逃亡
それから私と片桐くんは屋上でたくさんの時間を過ごした。いつのまにか私は片桐くんを『律』と呼ぶようになった。彼は相変わらず『先生』としか呼んでくれなかったけど。
私たちの関係は一言では表せない、難しいものだった。私が泣きたい時、律は何も言わなくてもそれを察して抱き締めてくれた。でもそういう時はたまたま律も泣きたい気分な時で。私は律の分まで泣いた。
律は、自分の気持ちを私に絶対見せなかった。だから律が私をどう思っているのかわからなくて、一人で悩んだ。けれど、そういうところを見せれば律が離れていくのはわかっていた。だから私は律に気持ちを悟られないようにするのに必死だった。律を繋ぎとめることに必死な私は、律にすがりつくそこらの女と一緒だった。
特別になりたいと願っても、律の特別には絶対になれない。だって彼の特別は、すでにいる。誰にも超えられない、誰も代わりになんてなれないたった一人の『特別な人』。
「ねぇ、律。3組のあの娘、あなたに抱かれたって自慢してたわよ?」
「ふーん」
「それってほんと?」
「どっちだと思う?」
律はいつも、こうやってニヤリと笑う。私の心の中が嫉妬で真っ黒になっているのに気づいて、嘲笑うように。
「……嘘」
「さっすが先生。よくわかってんね。俺は自分の遺伝子を無駄遣いしたくねぇから」
この言葉が本当なのか、嘘なのか。本当に彼女を抱いていないのか、否か。それはわからない。律は絶対に悟らせない。女は彼のこういうところにさらにハマっていくんじゃないかと思った。
事実私は、彼のこういうところが大嫌いだった。わかりづらくて、扱いづらくて。けれどこういうところがなければ、私はきっと律を好きにならなかったと思う。律には謎があって。それを追っていくうちにいつの間にか彼を好きになっている。彼に群がる女は、きっとそうなんだと思う。
「ねぇ、妹さん元気?」
自然と口に出した言葉だった。彼を傷つけたかったわけじゃない。なのに私の言葉は、彼の心をひどく抉っていた。
「……先生には、関係ない」
ひどく冷めた声だった。前は妹さんのことを嬉しそうに話していたから、どうして急に機嫌が悪くなったのかわからなくて、私は戸惑った。
その日からしばらく、律は屋上に来なくなった。どうして屋上に来なくなったのか。学校にはちゃんと来ているのか。すごく気になったけれど、誰にも聞けなかった。私と律は、表面上は何も接点がないから。急に私が律のことを誰かに聞くと、怪しまれる。
福島くんになら聞けるかもと思って福島くんに聞いても知らないと言われた。そういえば最近学校で律を見ない、とも言っていた。体調でも崩しているんだろうか。メールでも入れようかと思ったけれどできなかった。自分の素直じゃない性格をここまで恨んだのは初めてだった。律が屋上に来なくなって、1か月が経った時だった。
「せーんせ」
昼休み、福島くんが英語科準備室に来た。
「どうしたの?」
「今日俺、律見たよ」
「……っ」
「屋上行った」
私は福島くんの横を通り抜けて、屋上に走った。律に会うために屋上に走るのは2回目だ。私はいつも、律を追いかけている。律は、私が逃げたら追いかけてくれるんだろうか。……ううん、絶対にないだろう。彼は、自由なんだ。いつも、周りに自分を悟らせない。縛られることを嫌う。私がそんな彼を逃がさないためには、追い続けるしかないんだ。屋上にはあの日と同じように、彼の姿があった。
「り、つ……」
名前を呼んでも、彼は何も答えなかった。私はそれがもどかしくて彼の元に駆け寄った。
「律、どうして来なかったの?どうして連絡もなしに……っ」
近くに行って、やっと気づいた。律は、泣いていた。感情を表に出さない律が、今まで絶対に泣かなかった律が、涙を流していた。
「ど、して……」
「先生、俺は……必要のない、人間なのかもしれない」
「律……っ」
どうして?あんなにみんなに頼られて、いつもみんなの中心にいて。みんなが律を必要としてる。それなのにどうしてそんなことを……?
「ハルが……」
ハルって確か、妹さんだったよね?
「ハルが、自殺未遂した」
「……!」
「アイツ、ずっとイジメ受けてて。ずっと苦しんでたのに……」
「…り、つ……」
「俺、何やってんだろう。アイツがいなきゃ俺が生きる意味なんてないのに。アイツを守れねぇなら、こんな体意味ねぇよ……っ」
私はそこでやっと気づいたんだ。律は自由なんかじゃない。縛られている。普通の人よりもずっとずっと重い、鎖で。
ハルを初めて見た時、天使だと思った。小さいハルの手が俺の指をキュッと掴んだ時、俺には生涯をかけて守りたいと思うものができた。兄妹愛じゃない、これは、愛しいものに対する感情だ。普通の恋人同士の愛情なんかよりずっと深く、普通の家族愛にしては色がついている。
子供ながらにして、気づいた。これは、妹に対して持ってはいけない感情なのかもしれない、と。だから俺は、その気持ちを封印した。俺は絶対に、ハルを女として幸せにしてあげることはできない。その代わり、ハルが幸せになれるように全力を注ぐんだ。俺が絶対に、ハルの幸せを守るんだ……
そう言って、彼はまた大粒の涙を流した。私も含め、周りはみんな誤解してたんだ。律は、優しい。律ならすべてを受け止めてくれる。自由で、強くて、だけど謎で……
でも本当は、違う。自由なんかじゃない。謎なんかでもない。逆に、律ほどわかりやすい人間はいないんじゃないかとさえ思う。彼のすべては、妹さんでできているんだ。
心を悟らせないんじゃない。妹さん以外のことを、律は深く考えないだけ。何もないところを読み取ろうとしても、何かを得られるわけがない。
律の頭の中にはいつも、妹さんしかいなかった。
「ねぇ、律。私を妹さんの代わりにしていいよ」
わかってたんだ。妹さんに代わりなんかいないこと。私が、妹さんの代わりになんかなれるわけないってこと。けれど、私の気持ちはもう取り返しのつかないところまで来ていて。どんな形でも、律のそばにいたかった。何をしてでも、律を手放したくなかった。そんな私の気持ちを読んだのか、律は苦笑いした。
「先生は先生だ。先生の代わりなんていないよ」
……律は本当に、優しいようで残酷だ。私の代わりがいないって言うなら、どうして私を愛してくれないの?どんな形でもいいって思ったのに、すぐにこう考えてしまう自分が嫌。
「ねぇ、律」
「……」
「抱き締めて。思いっきり」
そうしたら、絶対にあなたを困らせるようなことは言わないから。律は悲しげに微笑んで、私をギュッと抱き締めた。息もできないほど、キツく。やっぱり律の腕の中は、心地よかった。まるでこの腕は、自分を抱き締めるためにあるんじゃないかと思うほど。細く見えるのに逞しい腕は、洗剤のいい匂いがした。
『香水とかつけないの?』
『うん、ハルが香水あまり好きじゃないって言ってたから』
前に聞いた、そんな言葉が頭に浮かんだ。現実に、戻りかけた時だった。
「……落ち着く」
「え……?」
「先生といると、落ち着く」
「……っ」
こうやってまた、律は私に夢を見せてくれる。報われなくても、辛くても。私はきっと、律から離れられない。
「律……」
「……」
「好きよ」
「……っ」
「大好きよ」
「……うん」
必死でしがみついたから、律のシャツには私の涙とか、私が掴んでついた皺がついていた。でと律はそんなこと気にしなくて。私は更に律にしがみついた。ここが学校の屋上だってことも忘れて、2人ずっと抱き合っていた。どうでも、よかったんだ。私が先生で、律が生徒だってことも、家のことも。本当にどうでもよくて。教師失格。そんなことわかってる。だけど今は、律を感じたかった。
「律」
「……」
「抱いて」
「……せんせ、」
「お願い、抱いて。ハルちゃんだと、思っていいから」
「先生」
「……」
「先生は、先生だよ。ハルの代わりなんかじゃない」
その日、私たちは結ばれた。……そして律があたしを抱いたのは、これが最後だった。
その日家に帰ると、久しぶりに家に帰ってきていた父に殴られた。この前、蓮見さんを置いて出て行ったことを怒っているらしい。でも今の私にはそんなことどうでもよかった。
「お父様、私は蓮見さんと結婚できません」
父は何も言わない。
「他に好きな人がいるんです!」
父は私を見ようともせず、家を出て行った。
次の日から、私に密偵がつくようになった。どうせ父が私を見張らせているのだろう。でもそのせいで、私は律と会えなくなった。
「先生、最近イライラしてるね」
英語の質問に来た福島くんが唐突に言った。唖然としていると、彼はさらに続ける。
「ついこの間まで恋してます~って感じだったのに」
ニヤリと笑われて、顔が真っ赤になっていくのを感じた。
「なんかあった?」
「べ、別に何も……」
「律にはもう抱かれた?」
「……っ」
福島くんはきっと、うろたえる私を見て楽しんでいる。それが悔しくて仕方ないのに。律の話になると、嫌でも動揺してしまうんだ。
「ふ、福島くんは?彼女いるの?」
「いるよ」
「その娘とはもう……」
「してない」
「へ?」
「何も、してない。触れるだけのキスだけ」
意外な答えに、私は固まってしまった。だって福島くんって、なんていうか……
「経験豊富そうに見える?」
「な、なんで……」
「先生、思ってることが顔に出るってよく言われない?」
「……っ!」
「ま、別に大したことじゃないよ。付き合ってるからって絶対に体の関係にならないといけないわけじゃないでしょ?」
「そう、だけど……」
「性欲とか、ないわけじゃない。だけどそんな汚いもので、彼女を汚したくない」
そう言った彼は、苦しそうに眉間に皺を寄せていた。
「福、島、くん……?」
「そろそろ行くよ。先生、いつもありがとう。また来る」
そう言うと、福島くんは教室を出て行った。その時の福島くんは、いつも通りの彼だった。福島くんは、何かに苦しんでいる。……それがどんなに重いものかなんて、私全然知らなかったけど。
今日もまた、律に会えないんだろうか。いつから会ってない?数えればきっと片手で足りるくらいなんだろうけど。だけど、それでも苦しかった。私はもう、律がいないと生きていけないから。
その時だった。ピリリと鳴った携帯。律だと思って携帯を取った、のに。
「もし、もし」
『希、早く帰ってきなさい』
「お父様、もう、許して……」
『希、お前は全然わかってない。この婚約を受ければお前は幸せになれる』
本当に?律がいない生活で、私は幸せになれるの?……絶対に、ない。
「ごめんなさい、私……これからは、自分のために生きたい」
私はそう言うと、その場に携帯を置いた。そして走り出す。きっと律はいる。あの場所に。そして、私の幸せは律の隣にしか、ないの。
「律!!」
「せんせ、久しぶり。どうしたの?」
私はいつも通り屋上にいた律に飛びついた。
「先生、今日はいつも以上に甘えただね。どうしたの?」
「お願い、律」
「ん?」
「私を連れて、どこかに逃げてほしいの」
「え……?」
「お願い……っ」
律は何も言わなかった。ただ、私の手をギュッと握って走り出した。私たちは走って走って、電車に飛び乗った。行先は知らない。その時間帯はちょうど帰宅ラッシュで混んでたから、密偵から、私たちの姿を隠してくれる。帰ったら、どうなるんだろう。お父さんにはもちろん殴られて、律は……
「先生」
「……っ」
「余計なこと考えなくていいよ、今は」
私の思考を呼んだように、律がそう言った。だから、私は何も考えないようにした。律以外の、何も。
1時間ほど電車を乗ると、すでに電車の中の人はまばらになっていて。私たちは電車を降りた。そして駅の近くにあった小さなお店で律の服と晩ご飯を買った。
「律、家に連絡しなくていいの?」
「あぁ、大丈夫。俺よく無断外泊するから」
「……女の子の家に?」
私がそう聞くと、律は困ったように笑った。
「……楓の家だよ」
私たちの関係に、名前なんてない。私は律が好きだけど、律は妹さんが好き。ただの教師と生徒なようで、それも違う。こんな頼りない関係に、私はいつもしがみついていた。
私たちは近くにあったホテルに泊まった。順番にお風呂に入って、すぐに布団にもぐりこんだ。
「ねぇ、先生」
「んー?」
「明日は、海に行こうか」
「海?」
「うん、海」
律はそう言って、私をギュッと抱き締めた。律の腕の中はやっぱり心地よくて。私はすぐに眠りにおちた。
次の日。私たちは早く起きてまた電車に乗り込んだ。長い間電車に揺られて、ただ手を繋いで座っていた。律は何を話すでもなく、外を見ていた。何を考えてるのかわからなくて名前を呼ぶと、私に優しい笑顔を見せてくれた。だから気付かなかったんだ。律が、何を考えているかなんて。私には全然、わかっていなかったんだ。
「わー、綺麗だね!」
冬の海は寒くて、けれど綺麗だった。海を見るのは、実は初めて。こんなに大きくて綺麗なものだなんて知らなかった。不意に、私の隣から温もりが消える。私は急いで振り返った。律はしゃがみこんで、海を見つめていた。
「律……?」
「先生、俺」
死のうかと思って。律の言葉に、私は固まった。
「な、んで……」
「ハルがさ、イジメに遭ってるって言ったじゃん?」
「……」
「それ、俺のせいなんだよね」
「律……」
「俺がいなかったら、ハルは幸せになれるかもだから」
だから、毎日屋上にいたんだ。あの高さなら死ねるかなと思って。涙が零れた。律はいつも、優しい笑顔の裏にいろいろなものを背負っていた。それには気付いてたんだよ。けれど、まさかそんなに深い苦しみだなんて思ってもみなくて。初めて会った日の、あの言葉を思い出す。
『少なくとも先生よりは死にたいって気持ち強いと思うけど』
どうして、そう言って笑ったの?どうして、助けてって言わなかったの?どうして私を連れて、死ななかったの……?
「だけど、ハルは俺しか頼れる奴がいないから。俺は絶対に死ねない」
ハルを残してなんて死ねない……。そう言って、律は涙を零した。
「俺よりハルのほうが、数百倍辛い思いしてんのに……」
律を苦しめるのは、妹さんで。でも律を生かしてるのも、妹さんで。私はどうやっても、律の心の中には入れないんだと悟った。
私の幸せは、確かに律のそばにある。けれど、律の幸せは私のそばにはない。そんな独りよがりの想いにこの身をささげられるほど、私は強くなかった。
私きっと、どこかで期待してた。律はきっと、私を愛してくれる。こんなに優しくしてくれるんだからきっと、私を見てくれる。
でもそれは勘違いだった。律の中に、私はいない。今までも、これからも。
「律……帰ろうか」
「え……?」
「妹さん、きっと律のこと待ってるよ」
「……っ」
ちょうど、その時だった。辺りに響いた着信音。私は携帯を持ってきていないから、必然的に律の携帯になる。律は『ごめん』と言って、携帯に出た。
「もしもし、どうしたの?」
『り、律!ハルが……!』
受話器の向こうから、女の子の声が聞こえた。律は、立ち上がると走り出した。私のことなんか見もせずに。
……終わりは本当に、呆気ないものだった。私はその場で泣いた。暗くなるまで、一人ぼっちで。
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