時は怪物をも

朽網 丁

時は怪物をも

 右手の小指側の側面を見てみると、黒鉛が滲んで真っ黒になっていた。書き方が悪いのか、筆圧が強すぎるのか、幼い頃から文字をたくさん書くと決まってこうなる。外に出る前に予備校内のトイレで洗ってくればよかったと後悔しつつも、戻る手間を惜しんでそのまま最寄り駅への道に着いた。いつもの癖で上着のポケットに両手を入れようとしてから、はっとして左手だけをしまう。剥き出しの右手が感じ取る夜の外気はとても冷たかった。

 予備校から自宅へは電車で一本。通っている高校と自宅の丁度中間に当たる駅が利用駅である。通うには便利な立地だ。しかし定期券の関係から予備校と利用駅の間には徒歩二十分ほどの距離があり、疲弊しきった状態で歩くにはうんざりするほど遠い。

 センター試験まではおよそ三ヶ月、各大学の本試験まではおよそ四ヶ月であり、それまで僕はおそらくほとんど毎日この二十分の道のりを歩くことになるのだろう。本命大学の合格通知を受け取るまで、あるいは全ての受験を終えるまで、僕は勉強以外に時間を消費してはならない。この生活に入る前は毎日のようにしていた大好きな読書も、僕の生活よりすっかり排斥してからもう半年以上が経つ。読書を断つという信念を固め当初は、果たして潤いの源泉を失した生活を自らの意志ひとつで継続することができるのかどうか、我ながら甚だ懐疑的だった。しかし気づけば僕の日々から読書はいなくなっており、そして僕は当初想像していたよりもその喪失に堪えていなかった。それ自体は嬉しい誤算だったが、代わりに受け入れがたい誤算も一つやってきたのだった。それは言うなれば思わぬところから飛び出してきた伏兵のようで、僕は想定外の打撃を受けていた。削られるものは

主に自制に要する精神力だ。僕は時折気まぐれのように去来するその伏兵と、不本意な戦いを展開していた。幸運にも今日はそいつはやって来なかった。僕の右手に付着した黒鉛の濃さがそれを証明していた。

 帰宅するとすぐに食事と入浴を済ませ、自室の机と向き合った。節電のために部屋の電気は点けない。スタンドライトだけで薄ぼんやりと照らされた部屋は、隅に何者かが潜んでいるのではないかという恐怖を抱いてしまうほど不気味だ。もともと僕は暗い部屋で過ごすのは苦手だったが、今ではもうすっかり暗闇への耐性が付いてしまっている。

 しばらく深い集中の中に身を横たえていた。壁にかかっている時計に目をやると午前一時を指している。どこで見切りをつけようか思案していると集中力が途切れたせいだろうか、途端に室内の寒さが気になった。少し悩んでから、僕は席を立った。自室を出て階下の台所に降りると、一階は既に全ての照明が切られ、何も見えないほど真っ暗だった。これまでの生活で身に沁みついた感覚を信じて適切と思われる歩幅で歩く。無事にたどり着いた照明のスイッチを押して、明るくなった台所内を物色する。ほうじ茶のティーバッグでお茶を淹れた。台所の寒さに耐えきれず、カップを持ったまま自室に戻った。

「あぶなっ」

 カップの縁ギリギリにまで湯を注いだせいで、少し揺らいだだけで中身を床に溢してしまった。

 ここでため息を吐いてしまったら何かまずい気がして、ぐっと堪えてティッシュで拭く。割に勢いよく溢れたのか、床だけでなく近くの物や壁にも琥珀色の飛沫が認められた。淡々と拭いていると、ほかと同様に飛沫を被っている段ボール箱が目に入った。瞬間僕は凄まじい怖気を覚えて、その箱からすぐさま目を離した。残りの掃除をやっつけで済ませ、机上の勉強道具はそのままで僕は逃げるように、敷かれた布団の中に潜り込んだ。中途半端な箇所で勉強を途切れさせるのには些かの抵抗があったが、この判断が間違っていないことを確信していた。頭の裡で早鐘が鳴り響く中、僕は両手の指を固く組み合わせ、それを抱え込むように身体を丸めて必死に眠りへの糸口を探る。今ペンを持って紙に向き合ったら、巨大な体躯を誇る怪物に惰弱な僕はあっという間に捕食され、食い残された右手が何を書きだすか分かったものではなかった。

 嫉妬は緑の目をした怪物だと、シェイクスピアは自身の著で語った。では、欲求とは何色の目をした怪物なのだろうか。まさか、欲求は怪物なのだということ自体を否定したりはしないだろう。


 意図せずあの段ボール箱を見てしまってから半月が経っていたが、僕はあの日の狼狽をまるで引きずっていなかった。あの日の自身の英断を誇らしく思う。

 今日は予備校で設備点検が行われており、終日立ち入りが禁じられている。危機を上手くいなしたとはいえ、あの日からいまいち居心地の悪い自室から早々に脱し、僕は朝から図書館に来ていた。予備校の自習室があるため普段は滅多に図書館には来ないが、自習室にいる時と遜色ないペースでやるべきことをこなしているという自負がある。ところがその一方で頭の裡は少々雑然としていた。

 高い天井や広いフロア、晴天の陽光をふんだんに取り入れる大きな窓、パーテーションのない開放的な机、殊には緊張感とは遠縁にある人々が形成するこの朗々とした雰囲気。それらはしばらく僕の生活から遠ざかっていたものだが、望めばいつでも触れることのできるものでもあった。しかし今僕が懐かしいそれらとの逢瀬に静かな感動を覚えているのも事実であり、心に生じたゆとりに安堵すべきか焦燥すべきかということが、不遜にも僕の脳内を占拠する。

 僕は御手洗いに立った。特別便意を催していたわけではなかったが、気分転換のために少し席を離れたかったし、そのための大義名分として手洗い場というのは非常に優れている。僕はできるだけゆっくりと歩いて自席と手洗い場を往復した。再び席に着くと想像以上に周囲の情報を遮断できるようになっていた。そのまま二時間ほど、問題を解くためにペンを走らせ、空腹を感じるようになると荷物をまとめて外に出た。

 コンビニでおにぎりとお茶を買って近くの公園で食べた。昼食を終えると足早に図書館へと戻った。

 今度は複数人で掛ける大きな机ではなく、窓際に設置された個人利用の机を使うことにした。午後は午前中よりもいくらか人が増えていて、大きい机は集団でやってきた利用者で埋まりそうな具合だ。個人用の方へ移っていなければいずれ集団に飲み込まれて居心地の悪い思いをするに違いない。

 また数時間を勉強に費やした。個人用机は横一列に並んでおり、僕の使う机は一番左端にあったが、視界の右端で人の動く気配が一人また一人と増えていくのを感じていた。伸びの要領で右方へ視線を送ってみると、案の定利用者が増えていた。今度は凝り固まった背筋をほぐす要領で背後にある大きな机の方を見てみる。意外にもこちらはそれほど人が増えていないようだった。増加率で言えば個人机の方が高いかもしれない。耳をすましてみると、どうやらとある一団の話し声から皆退散しているらしかった。決して大きな声ではなく潜められた話し声だったが、彼らの声は耳に障った。

 図書館を後にしようかと迷っていると、僕の右隣の席に誰かが座った。乱暴に抱えられた荷物の様子から見るに、今まさに後ろの騒々しい机から多少静かな、何より件の一団を視界から追いやれるこちらの席に移ってきたところらしい。座る瞬間に視界の端に捉えた長い髪から、その人物が女性であるということが分かった。彼女は不満げに着席すると、先に座っていた僕に会釈をした。僕はそれに不愛想な会釈を返して、目の前に展開された教材と向きあい、再度の集中を試みる。

 隣の女性が席を移ってきてから一時間半ほどが経過したが、僕の意識はいまだ彼女の方へ向けられていた。特別女性に強い興味があるわけではない。ただ、彼女が猛烈な勢いで何かを書いていることが僕の意識を暴力的なまでに引き付けるのだった。彼女の持つペンの速力は凄まじく、紙を次々に埋めてはまた新しい紙を手元に引き寄せる。それは物静かな動静であるはずなのに、僕の目には来る敵をちぎっては投げちぎっては投げと奮闘する戦士の姿に思われた。長い髪で遮られてはいるが、きっと彼女の瞳は鬼気迫る輝きに満ちているに違いない。

 そんな個人的な感興を抱いていると、彼女の書き終えた紙が随分と僕に近づいてきていることに気付いた。彼女は書ききったそばからその紙を左に流すから、だんだん僕の方に近づいてくるのは当然だった。横目で見ると、それらが原稿用紙であると分かった。柔らかな薄藁色の紙面に刻まれる厳格な茶色の枠組み、それは僕が久しく目にした、愛すべき姿だった。怪物の目が、また僕を見ている。

 僕は慌てて教材を鞄に詰め込み、席を立った。図書館から外に出て冷たい外気を浴びる。僅かに冷静になったところでふと、今の僕は逃げるように布団に潜り込んだあの晩とそっくりだと思い、辟易した。

 

 図書館で懐かしの原稿用紙を目にしてから約一ヶ月。この頃は、僕の受験はもう駄目かもしれないという考えばかりが脳裏を掠めてしまっていた。しかしそれは焦燥でも絶望でも諦念でもなく、屹立した達観なのだという確信があった。現になすべきことをなし、今年も残り一ヶ月を切ったというところで、僕の成績は着実に伸びていた。高校と予備校の先生には学力の向上を認められ、それを聞いた母の心配性は多少なり鳴りを潜めている。仕事ばかりの父は相変わらず何も言わなかったが、最近は朝家を出る時、既に靴が履きやすい位置に並べられている。承認と信頼、安堵と応援、周囲から寄せられるそれらに包まれながら、僕ばかりが辛気を抱えているのだと思うと、やりきれなくなる。

 高校と予備校と自宅を往復する毎日。どこにいてもひりついた空気に晒されて、言葉を発する機会は日を追うごとに減っている気がする。予備校に友人と呼べる人はおらず、高校にいた僅かな話し相手も、いつからかぱったりと登校しなくなってしまった。担任の先生曰く、高校の授業には出席せずに予備校の授業だけで受験に備える生徒が、毎年一定数いるらしい。卒業要項を満たすことさえできるのならばそれも一つの手段だという。

 そういうことがあり、僕にとって終日口を開かないという日はさほど珍しくなくなった。元々多弁ではない僕にも、このことは少なからず違和感をもたらした。入浴中や布団に入った時にふと今日は一言も話していないと回顧しては、固着してしまった喉をこじ開けて呪詛のように声を漏らした。せめて独り言でも呟こうかと考えても、意味のある言葉は一向思いつかず、ただ呻き声に似た「ああ、ああ」という言葉を垂れ流すのだ。この予期せぬ孤独が、僕を始終付け回す、欲求という名の怪物の猛威を一層強いものにしていた。受験期が過ぎ去るまで、この怪物をいなし続けることが果たしてできるのか、甚だ疑問だった。


 いつの間にか年が明け、高校生活最後の定期考査を終えた僕は自由登校の身となった。高校には行かなくなった。そうして新たに生まれた時間は図書館で消費することにした。もちろんも目的は集中できる環境下での勉強だが、それとは別の目的もまた、僕は持っていた。すなわち、再び彼女と出会うことである。これは決して他言してはならないどころか、自己の中にすら認めてはいけないものだった。しかし彼女が心血注いで綴ったであろう原稿用紙上の文字を忘れられない現状が、日々の勉強の大きな障害となっていることもまた事実だった。

 あれはきっと小説を書いていたに違いない。僕は彼女が原稿用紙を使っていたという理由だけで、そう決めつけていた。

 僕は幼少の頃から読書が好きだった。祖父が相当な読書家で、祖父母の家に一人で遊びに行っては大量の蔵書に埋もれていた。自宅に帰ってきてその日の読書の感想を話しても両親はあまり関心がないふうだったことが、ずっと不満だった。初めて小説を書いてみたのは中学二年の時だった。沃野のような小説への陶酔は、次第にそれを生み出す者への憧れへと変わってきていた。中学高校共に文学部はなく、黙々と一人で書いていた。書いていて上手くない自覚はあったので祖父には見せなかった。数多の文学を読んできた年長者の目に僕の文章が滑稽に映るかと思うと怖かったのだ。自己完結した創作だったが、それでも僕は満足だった。少しずつ経験を積んで、そういう道を志すのもいいかもしれないと思うこともあった。そんな自己陶酔を冷ますのに、大学受験というのは十分すぎるほど冷たかった。

 僕は今日も朝から図書館に来ていた。開館直後にいるのは常連の人ばかりだ。僕と同じく受験生と思われる学生数人と杖をついた男性の老人が一人。関りはないが互いに顔くらいは覚える頃だ。

 彼女とはあれ以来何度か会った。もっともそれは一方的な認識で、彼女は僕のことを覚えたりはしていないだろう。結局彼女が何を書いているのかは分かっていない。初めて会った時ほど接近することはなかったからだ。僕はトイレ休憩に立って、席に戻ってくる度に座席をざっと見渡して彼女を探すことにしている。目印は長い黒髪と、僕が見逃すはずもない原稿用紙。彼女は来る曜日も来る時間もまったくバラバラだった。

 勉強を始めてから四時間ほど経った頃、トイレ休憩から戻ると廊下で一人の女性とすれ違った。これまではっきりと顔を見たことはなかったがそれは確かに彼女だった。今日は来ていたのか、と思いながらふり返ると彼女もトイレに立ったということが分かった。僕ははやる心をなだめながら自席に足を進めると、その途中で机の上に広げられた原稿用紙が認められた。

 僕の心臓はますますはやった。このまま自然に通り過ぎなくてはならないが、僕の足はその場に留まりたがる。いくら欲望に駆られたからといって、この一線を越えることは許されないはずだ。そう認識していながらも強情な足と目を御することはできず、気づけば僕は眼前に広がる原稿用紙に釘付けになっていた。

 果たして、やはりそれは小説だった。

「そこ、私の席」

 背後からの突然の声に僕はひどく驚き、慌てて声の主を見やった。目元がふっくらした印象の女性がそこに立っていた。歳は僕より少し上に見える。大学生だろうか。

「あの、これ、小説」

 何においても弁明をするべきはずの僕の口から出たのは、そんな要領の得ない断片的な言葉だった。

「勝手に見るのは、あまり感心しませんが」

 密かに手を伸ばし続けていたものに触れることができて呆気にとられていた僕は、少し遅れて自分が叱責を受けていることに気づいた。冷や水を浴びた心地がして、謝ろうとした時、彼女は打って変わった優しい声音で「でも、読みます?」と言ってきた。半ば反射的に頷いて、その勢いで僕は首に鋭い痛みを覚えた。

 図書館近くのファミレスで僕は彼女の小説を読み始めた。あまり客は多くなかったが、ここにも受験生と思しき人は散見できる。彼女は僕の対面でドリンクバーのコーラを飲んでいる。久しぶりの読書は僕を、物語への深い没入に導いた。

 それは家出をする少女の話だった。学校もバイトも全て放下して家を飛び出し、少女は当て所なくさまよう。そんな少女の身に降りかかる、荒唐無稽な、しかしどうにも一笑に付すことのできない数々の出来事。少女は天真爛漫であり、ゆえに傍目に映る猛々しさはまるで恐れを知らなかった。

 僕は少女の行く末を追うのに夢中になった。それは物語の持つ魅力はさることながら、綴られた文字の持つ廉潔さに感化された結果だった。これは望んで生み出された文字であり、書き手の虚偽が反映された文字とは明らかに明暗を分けている。書き手が真に望んだ書字かどうかで、文字の内包する美しさはこれほどまでに変わるものかと、思わずにはいられない。今、僕は自分の字を決して見たくない。大きすぎる美醜の差とは、あまりにも惨いのだ。

 彼女の小説は『私は』という文字を最後に途切れていた。奇しくもそれは僕が受験生活の中で何度も書きそうになった文字だった。気を許せばいつも右手がそれを綴ろうとしていた。彼女が理想とする少女を創出したように、僕にも創出したい理想の青年がいた。自身を『私』と称し、何ものにも身を委ねない、確固たる思想を有する青年を僕は夢見ていた。

 未完成の小説だったが文量はそれなりに多く、読み終わった時には既に外は薄暗くなっていた。僕は原稿用紙から顔を上げて、彼女の顔を見た。彼女は「どうだった」と興奮気味に聞いた。

「素敵でした、とても」

 僕がそう言うと彼女は安心したように頬を緩めた。個人的な雑感が多すぎて、当たり障りのない返答しかできなかったことが罪悪感を生んだ。

「君は受験生なの?」

「ええ、でもどうして」

「よく勉強してるでしょう」

 彼女はそう言って窓から見える図書館を指さした。彼女が僕を認識していたことが心底意外だった。

「あなたは大学生ですか」

「ううん、高三だから同い年のはず」

 それは意外な返答だった。彼女が僕を知っていたことよりもずっと意外だ。

「じゃあ受験は、推薦とかですか」

「私進学しないの」

 別に信じられないようなことではないのに、短く放たれた言葉は深刻な響きを持って僕の耳朶を打った。

「小説をたくさん書いてそれを仕事にしたい。だから受験勉強なんてしてる時間なかった」

 僕はその言葉を聞いた瞬間、なぜか猛烈に腹が立った。その不当な業腹の呼び名を僕は確かに知っていたが、咎めることはできなかった。

「お気楽ですね」

 口から洩れた言葉は本当に自分のものか疑ってしまうほど低かった。

「そんなことないよ。君には分からないかもしれないけど、小説書くのって結構大変よ。毎日何時間も文章を書いてる。それこそ、下手な受験生よりもずっとたくさん机に向かってると思う」

 僕の冷淡な声に触発された彼女の声は、いくつかの棘を纏っている。

「お気楽ですよ。やりたいことをやってるだけなんだから」

「それはあなただって同じでしょう」

「どこが同じだって言うんですか」

 その言葉ばかりは極めて心外だった。気骨を折りながらも本当にやりたことを抑圧してこの一年を過ごしてきた僕にとって、彼女の言はまったく謂れのないものだった。

「書きたくないことは書けないよ。君はそれで勉強を選んだんじゃないの」

「書きたいことだけ書いて過ごすなんて、そんな自由はないんですよ。だって僕の方が正しいに決まってる。一年、たった一年耐え忍べばいいんですから。あなたの選択はただ易い方へ逃げただけだ」

 彼女の舌鋒は次第に鋭くなり、対して次第に窮する僕は目の奥に熱いものを感じていた。

「言葉は裡に閉じ込めていたらその内腐敗する。言葉の持つ魅力は有限なんだから」

 彼女はそう言って僕から原稿用紙をひったくって鞄に詰め、千円札を机に叩きつけた。そのまま席を立って僕に背を向けると、一度だけ振り向いた。彼女の瞳は僕を蔑視する一方で、涙を抱えていた。

「腐敗して、溶けてなくなってしまうのに一年なんて長すぎる。裡から漂う腐臭に気づかない君にはそれが分からないんだ」

 去っていく彼女の後ろ姿を眺めながら、僕は自身を安堵させるために言い聞かせ続けた。彼女の言うことが正しいとしても、僕はまだ大丈夫だと。だって僕は依然としてあの怪物に苦しめられ続けているのだから。


 結果として僕の受験は成功したといえる。第一志望の大学には合格した。これからは持て余すほどの自由の中で、本当に書きたいことを存分に書けるのだ。全ての試験を終えて原稿用紙と向き合った時、自身の中にあの理想的な青年の姿も、恐ろしい怪物の姿も、見つけることができなかったのは、さして重大なことではないはずだ。『私は』の後に続けたかった言葉がどうしても思い出せないこともまた、大してことではないに違いない。決して僕の本意の言葉が腐敗して、溶けてなくなってしまったわけではないはずだ。



                  了

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