エージさんの不安と兄の傷

 エージさんは私の唇に何度もキスを落として。私は確かに、エージさんの腕の中で幸せに浸っていた。……その時。


「……ここで、何してるの?」


 急に聞こえた声に


「それ、こっちの台詞なんですけど?!」


 思わず叫んでしまった言葉。その言葉に、扉にもたれてこっちを睨みつける彼女の顔が、すごいことになっていた。それはもう、鬼みたいな。


「えーっと、誰だっけ?」


 鬼にも負けず、エージさんがとぼけたことを口走る。


「あ、茜さんですよっ」


 私がエージさんの耳元で小声で教えると、エージさんは興味なさそうにへぇ、と言った。


「つーか、なんでここにいんの」

「それは……っ」

「あぁ、いいやめんどくせーから。俺スタジオ行く。あとは頼んだ」


 ……はい?エージさんは本気でうんざりしたように言った後、私の肩にポンっと手を置いて部屋を出て行った。ちょ、待って……!伸ばした手に、エージさんが振り向くはずもなく。私はこの空気の中、茜さんと2人っきりになった。

 う……嫌いだ、エージさんなんて大嫌いだ……!


「……どうしてここにいるの?」


 だからそれこっちの台詞だってば……!

 どうしてここまで堂々としていられるんだろう。ここはエージさんの家。つまり茜さんが勝手に入っちゃいけない家。


「あぁ、私光に入っていいって言われてるから」


 茜さんは勝ち誇ったように笑う。それが本当かどうかはわからない。…だけど確実なのは、茜さんが私を見下していること。茜さんは確かに、私に対する敵意をむき出しにしていた。


「あなた、英司くんの何なの?私はあなたが『EA』のマネージャーだって聞いてたんだけど」


 ……確かに前、エージさんそんなこと言ってたな。


「それなら仕方ないって思ってたけど。それだけじゃ、ないんでしょう?」


 茜さんの鋭い視線が私を捕らえる。私はまだ、この人の言葉を理解できていなかった。マネージャーがなに?それだけじゃなかったら、何なの?


「……私、ずっと英司くんのこと好きだったの」

「……」

「『EA』の音楽が純粋に好きなマネージャーなら仕方ない。だけど、あなたが英司くんのそばにいるのは、英司くん自身が好きだからでしょう?そんなのズルい!私だって英司くん自身が好きなのに!どうしてあなただけがそばにいれるの?!」

「……っ」

「マネージャーなんて口実、卑怯よ!どうやって英司くんに取り入ったのか知らないけど、正々堂々勝負しなさいよ……!」


 そう言って、茜さんは涙をいっぱい溜めた瞳で私をキッと睨む。……エージさんは、私と莉奈をそばに置くためにマネージャーって口実を作った。でもそれは、本当にただの口実で。私はマネージャーとしてではなく、エージさんの彼女としてそばにいる。それが、茜さんには許せなかったんだ。……本当は、私なんかがそばにいてはいけない人。 『EA』は芸能人でもないのに、有名で、人気で。みんながそばに行きたいと願う。彼らの視界に入ることを、望む。でも中には茜さんみたいに彼らを本気で好きな人だっている。ファンとはまた違う、特別な感情。そんな人たちはファンの目もあるし、いくら好きでもメンバーには容易に近づけなくて。私と莉奈が、どんなに目障りだろう。メンバーのそばにいて、守ってもらう私たちが。

 だからといって、譲れるわけもなくて。エージさんのそばを離れることが、できるわけもなくて。私たちは確かに、運がよかったのかもしれない。たまたま兄が『EA』のメンバーで、他のメンバーとも知り合いになれただけかもしれない。

 だけど、私は。あの日のエージさんの言葉を、信じたい。


『俺は、絶対お前を見つけてた。律の妹じゃなくて、ただのファンでもな』


 そう言ってくれたエージさんを、信じたい。


「私は確かに…運がよかったんです」


 茜さんの強い目に負けないように、私はまっすぐに茜さんを見つめた。


「でも、絶対エージさんから離れません」


 こんな私を、大事だと言ってくれた。こんな私を守ってくれる、エージさんから、兄から、楓さんから、翼さんから、わ私は絶対に、離れない。彼らが私を大事だと言ってくれる限り。約束したから。

 私は茜さんに小さく頭を下げて、部屋を出た。手が震えてる。私は走ってスタジオに向かった。

 バンッと音を立ててスタジオの扉を開けると、私以外のメンバーが勢揃いしてて。専用のソファに座っているエージさんと目が合った瞬間我慢してた涙が、ドバーッと溢れてきた。


「うっ、うわぁぁぁん!」


 周りが慌ててるのがわかった。そりゃあ、急に泣き出したらビックリするよね。だけど我慢できないんだもん……!


「陽乃」


 そんな中、エージさんの声がスタジオに響いて。声を張り上げたわけじゃない。なのに一声で周りを黙らせてしまうエージさんは、さらに続けた。


「こっち来い」


 エージさんなんて嫌い、さっき置いてったこと恨んでるんだから。そう思いながらも逆らえない私は、泣きじゃくりながらもゆっくり歩き出す。エージさんも立ち上がって、こっちに歩いて来た。エージさんなんて嫌い、大嫌い、そう思ってても。目の前に立つとエージさんに抱きつきたくて仕方なかった。


「なんで泣いてる」


 エージさんの指先が、そっと涙を拭う。


「お、置いてくから……っ」

「……」

「エージさんが置いてくからぁ!怖かったんだから……!」


 そう言ってまたわんわん言い出した私を、エージさんがそっと抱き寄せた。エージさんの胸をドンドン叩いて、さっきの恨みをエージさんに伝えようとするけれど。エージさんに抱き締められると、そんなことどうでもよくなった。


「お、大人しくなった」

「エージさんなんて嫌い」

「うん」

「ううぅぅ…」


 ダメだ。私って本当にエージさんに弱い。


「なぁ」


 エージさんが私の耳元で囁く。私がエージさんの声に弱いの知ってるから。


「俺、ヤバいかも」

「……」

「お前の泣き顔に興奮する」


 へ、変態ー!!もしかしてそのために置いてったの?!私が泣くように?!


「だって可愛いんだもん」

「……」


 エージさん……どんどんキャラ変わっちゃってるよ……。


「おーい」

「……」

「おーい、お二人さん」


 横から聞こえる兄の声を、エージさんは完全無視。なんだか申し訳なくなったからエージさんの腕の中から目だけ兄に向けてみた。


「みんないるからさぁ。2人の世界に入んのやめようよ。見てるこっちが恥ずかしいんですけど」

「……」


 必死にエージさんの腕を解こうとしたけど、逆に力がキツくなる。


「……無理っぽい」

「……」


 ちょっ、この空気すっごい嫌なんですけど……!


「ハル……顔色悪い」


 不意に、兄がそう言って私の頬に触れようとした。兄の細長い指が、私に触れる……直前に。エージさんがいきなり体の向きを変えて、私と兄の間に立った。


「エージ、さん……?」


 エージさんは何も言わない。キツく抱き締められてるせいで顔も見えない。私からは本当に何も見えなくて。……わざと、そうされている気がした。エージさんは、自分の腕で私の目を隠している。理由はわからない、けれど。


「……英司」


 遠くから、兄の声が聞こえた。


「ハル、休ませてやってな」


 兄が遠ざかっていく音が聞こえる。……確かに、今日は生理2日目で朝から少しだけ調子が悪かった。まさかそれに気付かれるとは思わなかったけど。


「調子悪いのか」


 エージさんの低い声が耳元で聞こえる。私が微かに頷くと、エージさんがゆっくり私を離した。……そして。


「俺の部屋で寝てろ」


 私に、背を向けた。エージさんの機嫌が悪いのがわかったから、私はエージさんの服の裾を掴む。


「え、エージさ……」


 けれどその手は、振り払われた。


「終わったら行くから寝てろ」


 エージさんの声は冷たくて。手を振り払われたのも、ショックで。エージさんの機嫌が悪い理由がわからないから。私はどうすればいいのかわからなくて、立ちつくしていた。


「……椿」


 その時、楓さんが椿さんに声をかけた。


「ハルちゃん英司の部屋に連れてってあげて。一人じゃ心配だから」

「うん、わかった」


 椿さんは楓さんにそう返すと立ち上がった。


「ハルちゃん、行こう」

「……っ、でも……っ」

「大丈夫よ。行こう」


 椿さんがそう言って微笑むから。私はもう何も言えなくなって、歩き出した。最後の最後まで、エージさんは私を見てくれなかった。

 エージさんの部屋に着いてエージさんの布団に潜り込めば、エージさんの匂いが私を包んで。それだけで泣きそうになった。


「椿さん」


 椿さんはベッドに座って、私の頭を優しく撫でる。


「私、エージさんに何かしちゃったのかな……」

「……」

「わかんない……っ」

「大丈夫よ。ハルちゃんが心配することは何もない」


 椿さんはそう言って優しく微笑むけど。私の心は不安に押しつぶされそうで。そんな私を見て、椿さんは言葉を続けた。


「英司くんって、本当にハルちゃんが好きなんだね」


 椿さんの言葉の意味が、私にはよくわからなかった。どうして……?あんなに冷たくされたのに……。


「これは、英司くんから聞いたほうがいい」


 そう言って、椿さんは私の頭を撫でた。エージさんから聞いたほうがいい?そもそも、エージさんは本当に私のところに来てくれるの?小さいことで、簡単に不安になる。なのに椿さんは大丈夫って……。そう考えながらも、私はそのまま眠りに落ちてしまった。

 次に目が覚めた時は、すでにあたりは真っ暗だった。椿さんはもういなくて。それにエージさんも……いないじゃん……。そう落ち込んで寝返りをうって


「ひっ……!」


 大きな声で悲鳴を上げかけた。寝返りをうつと、目の前にエージさんがいた。寝てるわけではなく、ジッと私を見て。エージさんがいることに気付かなかったのは、エージさんの体温が私に触れていなかったから。大きいダブルベッドの上。エージさんは、いつもみたいに私に触れずに、少し距離を開けて寝転んでいた。


「エージ、さん……?」


 私が呼んでも、返事はなくて。この状況で、不安にならないほうが無理だと思う。


「私、なにかしましたか……?」


 怖いけれど。胸は不安に押し潰されそうだったけど。聞いてみてもエージさんは何も言わなくて。だけど代わりに目を伏せた。まっすぐに私を見ていた、鋭い目を。そして、覚悟を決めたように私を見た。さっきよりもまっすぐに。


「……陽乃」


 久しぶりに聞いた気がしたエージさんの声。やっぱり大好きだって思った。……のに。


「律が……消えた」


 その瞬間、私の世界は音を失った。大好きなはずのエージさんの声も聞こえなくなった。どうして?さっきは普通だったじゃない。普通に会って、普通に笑って、普通に話して。また兄が、いなくなっちゃうの……?私は無意識に、起き上がっていた。そしてドアに向かって歩き出した……けれど。後ろから引き止めるように抱き締められて。私の世界に、音が戻った。


「行くな……!」

「……」

「お前は俺の、女だろ……っ」


 私はそこでやっと、エージさんの不安に気づいたんだ。エージさんはそのまま私を抱き上げて、ベッドに下ろした。そして私に覆い被さってくる。


「なぁ、お前は律が好きなのか?」

「エージさ……、」

「なんで律のことになると、俺がお前の目に映らなくなるんだよ……っ」

「……っ」

「お前を、俺でいっぱいにしたいのに……!」


 涙が、零れた。私はエージさんを、ここまで不安にさせてたんだ。だってこんなエージさん、見たの初めてなんだ。いつもの眠そうな表情の裏に、どれだけの感情を隠していたんだろう。


「わた、し……」

「わかってる。こんなこと言われても重いだけだよな」


 ねぇ、エージさん。そんな顔しないで。諦めたような顔、しないで……っ


「アイツは……律は」

「……」

「俺が不安になってるのに気づいて、消えた」

「……っ」

「すげぇよな、アイツも、お前のこと……」


 エージさんはそこまで言って唇を噛み締めた。そしてまた、口を開く。


「……俺には、できねぇ。大事なモノを、自分から手放すなんて」

「……」

「……こんな弱い男より、アイツのほうがいいか……?」


 俺様なエージさんの弱音に、胸が苦しくなった。

 私は兄が好きで、大好きで大好きで。でもそれは、『兄』としての兄が好きなだけ。私が男の人としてハッキリ好きなのは、エージさんだけなのに。


「エージさん……っ」


 私、どうしたらいいのかわかんないよ。こんなにエージさんが好きなのに。それを信じてもらえないなんて。


「好きです……っ」

「……」

「私本当に、エージさんだけが好きなんです……っ」

「……うん、わかったから。ごめんな」


 エージさんはそう言って、私をギュッと抱き締めた。……けれど。狂い始めた歯車を止めるには、私はあまりにも非力で。エージさんの不安も、兄の傷も。私が思ってた以上に重いもので。もがいてもがいて見つけたものは、お互いの深い『傷』だけだった。

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