「七瀬さん、今日燃えるゴミ?」

「あっ、うん、確かそうだった!」

「じゃあ俺が出しとくね」

「ありがと、助かる!」


 朝はどこの家も忙しいと思う。バタバタと準備をしながら、先に家を出る関くんを玄関まで見送る。


「じゃ、いってきます」

「うん、また後でね」


 慌ただしい二人の時間が、見つめ合うことで一瞬止まって。近付いてくる関くんの顔に、目を閉じた。ちゅ、と一瞬だけ触れ合った唇がすぐに離れていく。ふ、と笑った関くんに未だに赤面してしまう私はいつか慣れるんだろうか。……いや、きっと慣れない。ずっとずっと、私は関くんにドキドキする。

 玄関が閉まった瞬間、頬を押えてキャーと叫んで。私も時間がないことを思い出して慌てて準備に戻ったのだった。

 今日の晩ご飯は何にしよう。まだ出社する前なのにそんなことを考えている私ってかなりおめでたい奴だと思う。でも関くんが美味しいと言って食べてくれるから一緒に食べる晩ご飯が楽しみなのは仕方のないことだ。

 しっかり戸締りをしたのを確認して体の向きを変えた瞬間。口を何かで塞がれ、体を羽交い絞めにされた。本当に怖い時って何もできないって本当らしい。頭が真っ白になって、ただただ怖いとしか思わなくて。浮かんできた関くんの顔が滲む。ポロリと涙が零れた次の瞬間、私は意識を失っていた。

 次に目を覚ました場所で、私は全てを悟った。目の前の椅子に座る人は、私がよく知っている人だったから。


「……お母さん」


 ポツリと響いた言葉。お母さんは椅子から立ち上がりツカツカと歩み寄ってくると、手を振り上げた。すごい衝撃に、ベッドに倒れ込む。


「結婚もしていないのに男の人と一緒に住むなんて!!軽蔑するわ!!」


 ああ、最悪の形でバレたんだ。私は深いため息を吐いた。

 実家に娘を連れ帰るのに、薬品を嗅がせて気絶させるって親のすることなんだろうか。軽蔑するのはこっちだよ。そう思いながら、私はお母さんを見上げた。


「……何ですかその目は」

「お母さん、説明するから落ち着いて」

「落ち着けるものですか!あなたは自分のしたことの重大さを分かっていないのよ」

「……好きなの」

「……何ですって?」

「好きだから、一緒にいるの。それがそんなにおかしい?」


 もう一度、頬に衝撃。涙も出ない。窮屈で仕方なかった。私はお母さんの操り人形だ。お母さんの期待に応えられなかったらすぐに殴られる。お母さんを恨むなんて、したくないのに。


「……とにかく仕事に行かないと」

「行かせません」

「行かないと迷惑かけるから」

「あなたの代わりなんて沢山いるわ」


 立ち上がりドアに向かって歩きだした私に、お母さんの冷たい声がかかる。……確かに私の代わりなんて沢山いる。でも私が行きたいの。この家にいたくないの。今すぐ関くんに会って安心したい。顔を見ただけでこんな悪夢忘れて日常に戻れるから。


「行く」

「いいえ、必要ないわ。七瀬はしばらく休むことになったから。急病で」

「え……」

「七瀬。あの男の人も、あなたじゃなくていいの。代わりなんて沢山いる。あなたはお父さんとお母さんが決めた人と結婚して……」


 吐き気がした。時代錯誤、なんて今はどうでもいい。この人たちには分からないのだろうか。私も「人間」で、「意志」があるのだと。


「……お母さんに、何が分かるの」

「……」

「関くんを悪く言わないで!」


 また手を振り上げたお母さんを、睨み付けた。殴りたいなら殴ればいい。それで気が済むのなら、殴ればいい。私はお母さんの言う通りにはならない。自分の意志で、関くんの隣に帰るから。


「……今まで育ててくださったこと、感謝してます」

「七瀬」

「もう私に関わらないでください」

「七瀬!」


 お母さんの金切り声の後で、強く突き飛ばされた私は。頭を打って気を失った。

 次に目を覚ました時、部屋にお母さんの姿はなかった。私は慌ててベッドを抜け出し部屋を出る。注意深く辺りを見回したけれど、誰もいないようだった。とにかく関くんに連絡しないと。今何時だろう。心配してるかもしれない。でも部屋の中に鞄はなかったし、きっと携帯もお母さんに取り上げられている。それなら直接会いに行くしかない。お財布も全て取り上げられた状況で、私たちの家までどうやって帰ろう。ああ、もう……。焦りが苛立ちに変わっていく。

 とりあえずこの家を抜け出さなきゃ。そう思い角を曲がった瞬間。ドンッと誰かとぶつかった。痛いと思う前に、部屋を抜け出したことがバレたと血の気が引いていく。私は恐る恐る顔を上げて、固まった。


「……おう」

「っ、部長!」


 ぶつかったのは部長だった。相変わらず仏頂面な部長からは煙草の匂いがする。どうしてここにいるんだろう。まさか、私の状況に気付いて助けに来てくれた?そんなはずないのに会社の人に会えたことで安堵が広がっていく。


「っ、あの、私、本当は病気なんかじゃないんです」

「……」

「お母さんに無理やり連れて来られて、お願いします、帰らないと、助けてください、待ってるんです」

「関が、か?」


 無言を貫いていた部長が無表情のままそう言う。まさかバレていたとは思わなかったけれど、今はそんなこと気にしている場合じゃない。


「……はい」

「……悪いけど、お前の願いは叶えられない」


 絶望的な気持ちになった。


「七瀬、ご挨拶しなさい」


 部長の後ろからお母さんの声が聞こえる。すっと全身が冷たくなっていく。暑くもないのに背中に汗をかいた。


「この方は、あなたの婚約者です」


 どうして、だとか、嫌だ、とか。頭の中では嫌悪感がぐちゃぐちゃに入り乱れているのに、どこか冷静だった。この人たちはきっと、二度と関くんと私を会わせない気だ。部長もいい人だと思ってたのに、悪い人だった。みんな私を閉じ込めようとする。お母さんの鎖に、また新しい鎖が絡まる。


「……関くん、助けて」


 呟いた言葉はお母さんの逆鱗に触れて、また殴られた。

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