第5話【ノ―ラ オブライエンⅡ】


その日彼女はノ-ラの両親に「あまり大げさにしないでくれ」と念押しした。


「今からノ-ラとピクニックに行く」


それに関しては口出しは無用だと伝えた。


「ノ-ラに似合うドレスと、出かける前に髪を鋤いてやって欲しい」


父親は夫婦の寝室からノ-ラのために仕立てたドレスを山程抱えてやって来た。


そして部屋中にハンガーで洋服を掛け終えると、何も言わず出て行った。


ベッドに腰かけ、母親に髪を鋤いてもらう間、ノ-ラは無表情で壁に掛けられたドレスを眺めていた。


けれどその間も、ノ-ラの膝が忙しなく上下するのを若い霊媒師は見逃さなかった。


母親は娘の髪に瑠璃色のリボンを結ぼうと躍起になった。娘は執拗にそれを拒んだので諦めざるを得なかった。


午後のお茶に出されるはずだったクローデッドクリームに杏のジャムをのせたスコ-ン、リンゴのプディング、アイリッシュウィスキーに漬け込んだドライフル-ツを生地に詰めて焼いたミンスパイ。


バスケットケ-スに詰め込まれるだけ詰め込まれ2人に手渡された。


庶民にはとても高価なキュウリをふんだんに使ったキュ-カンサンドも…作りたかったが3月のこの時期に夏野菜は手に入らない。


代わりに揚げたジャガイモをチ-ズとバターで挟んだクリスプサンドがバスケットに押し込められた。


まるで貴族のような弁当を手に2人は市内を歩いた。


寺院での午前中の礼拝を終えたカソリック教徒が長い行列を作るア-メン通り。


当時新設されたばかりのテムズ・バレー大学は、昔も今も英国で最も大きな大学で、構内も大学の外も大勢の学生で賑わっていた。


旧ポルトガル通りは、ピカデリー・サ-カスに名前を変え、地下鉄が開通したばかり。観劇のための劇場が建ち並ぶロンドン1の歓楽街に変貌しつつあった。


当時の混雑ぶりを文豪ディケンズは「パリの大通りにも見劣りしない盛況ぶり」と記している。


ランチのバスケットなど優雅に広げる場所など何処にもなかった。


「人に酔った!散々歩いたし…もう帰ろう」


元々彼女自身が人混みが大の苦手だった。お腹が空きすぎて気持ちが悪いし、都会の空気は体にも悪い。


ノ-ラは最初のうちだけ、人の目を気にしてオドオドしていたが、直ぐに慣れた様子で彼女の後について歩いた。あまり疲れた様子もない。


通行人の中には時々立ち止まって彼女を遠くから見る男もいた。


ノ-ラが彼女の顔を見る。


「あれは、あんたが美人だから見とれてるだけさ」


そう彼女が言うとノ-ラは恥ずかしそうに俯いて何も答えなかった。


お世辞ではなく、ノ-ラは普通に身なりを整えて前を向いて歩けば、すらりと背の高いかなりの美人だった


2人はテムズ川の土手を辿りながら帰路についた。


3月の寒風が容赦なく2人の娘の髪をなぶる。川沿いでのピクニックはいかにも無謀というものだ。ふとノ-ラが足を止めて、水の流れる方を指差した。


「ああ、もうそんな季節だね」


岸辺にダッフォデイルが群生して咲いていた。


凍りつく寒風の中で、水辺に流した黄色いリボンのように棚引く。その風景を見て、英国に住む人々は長い冬の終わりと春の訪れを知る。


グレート・ブリテン島の南西。ロンドンから西に125マイル先にあるウェールズ地方に数多く群生する彼岸花科の被子植物。彼女の先祖が遠い昔海を渡り、やがて、この地に流れ着いた。


彼女はここで生まれ、やがて師と仰ぐ人物と出会った。国旗に描かれぬ、赤い竜の紋章を掲げるウェールズ人は、民族の誇りを持って、自らをイングリッシュとは呼ばず英語も話さない。


スコットランドにもアイルランドにも春にはダッフォデイルの花が咲く。


リ-キ同様この地方に住む人々の間で最も親しまれている花であった。


「私はこの花が好きだね。寒さに負けず『春が来た』と健気にラッパを吹いてる…そんな風に見えるからね」


「お姉さんには…花が歌ったりお喋りするのが聞こえるんですね」


ノ-ラは彼女の事を名前で呼ばず「お姉さん」と呼んだ。


彼女も別に気にせずに「呼びたい言い方で呼べばいいさ」と彼女に言った。


「私も何時かお姉さんみたいに、花の言葉が分かるようになるかしら?」


「それは無理だね」


自分の能力は持って生まれたものだから。はっきりと、そうノ-ラに伝えた。


「でも、私があんたにそれを伝えて上げる事は出来るよ…それでは駄目かい?」


「いえ、それで充分です。…ではお願いします」


ノ-ラはそう言って目を閉じた。


「私に聞かせて下さい。ダッフォデイルが歌う春の調べを…さあ!どうぞ!」


「今ここでかい?私は歌は苦手なんだ…その…ひどい音痴でね」


「私はこうして目を瞑っていますから平気です。何なら耳もふさぎます」


彼女は躊躇って、しばらく鼻の頭を掻いたりしていた。傍らには両手を前で組んで目を閉じたノ-ラがいて、何だか妙な光景であった。彼女がちっとも歌わないので、少し拗ねたノ-ラの唇が綻ぶ。


谷間を漂う雲のように


一人彷徨い歩いていると


思いもかけずひと群れの

  

黄金に輝く水仙に出会った


水辺の傍ら 


木々の根元

  

風に揺られて踊る花々

  

銀河に輝く星々のように

  

並び咲いた花々は


入り江の淵に沿って咲き広がり

  

果てしもなく連なっていた


「驚いたね…あんた死者の言葉以外にもマシな言葉を知ってるじゃないか!」


ノ-ラは閉じた目をそっと開いて彼女に言った。


「死者の言葉に違いはありませんよ」


「私には、ちと甘い気がするがね」


「お気に召しませんか?」


「いや、すごく気に入ったよ。誰の書いた詩だい?」


「教えません」


そう言ってノ-ラは彼女の前を大股で通り過ぎた。


「何もかも全部教えてしまうと、お姉さんは私に会ってくれなくなりますから」


「まだ、あんたには伝える事が残っているよ」


「それは明日にしましょう」


「例えば今日は人に慣れる訓練をした」


「いいですって!」


「この世界は生者より死者の方がずっと多い、当前の如くね。いちいち通りを歩く人間を気にしていては駄目なんだ。野良犬に出会った時みたいに、けして目を合わせない事、それでも向こうから寄って来るなら腹を…」


突然彼女の口にノ-ラがクリスプ・サンドを押し込んだ。


「こちらのスコ-ンも母のオススメです!さあどうぞ!!沢山歩いてお腹が空きましたよね?さあ、たんと召し上がれ!!!」


確かにノ-ラの母親は料理上手だ。


塩加減も固さも絶妙なジャガイモを彼女は口の中で噛み砕いた。


「美味い!」


「本当ですか?私も母に作り方を習おうかしら」


ノ-ラが見せたその日一番の笑顔だった。


春の訪れと共にノ-ラの両親の願いが叶う、そんな日もそんなに遠くない気かした。


「ここは寒いです、残りは私の家で…」


ノ-ラの申し出を彼女は断った。


「今夜は家族だけで過ごした方がいいよ」


彼女の提案にノ-ラは静かに同意の意を示した。


「ありがとうございます」


「さっきの詩も、聞かせてあげたら、御両親もきっと喜んでくれるさ」


今度は首を横に振らなかった。


「別の詩にします」


「何故だい?」


「どうしてもです」


ノ―ラは横を向いたまま唇を噛んだ。


「まあ、別に構わないけどさ…今夜はゆっくり休みなよ。静かな夜になるはずだからね」


「お姉さん、私はもう何も見たり聞いたりしなくなるのですか?」


「家にいる時だけだよ。あんたは死者がとり憑いた訳ではなく元々」


「お姉さんと同じですね」


「ああ、私と同じだ」


彼女の言葉にノ-ラは俯いた。


「辛いのかい?でも、これは慣れるしかないんだよ」


「私やりたい事が見つかりそうです」


彼女の返事を待つ事もなくノ-ラは言った。


「1つだけ…1つだけでも、お姉さんと同じなら、私は幸福なの」

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