好きな理由

 土曜日、バイトに行くと先生が既にいた。あ、と少しテンションが上がるも、すぐに沈んでしまう。隣に女の人が座っていたからだ。その人には見覚えがある。文化祭の少し前。山下と買い出しに行った時に先生と一緒にいるのを見た人だ。……つまり、先生の元カノ。

 まだ会ってたんだ。もしかして、ヨリを戻すことになったとか?私、振られるの?心臓が痛いくらいに鳴り響いて息がしにくい。今日は寒いのに、背中を汗が流れた。


「彩香ちゃん?」


 後ろから声を掛けられて、ビクッと体が跳ねる。振り向けば翔さんがそこに立っていて、不思議そうに私を見ていた。


「どうしたの?」

「……何でもありません、今日は帰ります」


 先生の顔を見るのが、怖い。私は翔さんの横をすり抜けて走った。走って走って、静かな路地に私の足音だけが響く。息がしにくくて走っても走っても前へ進んでいないような気がした。

 不意に、手を掴まれる。驚いて反射的に振り向けば、ハァハァと肩で息をする先生が立っていた。


「彩、どうした?」

「……」

「もしかして、あれ?アイツは仕事でいただけで」


 あれ、だとか、アイツだとか。そんな風に、気を許しきった呼び方をしないでほしい。私より、彼女のほうが先生との距離が近いことを実感してしまう。

 彼女は綺麗で大人で、先生に我慢なんてさせないし。先生の隣を歩いていても、誰が見てもお似合いだと言うだろう。

 でも、私は。先生に抱いてもらうこともできないし、隠さなくちゃいけない。どうして先生は、私を選んだのか。本当に分からない。


「……お似合いだった」

「……は?」

「私といるより、楽しそうだった」


 先生はいつも余裕で、あまり素を見せてくれない。でも彼女の前では普通に笑ってた。気を遣わなくていいんだろうなって、すぐに分かった。


「……私、やっぱり先生と付き合えない」


 私は子どもだから。先生を幸せにすることなんて、できないと思う。


「……彩」


 私の手を握る先生の手の力が強くなる。怒ってるのかな。先生はいつも、そうやって私を引き留めてくれたよね。でも、もういいよ。だって私、先生に無理させることしかできないし。拗ねてるわけじゃない。冷静に、私じゃダメだと思うだけ。


「短い間だったけど、楽しかった。夢みたいだった」

「……」

「ごめん、先生。ありがとう」


 私を好きだと言ってくれて、夢を見せてくれて、ありがとう。先生の手を外して、歩き出した。後ろを振り向かずに。

 それからしばらく、先生からの連絡もなかった。私は泣くとか落ち込むとかそんなこともなくて、ただ淡々と日々を過ごしていた。

 とうとう明日は大学の入学式だ。バイトは……どうしようかな。せっかく仕事も覚えてきたところだったけど。

 すずさんは可愛らしい見た目とは裏腹に、ダメなところはハッキリと言う厳しい先輩だった。もちろん、彼女はいつも完璧に仕事をこなしているし言われることも理不尽でなく納得できることばかりだから嫌な先輩では全くない。

 翔さんはすずさんを全面的に信用し、私には何も言ってこなかった。でも仕事が終われば突然甘い雰囲気を纏ってすずさんにちょっかいをかける。すずさんは恥ずかしそうにしながらもそれを受け入れていて、私も先生とあんな風になれたらなと思っていた。

 ……やっぱりバイト、やめたくないな。大変だけど楽しかったし。先生にもしかしたら会えるかも、なんて。未練がましいことを考えながら、今日はバイトに行くことにした。


「あ、彩香ちゃん来てくれたんだ」


 相変わらず美しい翔さんが微笑んでくれる。恐る恐るお店を見渡したけれど、先生はいなかった。安心したような、残念なような。私から別れたのに、今さら元に戻りたいと思っているわけじゃない。ただ、本当に大好きだったから。恋人でなくても、そばにいたい。


「翔ー、これはどうする?」


 キッチンから聞こえた女の人の声に、ビクッと体を震わせる。その声の主はキッチンから出てきて、私に気付いて目を瞬かせた。


「あ、悠介の彼女ちゃん。こんにちは」


 そして、綺麗で色っぽい笑顔で微笑む。先生の、元カノだ。どうしてここにいるんだろう。やっぱり来なきゃよかった。翔さんとも親しいみたいだし、もしかして彼女もここで働くことになったんだろうか。先生と、ヨリを戻して?俯いた時、彼女の焦ったような声が聞こえた。


「あ、あのね、勘違いしないで!私輸入食品の会社で働いてて、ここも取引先だから来てるだけで。あなたが気にするならここの仕事は後輩に任せて来ないようにするから」


 そう言えば、先生も言おうとしていた気がする。彼女は仕事でいただけだ、と。


「普通に考えたら嫌だよね。彼氏が元カノといるの見るなんて。でも本当に悠介とはもう何もないの。私にも素敵な彼氏ができたし」

「そう、なんですか……」


 彼女は嘘を吐いているようには見えないし、本当に私のことを心配してくれているのが伝わってくる。……いい人だ。この人を、先生が好きになった理由がよく分かる。

 彼女は、私を恨んだりしていないのだろうか。先生は彼女から私に心変わりして彼女と別れたのに。気まずくて何も言えないでいると、彼女は微笑んだ。


「悠介ね、言ってた。私と別れる時。ただそばにいてやりたいって思う奴が出来たって。それ、あなたのことでしょ?」

「……っ」

「障害が多くても、気持ちを伝えられなくても、ただそばにいてやりたいって。凄いね。無償の愛ってやつ?」

「そうだね」


 翔さんが彼女の言葉に頷く。そして、微笑んだまま私を見た。


「この前、悠介珍しく落ち込んでたよ。彩香に振られたって。あんな悠介見たの初めてだから面白かった」


 今度は翔さんの言葉に、彼女が「へー」と驚いたような声を上げる。そう、なんだ。先生、落ち込んでたんだ。先生はモテるだろうから、私なんかに振られても落ち込んだりしないと思っていた。


「……これは、悠介がすずちゃんに言ったことなんだけど。悠介の隣にいるのが相応しいのはね、悠介が一緒にいたいと思った人なんだよ」

「……っ」

「確かに彩香ちゃんは未成年だし、悠介は生真面目だし。触れ合うのも限度があるかもね。隠したり嫌なことだってあるかもしれない。でもさ、今だけだよ。我慢しなきゃならないのは今だけ。おじいさんとおばあさんになったら10個歳が違うなんて関係ない。どっちもおじいちゃんとおばあちゃんだから」


 翔さんの言葉に、笑みが零れる。確かに70歳と80歳はそんなに変わらないように思える。


「悠介がそんなに彩香ちゃんを大事にする理由、彩香ちゃんなら分かるよね?」


 翔さんの言葉に、私は曖昧に頷いた。

 先生は、そう。私をとても大事にしてくれている。付き合った時から分かっていた。自分が犯罪者になるとか言ってたけど、本当は私を傷付けるかもしれない要素を減らしたかったんだ。

 付き合う前だって、自分が先生だからずっと見守ってくれていた。私を傷付けないように。私に負担を掛けないように。そっと、見守ってくれていた。


「……私で、いいんでしょうか」


 不安と共に、涙が零れ落ちる。自分がネガティブだってことは自覚している。自分に自信があって、完璧な翔さんと彼女には分からないかもしれないけれど。私はいつも、不安だらけだ。


「彩香ちゃんじゃなきゃ、ダメなんだよ」

「……っ」

「悠介の決意、分かってあげて。優しい悠介が彩香ちゃんを選んだ理由分かってあげて」


 翔さんの言葉に、私は今度はしっかりと頷いた。

 二人にお礼を言ってお店を出た。先生、今何してるだろう。学校かな。仕事中だよね。会いたいってメールしたら、会ってくれるかな。立ち止まり、携帯を取り出す。

 自分勝手に別れを告げた私のこと、先生は怒っているかもしれない。怖い。先生に拒絶されるのも、もう好きじゃないって言われるのも。どうしよう。私はやっぱり、こんなに臆病で。いつだって先生に手を差し伸ばしてもらわないと、前に進むこともできない。


「せん、せ……」


 涙がボタボタと地面に落ちる。その時。


「……彩?」


 先生の声が、聞こえた。


「何泣いてんだお前」


 先生は心配そうに私の顔を覗き込んだ。久しぶりに見る先生に、私の涙は止まらなくなって。縋るように先生の腕を掴んだら、先生は戸惑いながらも頭を撫でてくれた。


「なん、でここ、いるの」

「あ?……いや、仕事終わったし……、お前は?」

「……」


 怖くて無言になってしまう私に、先生は一つため息を吐いた。面倒だって思われてたら、どうしよう。そう思うとまた涙が目に溜まっていく。でも。先生は口を開いた。


「悪いけど俺、別れる気ないから」

「えっ」

「お前がどうしても俺のこと嫌いだーとか気持ち悪いーとか言うなら別だけど。まだ俺のこと好きなら、悪いけど別れねぇ」


 先生は、どうして。どうしてこんな私をそこまで大事にしてくれるの?


「せんせ、ごめん……っ」

「ん?」

「わた、わたし、勝手に不安になって、やきもちやいて、先生に嫌なこと言った……っ」

「……うん」


 泣きじゃくりながら必死で話す私の話を、先生は優しく頭を撫でながら聞いてくれた。きっと私今、ボロボロの顔してるんだろうな。でも、いいや。先生は多分、そんな私でも許してくれる。


「わかれだく、ない、」

「……彩」

「ごめん、わたし、先生とわかれだく、」


 そこまで言ったところで、頭を引き寄せられて。気付けば先生の胸が目の前にあった。


「……ダメ。それ以上言われると、可愛くて我慢できない」


 衝撃の発言に、一気に涙が引いた。


「っ、せんせ、変だよ……。あんな綺麗な彼女より私選んで、その上こんな不細工な顔の時に可愛いとか……」

「確かに酷い顔してんなー。せっかく化粧したのに」


 むにっと頬を両手で挟まれ、更に不細工な顔になる。先生は優しい顔でハハッと笑った。


「お前を好きな理由なら、卒業式の日に言っただろ。お前はもうちょい自信持て。無理なら俺がどんだけお前のこと好きか、体で分からせてやろうか?」

「っ、か、からだ?」

「……。最後までしなかったらちょっとくらい触っていい?」


 私をまた抱き寄せて、はぁ、と先生は悩ましげな息を吐く。私は緊張するけど、先生のものに早くなりたいって思ってるんだけど。


「……なぁ」

「な、なに」

「好きだよ」


 頭のてっぺんにキスが落ちてくる。私たちは抱き合ったまま、しばらく互いの体温を感じていた。

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