぐだから。きっと、もうすぐで……


「ずっと、待ってる。思い出さなくてもいい。待つだけは許して」


 七瀬さんがそう言って、俺は思い出す。あの日のお母さんの言葉を。


『あの子がそれでも、あなたを待てたら……』


 そうだ、あの人は。嘘を言ってるわけじゃない。俺をだまそうとしたわけでもない。ただ、俺の想像もつかないほど、不器用なだけ。


『私はきっと、間違えていたことになるのね』


 俺たちは引き離されようとしていたわけじゃない。あの人もきっと迷っていたのだ。

 病院の廊下は電気が消えて暗く、月明かりが差し込んでいた。向こうに七瀬さんの後ろ姿が見える。松葉杖をついて出てきた俺に門倉は驚いていたけれど、すぐに笑った。


「もうやめるの?下手な芝居」

「……お前はいいの。あの人のこと」

「……センパイ、私のこと嫌いになっちゃったかな。関くんのこと好きになるなんてありえないのに」

「失礼だな」

「それでも、あの人のためにセンパイを犠牲にしようとしたんだもん。嫌われて当然だよね」

「……七瀬さんはそんなことで人を嫌うような人じゃないよ。俺も、お前のこと結構好き」


 門倉は目を丸くして、ふっと笑った。いつもの、人を小馬鹿にしたような顔だ。


「あんたに好きだって言われてもねぇ」

「……うん、そうだな」


 俺は笑って、必死で七瀬さんを追いかけた。あの人の手が七瀬さんに届く寸前。俺はあの人を制して名前を呼んだ。傷付けてごめん。あんなことをしても、七瀬さんは俺を待つと言ってくれた。約束、絶対守るよ。子どもの頃の約束を、俺は今……


「……七瀬」

「ひっ、ぎゃああ!」


 俺は思いっきり突き飛ばされて、壁に激突した。七瀬さんは俺なことに気付いて顔を真っ青にする。


「ご、ごめ!部長だと思って!え?関くん?なんで?!」


 床に座り込む俺の前に七瀬さんが座り込んで、俺の顔を覗き込んでくる。俺はふっと笑って、七瀬さんの頬にそっと触れた。


「……関くん……?」

「ごめん、全部思い出した」


 本当は忘れたことなんてないけれど。お母さんに言われたことを言えばきっと、七瀬さんは更にお母さんへの不信感を募らせる気がする。自分は試されたのだと。七瀬さんは目を見開いたまま固まった。


「七瀬さん」

「……」

「七瀬さん。七瀬さん、七瀬さん」


 何度も、愛しくて仕方ない名前を呼ぶ。その度にやっぱり離したくないという気持ちが大きくなって。


「ちゃんと、闘おう。認めてもらえるまで、何度でも話そう。俺は七瀬さんのそばにいる」


 一生認めてもらえなかったら。それでもいいか。誰かに取られるくらいなら。昔から変わらない無邪気な笑顔が見たくて、素早く唇を重ねる。七瀬さんは固まったまま、ボンッと顔を真っ赤にした。


「七瀬さん、大好きだよ」

「わ、わた、わたしも……」


 まるで初めて触れた日のように、七瀬さんは緊張から少し震えながら俺に手を伸ばした。その手をしっかりと握り、抱き寄せる。星が綺麗に見える、よく晴れた何でもない夜のことだった。

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