第487話
八月九日、アグニの日。
ゼマティス家では全員揃って朝食を食べる。ただし伯父さんと長男は数週間前から不在のようだ。
「カースや。例の首輪じゃが何とかなりそうじゃ。今週末、デメテの日の夜にでも顔を出してくれるか?」
「はい! おじいちゃんありがとうございます! やっぱりおじいちゃんは凄いんですね!」
おじいちゃんはデレデレだ。おばあちゃんもそれを見てニコニコしている。
「それよりカース! 今日の昼はどうするのよ! 一人で行くつもり!?」
「もちろんそうだよ。アレクが待ってるんだからね。上級貴族と会うとロクなことがなさそうだから本当は行きたくないけどね。何か僕を呼ぶ事情があるんだろうね。」
「でも、罠とか! その子は違うところにいるとか、何かあるかも知れないわ!」
お姉ちゃんは心配性か。
「大丈夫だよ。僕を罠にかけても意味がないよ。それに屋敷内にアレクがいなかったら僕には分かるしね。」
「なら私も行くわ! 夏休みで暇なんだから!」
「えぇー? やめてよー。一人でトイレに行けない子供みたいで恥ずかしいよー。僕なら大丈夫だから。ね?」
「連れて行ってあげたら? シャルロットって意外と頼りになるわよ? また迷っても知らないわよぉ?」
うーん、アンリエットお姉さんの言うことにも一理あるか。仮にゼマティス家とアレクサンドル家が揉めたとしても私の知ったことではないし。
「そうだね……それならお姉ちゃん一緒に行こうか。アレクサンドリーネを紹介するよ。」
「仕方ないわね! 付いて行ってあげるわ!」
本当に昔のアレクを見ているようだ。二歳も年上なのに。
昼まではまだまだ時間があるけど出かけよう。無尽流の道場に行ってみたいのだ。
「おばあちゃん、無尽流の道場って知ってますか?」
「ええ知ってるわよ。第一城壁内の四区にあるわよ。」
四区、つまり南東エリアか。先生にはかなり遠回りをさせてしまったんだな。申し訳ないことだ。
「じゃあ少しだけ顔を出して来ますね。ついでだからお姉ちゃんも来る? ただし歩きだけど。」
「行くわよ! それぐらい平気なんだから! あ、護衛はいらないわ。いいわよね、おばあちゃん?」
「好きになさい。それも勉強のうちね。」
大丈夫なのか? ここは第三城壁内、第一城壁の南東部までかなり歩きそうだが……
少し早めに歩くこと一時間。ようやく到着。帰りのことを考えると二時間ちょっとぐらいしか滞在できないか。
「じゃあ僕は稽古に混ざると思うから、お姉ちゃんは適当に見学でもしててよ。たぶん二時間ぐらいしか居ないと思うよ。」
「はぁはぁ……分かったわ……」
さすがに大きい。クタナツ道場は二十人ぐらいで稽古するのが精一杯だが、こっちは百人は入れそうだ。庭もクタナツ道場の五倍はある。アッカーマン先生はこんな所で剣を教えていたのか。
庭では百人規模で稽古が行われている。年齢層は低そうだ。初級クラスかな? フェルナンド先生は見当たらないがここに混ざろう。
麻の上下に着替えて裸足になる。責任者っぽい人は、あの人かな。
「押忍! クタナツ道場より参りましたカースと申します! 参加してもよろしいでしょうか!」
「よし! あの後ろに行け!」
「押忍!」
半数は私に注目し、半数は集中して素振りを続けている。遅れて来た者は目立つからな。私も位置につき無心で素振りを始める。軽く目を瞑り先生の太刀筋を意識して木刀を振るう。
木刀を振れば音がする、当然のことかも知れないが。しかしフェルナンド先生が振るう剣からは音がしない。いつも納刀の音しか聞こえないのだ。どうやったらそうなるんだ?
素振りを三十分ほど続けたら次は掛かり稽古だ。ここでは先生の数が足りないのだろう、比較的年上の子が受けてくれるようだ。まあ私は先生の列に並ぶけどね。
ちなみにクタナツでの普段の掛かり稽古はアッカーマン先生が相手だと、こちらの打ち込みを的確に先読みして気持ちよく打たせてくれる。父上だと、どこに攻撃しても柔らかく受け止めてくれる。フェルナンド先生だと、どこに打ち込んでも弾き返される。
ここの先生とやってみて思ったのは『普通』ということだ。むしろこれが本来の掛かり稽古なのだろうか。普通も悪くないものだ。
よし、いい汗をかいた。フェルナンド先生に会えなかったのは残念だが、もう帰らなければならない。
「押忍! ありがとうございました。フェルナンド先生にカースが来たとだけお伝え頂けないでしょうか。今週中にまた参りますので。」
「承った。またの参加を楽しみにしている。」
こんなに大勢に混じって稽古をしたのは初めてだ。いい刺激を受けてしまった。無敵と書いてエクスタシーと読むのは常識だが、刺激と書いて何と読めばいいのだろうか。
「お待たせお姉ちゃん。帰ろうか。」
「べ、別に待ってないんだから! 剣を振るカースがカッコいいなんて思ってないし!」
そこに数名の男の子が近寄ってきた。
「待てよ。お前後から来ておいて何堂々と参加してんだよ!」
「夕方に草むしりがあんだよ! しねーで帰るつもりかよ!?」
「草むしり? どこ? 今日は時間ないから今からやるわ。どこ?」
「ちょっとカース! 私は嫌よ! 草むしりなんて!」
道場内の雑巾掛けならやって当然と思っていたが、ここでは草むしりがあるのか。ならば参加させてもらったからにはやらねばなるまい。
「お姉ちゃんは見学しててよ。やってくるから。で、どこ? 早く教えて。」
「あそこだよ! あの辺が終わるまで帰るんじゃねーぞ!」
「サボんなよ! 見てるからよー!」
見てるんならお前もやれよ。まあ先輩の言うことには従うさ。公立中学校のグラウンドぐらいの広さに短い雑草が繁っている。あんなの手で抜いてたら何日かかるんだよ。
『燎原の火』
草なんてむしろうが焼き尽くそうが同じだよな。地面が少し焦げたのはご愛嬌ってことで。
「お姉ちゃんお待たせ。行こうか。」
「待ってないわよ……」
これなら文句ないだろう。幸い先輩達も何も言ってこないことだし、先生に会釈してさあ帰ろう。やっとアレクに会える。丸一日しか経ってないのにもう会いたいぞ。
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