進歩と後退

 教えてもらったばかりの解き方を思い出しながら問題集と睨み合う。先生がこの学校に来るまで宇宙人の言葉ではないかと思うほど意味のわからなかった数式が、今なら意味がわかるだけでなく解き方までわかる。数学って面白いかも、そう思えるようになった。この進歩はすごい。


「ぷっ」


 そんな声が聞こえて顔を上げる。そして盛大に顔を歪めた私に目の前の男……山下は苦笑した。


「そんな嫌がらなくても。ここ空いてる?」

「空いてない」

「空いてるよね。お邪魔します」


 私の拒否にもめげず山下は私の向かいの席に座る。夏休みの学校の図書室は人もまばらで席なんか腐る程ある。なぜわざわざ私の前に来るのか。不機嫌さをあえて顔にも雰囲気にも出しているのに山下は全く気にせず教科書や問題集を広げ始める。目的を探ろうとじっと見ていたら不意に山下が顔を上げた。


「今日一条は?」

「は?」

「いつも一緒にいるから」

「べ、別に先生には勉強教えてもらってるだけで何もないから!」


 慌てて否定する私を山下は一瞬ポカンとした顔で見てすぐにニコッと笑った。


「別に疑ってないよ」


 今度は私がポカンとなる番だった。そしてすぐに赤面した。教師と生徒が校内でよく一緒にいるからと言って何かがあると思う人などいないだろう。私の大げさな反応は先生が私にとって特別な人だと自らバラしているようなものだ。


「やっぱり一条のこと好きなんだ」

「……っ」

「悔しいな。俺が頑張っても大橋の表情崩せなかったのに一条には簡単なんだ」


 山下の言葉に私は唖然とする。キザすぎ、と言えば山下は本当のこと言っただけ、と平然と返した。これが友達もいない私と、男女どちらからも人気がある山下の違いか。


「別にいいよ。俺もう諦めたから」

「……」

「まず友達になって一条に振られた大橋を慰めて弱ったところに付け込むから」

「それ諦めたって言わないよ」


 山下はふっと笑った。山下は本当の本当に私のことが好きなのだろうか。学年一の美女も山下を狙っているという噂もあるのに、どうしてわざわざ私なんだろう。


「……ねぇ」

「ん?」

「どうして私なの?友達いないから簡単に落とせると思った?」


 あえて嫌な言い方をすると山下はペンを走らせながら口を開く。私の卑屈な言い方も全く気にしていないようだ。


「頑張ってたから」

「は?」

「3年になるまで名前も知らなかった。でもたまたま数学準備室行った時、真剣に勉強してるの見て。誰だろうなと思ってたらいつの間にか気になって止まらなくなった」


 数学が苦手なことも3年になってから志望校を変えたことも風の噂で知ったらしい。風の噂って何だ。


「賭けみたいなことしたのは本当に悪いと思ってる。でも、告白しようとしたのは賭けるためじゃない。本当に大橋に気持ちを伝えたかったからだ」


 山下は顔を上げてじっと私を見る。腹が立つくらいに整った顔がふにゃっと緩んだ。


「こうやって普通に話せるのも俺にとっては大進歩」


 山下が皆に慕われる理由が少しだけわかってしまったのが悔しい。私が理由があったにせよ酷い態度を取り続けたのに、山下はこうして私と友達になれることが嬉しいと笑っている。ただのお人好しなのか、それとも自分で言うのも何だけどそんなに私を想ってくれているのか。どちらにせよ、山下が嫌な奴じゃないってことは痛いほどにわかってしまった。


「……数学以外、教えて」

「え?」

「数学は先生に教えてもらうから、数学以外教えて。そしたら友達になってもいい」


 ほら、こんな偉そうな言葉にも。山下は嬉しそうに笑うんだ。


「あれ?何お前ら仲直りしたの」


 その時そんな言葉が聞こえて、ハッとしてそちらを向くと先生がいた。会議だと言って図書館を出ていた先生からは煙草の匂いがする。


「会議終わったの?」

「おう」


 私の隣の席に座った先生は私と山下の問題集をチラッとみてすぐに立ち上がった。


「山下いるなら俺帰っていいよな」

「え?」

「じゃ」


 ちょっと待って、そう言っても先生は無視した。何かあったのだろうか。先生の後ろ姿を見ていると何故だかもう先生と前みたいに話せなくなる気がして怖かった。

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