心地いい体温
それからしばらく、私は兄に会わなかった。避けられているのは明らかで。スタジオにも私がいる時には絶対来なかったし、家にも帰ってこなかった。ずっと翼さんの家にいるみたいだった。楓さんは今お城に住んでるし。ちゃんとバイトには行っているみたいだから、元気なんだろうと思うけれど。
「会いたいな……」
このままじゃいけないことは、もちろんわかってる。兄もそう思ってる、はずなのに。でもこれ以上触れてはいけないのかな、とも思う。兄は私に、どうしてほしいんだろう……
「ハルちゃん」
エージさん専用の黒いソファに座っていると、いつのまに来たのか楓さんがすぐそばに立っていた。
「どうしたんですか?」
「椿知らね?」
「え……」
そういえば今日、一回も見てない……
「わ、わかんないです……」
嫌な予感が頭をよぎる。泣きそうになった私の肩に、楓さんの手が置かれる。
「大丈夫だから。落ち着いて」
楓さん……。私なんかよりも楓さんのほうが不安なはずなのに……
「とりあえず探しに行く。ハルちゃんも一緒に来てくれる?」
楓さんが苦笑いしながらそう言うから。私はブンブン首を縦に振った。とりあえずお城の中を探してみようってことになった。でも楓さんと椿さんが住んでる部屋にもトイレにもお風呂にも。リビングや他の部屋にもいなくて。私は寝ているエージさんに悪いと思いながらもエージさんの部屋に入った。……ここにも、いないか。いや、いたら逆に焦るんだけど。エージさんの寝顔だけ見て出て行こうと思ったら、布団の中から出てきた手に腕を掴まれた。
「……どうした」
半目状態のエージさんが私を見る。
「いや……椿さん探してて」
「……」
エージさんはほぼ白目状態でゆっくり腕を上げた。そして窓を指さす。その手はみるみる力を失って……トスン、とベッドに落ちた。限界だったみたいだ。私はエージさんが指さした窓に向かった。どうしてこっちを指さしたんだろう。こっちは確か……裏庭?!急いで窓の前に立つと、裏庭を見下ろした。
「あ……!」
いた……よかった。翼さんや莉奈もいる。そして……兄も。私は途端に駆けだした。
「楓さん!椿さんいましたよ!」
エージさんの部屋を出て叫ぶと、楓さんはすぐにどこからか姿を現した。
「どこにいたの?」
「裏庭です!みんなでバドミントンしてます!」
「アイツら……」
楓さんは呆れたように笑いながらも安心しているようだった。よかった……椿さんがいてくれて。……それに……
「あ、ハル!!」
裏庭に着くと、すぐに私たちの姿を見つけた翼さんが叫んだ。
「お前らもやるか?」
兄は、いつも通り。本当にいつも通りに私と楓さんを見て微笑んでる。
「うっ、うぅぅ……」
なぜか涙が溢れだした。
「お、おい?!なぜ泣く?!」
私の前に立っていた翼さんがあわあわし出す。
「さ、誘ってくれないから……」
「だって始めた時お前らいなかったから!」
「うわーん!!」
「ちょ、そんな泣くなって……」
私に伸びてきた翼さんの手を、誰かの手が止める。そして。
「ハル、ごめんな」
いつの間に近くに来たのか、兄の声がすぐそばで聞こえた。
「ちょっと話したいことある。一緒に来て」
兄は私の手を握ると、そのまま引っ張ってお城に入った。その間兄はずっと無言で。だけどいつもよりも熱く感じる兄の手に、私の心は不安で埋め尽くされていった。
兄は1階の客室らしき部屋に入ると、ドアを閉めた。そして私をベッドに座らせると、自分は私の前にしゃがみこんだ。
久し振りの兄の顔が、涙で滲んで見えない。だから私は兄の存在を確かめるように、顔の輪郭を指でなぞった。
「りっくん……?」
「ん?」
「りっくん、だよね……?」
「うん、そうだよ」
兄は私の手に自分の手を重ねた。熱い手が、私の思考を奪っていく。何も考えられなかった。ただ、目の前に兄がいることが幸せだった。
「……ハル」
兄が口を開く。私は兄の一言一句を聞き逃さないように必死だった。
「この前俺が言ったことは、忘れてほしい」
「……っ」
「楓と椿ちゃんのことがあって、ちょっと熱くなりすぎた。ただ、それだけだから」
兄……。兄はこうやってまた、私を守る。そして私はまた、兄に甘えるんだ。兄の気持ちなんか、関係なく。
「りっくん、本当に?」
「ん……?」
「本当に、それだけなの?」
「ハル……」
「私の目を見て言って。そしたら信じる」
どういう結果になるかなんて、わからない。でももう、兄を苦しめたくない。
「お前には……幸せになってほしい」
「……」
「前にも言ったけど、お前が幸せなのは英司といる時だろ?なら英司と一緒にいてほしい」
兄は私の目を見て、ハッキリとそう言った。……でも混乱した頭は、兄の話をすぐに理解できなくて。
「りっくんは……いいの?」
そう聞く私に、兄はフッと笑った。
「俺は、お前が幸せならいいんだよ」
そう言って、私を抱き締める。その温もりはいつもの兄と同じで。私はそっと、目を閉じた。
「もう5時過ぎてんぞー」
不意に聞こえた声に、ビクリと体が動く。兄は彼がいたことを知っていたかのように、驚きもせずにそっと私を離した。そして私を見て微笑むと、扉に背を預けて座り込んでいる彼に声をかけた。
「……いたんなら声かければいいのに。覗きなんて悪趣味じゃねーか、英司」
彼……エージさんはふぅ、とタバコの煙を吐き出すと立ち上がった。
「俺だってたまには空気読むんだよ」
「おいぃ、読めるんならいつも読めよぉ!大変なのは俺なんだけどぉ?!」
未だに呆然とする私を置いて、2人はいつも通りの会話を繰り広げる。
「んじゃあ、俺先にスタジオ戻ってるわ」
兄はそう言って部屋を出ようとする。
「りっくん!」
その背中に、声をかける。
「私は……いるだけでりっくんを苦しめてる?」
心配だった。不安だった。私は兄が大好きだから、これからも一緒にいたい。一緒に笑ってたい。でも私がいないほうが兄が幸せになれるなら。私は兄のそばにいちゃいけない。大好きだからこそ、離れなくちゃいけない。兄の答えを待つ私に兄の、優しい声が響いた。
「……んなわけねーよ。お前がいなきゃ、俺は生きていけないんだから」
私の目から、涙が零れる。私も、同じ気持ちだよ。
私の大切な人。もちろん、エージさん。莉奈と里依ちゃんと、楓さんと翼さんと椿さん。両親や、学校の友達。この人たちが全員私のそばにいてくれても。兄がいないだけで、色がなくなる。順番なんてつけられないけれど、兄は私の中で確実にたった一人の存在。兄はエージさんの肩にポンと手を置くと、部屋を出て行った。
部屋に残されたのは、エージさんと私、2人だけ。たまに嗚咽を漏らしながら泣く私と。ただ黙ってタバコを吸い続けるエージさん。端から見たら変な光景だと思う。先にスタジオ行ってくれてもいいのに。私が泣いている手前行きにくいのかな。そう思った私は顔を上げて、エージさんに先行ってくださいって伝えようとした、のに。
「ギャッ!」
ビックリした、本当に。顔を上げたら目の前にエージさんがいるんだもん。足音なんか全然聞こえなかったし、気配も感じなかった。エージさんはジーッと私を見つめて、そして。はぁぁぁ、と深いため息を吐いた。
「な、なんですか」
「お前ってほんと、ヒドい女だよな」
「はい?!」
な、なんなのその諦めたような目は……!それに、その言葉の意味は?!
「ど、どういう……」
「他の男のことでそんな泣くんじゃねぇよ」
「……!」
予想外の答えに固まる。いや、もう『ヒドい女』って言われた時点で私の予想は遥かに超えてたんだけどね?!でもそう来るとは……
「りっくんは……お兄ちゃんだから、大事なんです」
「わかってるよ、わかってんだけどさ」
エージさんはさっきまで私が座っていたベッドに腰を下ろした。
「お前さ、俺のことでそんな泣いたことないじゃん」
「……エージさんが知らないだけです」
「そうなの?」
「ライブ前とか……泣きすぎて熱出したんですよ」
エージさんは知らないだろうけれど、と少しふてくされながら言うと、エージさんは私の手を握りながらフッと笑った。
「あぁ……あれ泣きすぎてだったんだ。お前って、泣いてもあんま目腫れねぇの?」
「いや、そりゃ腫れますけど」
「あん時腫れてなかったじゃん」
「あの時は……」
……ん?あの時?
「あの時って……」
「保健室で寝てたじゃん」
「……」
ライブ前、保健室で寝てた。2つのキーワードに当てはまるのは、莉奈に無理すんなって怒られて、兄が迎えに来てくれて、そして。……エージさんの、夢を見た。その前にエージさんに冷たくされてそれが原因で泣いて。夢の中のエージさんは優しかったから、思いっきり甘えたんだ。
「……はぁ?!」
なんで?!なんでエージさんがあの時のこと知ってるの?!もしかしてあれ…夢じゃなかったの?!
「なに?忘れてた?」
「いや、違くて……夢だと、思ってました……」
「……だから次会った時あんな態度だったのか」
「う……」
次会った時、って確か。龍也くんと一緒にいて、優しくしてくれるエージさんを振り切った時だ。私が優しくして、って言ったからきっとエージさんは、私がどんな失礼な態度取っても我慢して接してくれてたんだろう。確かにあの時、私はエージさんが優しくて戸惑った。それまでと態度が違いすぎたから。……私ってば、なんてことを!優しくしてって自分で頼んどきながら優しくしてくれたエージさんを責めるようなこと言って!
「え、エージさん私…!」
「いいよ。あれは元は俺が悪かったんだから」
……エージさんが、優しい……
「でも……」
「陽乃、おいで」
エージさんが私の手を優しく引いて、自分の腕の中に私をおさめる。
「……エージさん」
「うん?」
「スタジオ行かなくていいんですか?」
「うん」
「……服がタバコ臭い」
「うん」
……どうしたんだろう?
「お前連れて東京行く」
「東京……?」
え……?
「俺、決めた」
「……?」
「つーか、勝手に決まった」
「え……?」
「俺にはこの先、お前以上はいない」
「………!」
そ、それって……
「お前を俺の両親に、紹介したい」
「エージ、さ……」
「俺の親頑固だから。今からちゃんと宣言しとかねーと」
エージさん、自分が言っている言葉の意味をちゃんとわかっているのだろうか。これって、あの……プロポーズ、だよね?
「まだ高校生だとか、関係ねぇ。俺にお前しかいないように、お前にも俺しかいねぇ」
「……っ」
「もう他行きたいっつっても離さねぇからな」
「エージ、さ……」
「大人しく俺についてきたら、世界一幸せにしてやるよ」
「うぅ……」
エージさんはさっき、私はエージさんのことであまり泣かないって言ってたけど。私、よく考えたらエージさんのことで泣きまくっている気がする。でもその涙はほとんどが、『嬉し涙』。エージさんは私を泣かす天才。私を幸せにする、天才。ギュッとエージさんに抱きつけば、タバコの匂いが心地いい。好き好き好き好き好き。心の中で何度も囁けば、エージさんの優しいキスが落ちてきた。エージさんは何度も私の額や頬や唇に口づけて、そして。
「やっぱ俺、お前のこと超泣かしてるわ」
そう言って微笑んだ。そしてもう一言。
「今心の中で叫んでること口に出してみろ」
私の心を見透かしたように、そう言った。
「好、き……」
「うん」
「好き好き好き好き」
「うん」
エージさんは幸せそうに微笑む。その笑顔を見て、私は。絶対この人以上に好きになれる人はいないそう思った。
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