第16話 海 (前編)

 『海』という単語を耳にして、人々が連想するものとは、一体何だろうか。


 そんなことを、僕はとりとめもなく考える。


 試着室突入のお約束イベントもなく、無事に安心安全、そして健全に水着を買い終わった日の夜。


 場所は自室のベッド。時刻は深夜0時過ぎ。


 普段ならまだリビングで適当にテレビでも見て過ごしている時間だけれど、『明日は朝から海に行くから早く寝ろ』との指示で、こうして真っ暗な部屋の中、ベッドに横たわっているわけだ。


 しかし、身体に染み込んだ生活サイクルを急に変えられるはずもないため、未だ眠気は襲ってこず、天井を見つめたまま、適当な思考に頭を費やしているーーー思考の海に沈んでいる。


 思考の海で、海について考えている。


 いや勉強しろよ、と僕の中のリトルかずが囁いているけれど、まあまあ、今日1日はオフにする約束。


 もう今日じゃないだろという突っ込みも、僕は気にしない。それくらいの心の広さはあるつもりだ。


 さてさて状況説明はこのくらいにして、話を本筋に戻すけれどーーーー海。


 買い物を終え、いよいよ明日に控えた、海。


 海と言えば、何が思い浮かぶだろうか。


 真っ先に出てくるのは、やはり情景だろう。

 紺碧の空と群青色に輝く海。

 水平線まで白水碧と続く、鮮やかなグラデーション。


 思い浮かべるだけで心踊るような、見るものを神秘へと誘う滄海の光景。


 無粋ながら爽快と掛けたのは墓場まで持っていくとして、では、そんな壮大なる海での遊びと言えば、どんなものがあるだろうか。


 海水浴のみならず、ボートや浮き輪で日向ぼっこ、あとは定番の海水の掛け合い。


 もちろん舞台は海の中だけではない。

 もれなく海とセットでついてくるのは、白い砂浜。


 夏の醍醐味、スイカ割りを始めとして、砂浜でお城を作ったり、貝殻を拾ったり………インドア派の僕としては、せいぜいこれくらいしか挙げられないけれど、まあ、他にも色々とあり過ぎるくらいにあるだろう。


 僕以外の2人ーーーいや、幼馴染はともかくとして、妹の方は、どちらかと言うと、海の景色云々よりも、レジャー目的で海を楽しみにしている節がある。


 まあまあ、それも乙なものだろう。

 夏の楽しみ方は人それぞれだ。


 要するに、『海』という単語からは無限の連想ができるというわけだーーーーーさながら、海洋が際限なく広がっているように。


 これでも僕はテスト勉強に明け暮れる身。

 最近覚えた地学の知識を、ここで恥ずかしながら披露させてもらうと、僕らが暮らす地球、その7割は海洋が占めていると言う。


 さてさて、眠気も丁度良い具合にやってきたことだし、では、夢の大海原に漕ぎ出す前に、ここで最後の疑問を投げかけるとしよう。


 ーーーー海とは如何なる場所か。


 そんな疑問を投げかけよう。


 この問いへの明確な模範解答なんてあるはずもないが、それこそ無限の連想を駆使すべき時だ。


 僕程度の凡人では、『青春が生まれる場所』なんて、海の青と青春の青を掛けた浅薄な答えしか浮かばないけれどーーーーーでも。


 僕がよく知る聡明な彼女なら、あるいはこう答えるかもしれない。


 青春じゃあなくーーーー生命いのちが生まれる場所。


 生命の源。


 ーーー人々が文化を忘れて、開放的ヌードになれる場所、と。




*****




「ついにやってきた、グアム島!」


「冒頭から嘘を吐くな。やってきてねえよ」


 前回も似たような入りを、似たような2人でやった気がするけれど、僕は突っ込まざるを得なかった。


 飛行機ーーーーではなく、電車に揺られること約30分。

 僕らは、太平洋マリアナ諸島南端の島、常夏の楽園パラダイス、我らがリゾート地グアム島ーーーーではなく、最寄りの海水浴場に来ていた。


 そう、海水浴場だ。

 煌めくエメラルドブルーとは程遠い、至って普通の、何処にでもあるであろう田舎の海。


 アメリカではなく、バリバリの日本国内である。


 ビーチへと下りる階段の上から、そんな海を一望しながら叫んだ我が妹、いちひとに対し、僕は突っ込まざるを得なかった。


 両手万歳したまま固まっていた一華は、僕の突っ込みを受けて頬を膨らませる。


「もー、ノリが悪いなあ」


「お前がグアムなんて言ってくれたおかげで、目の前の海が霞んじゃっただろ。海なのに」


「寒いこと言ってないで、早く行きましょう」


 僕ら兄妹の馴れ合いを黙って見守っていた、幼馴染のゆきみや千歳ちとせが、若干呆れた表情で促してきた。


「そうだな」


 応えると、未だ憤慨する一華を置き去りに、砂浜へと続く階段を下りていく。


 白砂のビーチに足を踏み入れると、先のコンクリートから一転、急に足場が不安定になった。


「これ、下手したらすっ転ぶな……」


 転ばないように注意してゆっくり進んでいると、後ろを歩く一華から非難の声が上がった。


「ちょっとお兄ちゃん、受験生の前で『転ぶ』は禁句だよ。ちゃんと入れ替えて『ぶっ殺』って暗喩しないと」


「禁句を避けた結果、直截的な悪口になってんじゃねえか」


 そもそもお前は、そんなところに気を配らなくても安心できる成績だろうに。

 そうでもなきゃあ、中学三年生の夏という大事な時期に、こうして海水浴に来たりなんてしていない。


 慣れない砂の感触に苦戦しているのは僕だけではないようで、女性陣もえっちらおっちらついてくる。


 それでも、きめ細かい白砂は肌に心地良いらしく、後ろからは時折軽い笑い声が聞こえてきた。


 重たい足を引き抜いては突っ込み、海岸線に沿ってゆっくりと歩いていると、海の家に到着した。


「よし、じゃあ早速水着に着替えてくるか」


 背後を振り返って2人に呼びかける。

 千歳と一華は同時に頷いた。


 それから海の家の前で一旦2人と別れ、僕は持ってきた水着に着替え始める。


 何の衒いもなければ面白味もない、至ってオーソドックスな黒い海パンだ。

 夏休み前、高校の水泳の授業で使っていたものをそのまま持ってきた。


 割れてはいないけれどそこまで膨らんでもいない、まさに中肉と言うしかない己の腹筋を撫ぜつつ、荷物をロッカーの中に突っ込んだ。


 待ち合わせ場所に指定した海の家の前まで戻ると、既に2人はそこにいた。

 ここに来る前に服の中に仕込んでいたのだろうか、やけに素早い準備である。


 先に一華が遅れてやってきた僕に気がつくと、


「お兄ちゃん、遅ーい」


 と、不満を瞳に宿して言ってきた。


 一華の声に反応した千歳が、クスクスと意地悪く微笑む。


「きっと、何とか腹筋を割ろうと、中で必死に筋トレしてたのよ」


「そんな短時間で割れるか」


 確かに腹筋が割れていないことに若干の、ほんの少しの、ミクロレベルのコンプレックスを抱いている僕だけれど、流石に今日この瞬間にどうにかしてやろうなんて気はない。


 失礼な物言いに返事を返しつつ、僕は2人の姿を順に瞳に移した。


 言わずもがな、今の2人は、昨日購入した水着姿ーーーー『お楽しみ』の一言で引っ張られてしまった、珠玉の水着姿である。


 一華が着ているのは、一見すると普段着のように見える、薄い黄色のワンピース水着。

 上は胸元からウエストの辺りまでをしっかりとカバーしており、ウエストラインは窺い知れない。

 吹きつける風に、お尻と太腿を覆うフリフリなスカートがめくれると、同系色のショートパンツが目に入った。

 肩口から伸びる中学三年生らしい細い腕と、スカートの下から覗く健康的なふくらはぎ以外は肌見せが抑えられた、露出が控えめの水着である。


 そこには、僕の記憶の中にある、スクール水着の幼い彼女の面影は存在しない。


 今まで大して意識してこなかったけれど、年月を重ねるにつれて、徐々に女の子から女の人へと成長を遂げている妹の姿が、そこにはあった。


 いやはや、何とも感慨深い。


 胸とウエストのコンプレックスを何とか誤魔化そうと、血眼になっていたのであろう妹の姿が脳裏を過る。


 ああ、いつかこいつが、一向に発育が見られない慎ましやかな胸の成長と、カバーする心配もないほどくびれたウエストを手に入れる日はやって来るのだろうか。


「………お兄ちゃん。今、物凄く失礼なこと考えてない?」


「まさか。お前の水着姿に見惚れてただけだ」


 真正面から向けられてくるジト目をさらりと受け流し、僕は隣の千歳に視線を移した。


 ーーーー瞬間、呼吸することを忘れる。


 千歳は、わざわざ形状やらデザインやらを説明するのも憚られる、シンプルな白いビキニを艶やかに纏っていた。


 ふんわりと柔らかく包み込まれた、形の良い双丘。

 驚くほど引き締まった腰。

 その中心に鎮座するは、これまた形の良いおへそ。

 完成されたヒップに続き、太腿、その下に伸びる長く細い生足が、なめらかな脚線美を描きながら晒されている。


 一華のものとは打って変わった高い露出度で、ビキニの色にも劣らない、透き通るような白い素肌が大胆に披露されていた。


 その類稀なるプロポーションには、如何なる者も、ただ一言でさえ感想を口にするのも烏滸がましいと断ずるほどの、暴力的な美しさがあった。


 装飾品は、至ってシンプルな白いビキニ。

 だがしかし、そのシンプルさゆえに、素材が有する純美が最大限に引き出されている。


 ーーー今ここに、千ノ宮千歳という白い妖精が、恐れ多くも顕現したのだ。


「……そんなにジロジロと見ないでくれるかしら」


 その声に、ようやく僕は我に返った。

 視線を上げると、千歳は不機嫌そうな顔でこっちを睨んでいる。


「えっ、あっ、すまん……」


 彼女の水着姿に悩殺されていた僕は、そんな素の謝罪をしてしまう。


「これ以上見るなら月額500円よ」


「は?」


「………つまんないの」


 退屈そうな表情を浮かべた千歳は、そのまま僕に背を向けると、波打ち際へと離れていってしまった。


 遅れて、今の彼女の発言がボケだったことに気づく。

 思考が停止していて、咄嗟に反応してあげられなかった。

 突っ込み担当にはあるまじき失態である。


「………参ったな」


 遠ざかっていく背中を見送りながら、僕はポツリと呟いた。


 と、いつのまにか隣に立っていた一華が、ちょんちょんと肩をつついてくる。


「ねえ、お兄ちゃん」


「どうした?」


 名前を呼んだ彼女の顔には、悲壮な感情が色濃く出ている。

 それを見れば、彼女が言いたいことは手に取るようにわかった。


「……私もあと2年すれば、あんな風になれるのかな?」


「………夢を見る分には無料タダだぞ」


「…………うん」


 部位は違えど、それぞれ雄と雌の部分にコンプレックスを抱えた兄妹は、お互いに慰め合う他なかった。




*****




 海水浴場は、そこそこの賑わいを見せていた。


 今は8月の下旬。

 時期からすれば、7月上旬の海開きから約2ヶ月は経過しているのだが、海水浴場を訪れる人は未だに多い。


 ざっと見渡しただけでも、家族連れだったり、僕らと同じくらいの高校生たちの集団、大学生と思しき若いカップルなど、利用者は多種多彩である。


 それほど夏の海には人々を惹きつける魅力があるということなのだけれど、人混みが苦手な僕としては正直辟易してしまう。


 これが7月や8月上旬ならもっと混雑していたと思うと、時期をずらしたのは正解だった。


 もしかしたら、それを見越して一華はお出掛けの予定を今日に設定したのかもしれない。


 まあそれを言ったところで、あの能天気な妹は、行きたいと思ったのが最近だったから、なんて抜かすのだろうが。


 そんなことを考えながら、僕ら3人は海ではしゃぐーーーーことはなく、開けたビーチに並んで腰掛け、目の前の広大な海を眺めていた。


 視界の端々には、海や砂浜と戯れる人々が映っている。


「……ったく、デートで海なんか来るなよ。無難に映画館にでも行っとけよ」


 仲良さそうに水の掛け合いっこをしている若いカップルを死んだような目で見つめながら、ボソリと呟く。


「まったくね」


 それに、隣に座る千歳が同調した。


「おー、お前と意見が合うなんて珍しいな」


「ええ。どうせ海にデートに来るカップルなんて、彼氏の胸筋と腹筋と彼女の胸部と臀部をお互いに視姦することしか考えてないのよ」


「全然違ったわ。あと、女の人の胸とお尻を胸部と臀部って言うのやめて?」


「それじゃあ彼女のおっ」


「はい、ストーップ!」


 千歳が何か言いかけたところで、反対側から食い気味の待ったがかかった。


 視線を向けると、一華が仏頂面でこちらを睨んでいる。


「どうした?」


「どうしたじゃないよ! せっかく海に来たのに、何で私たち、海にも入らずにカップルを妬んでるの?」


 どうやら今のこの状況が不服のようだ。


「もっと何か楽しいことしようよ!」


「とは言ってもな……正直、僕も千歳もあんまりはしゃぐタイプじゃないから、こういう時に何をすれば良いのかわからん」


 こちとら伊達に友達0人を気取ってはいない。

 こうしてリア充っぽく海に遊びに来たことがないため、如何せん勝手がわからないのである。


 僕の主張に、千歳もうんうんと頷いていた。


「そうね。それに関しては、私も断腸の思いであなたに同意するわ」


「うん、腸大事にしろよ?」


 今回は千歳も一華に誘われたってだけで、大してこういうイベントに精通しているわけじゃないのだ。


「精通?」


「我先に下ネタに反応するな」


 そういう意味で言ったんじゃねえよ。


 如何せん格好が水着なので、そういうことを言われると、何だかこっちが変な気分になってくるから是非ともやめてほしい。


「それにお前の場合……」


「?」


 言いかけてやめた僕を、千歳が怪訝な表情で見つめてきた。

 これは、多分自覚していない表情だ。

 だから、僕は軽く肩を竦めるだけにする。


 こいつは、自分が今、どれほど周囲の人間を刺激する姿をしているかを自覚していない。

 いや、自覚していないと言うより、意識していないと言った方がより正確かもしれない。


 最小限の布地だけで守られた、麗しき白い肢体。

 均整のとれた体つきは、こいつを知らない人が見れば、一種の彫刻と見紛うくらいに洗練されている。


 現に、ビーチにいる男たちの視線は彼女に釘付けだ。

 ナンパ目的でやってきたと思われる男共の集団が、『声掛けてこいよ』『お前が行けよ』と赤ら顔で言い合っているのを目にした。

 カップルの彼氏が見惚れているのを、彼女さんがど突いている光景を目にしたりもした。


 視線の源は、何も男たちだけではない。

 女性たちにも羨望だったり、その他色々な感情が混ざり合った眼差しを向けられている。


 かくいう僕も、こうやっていつものように他愛ない会話を繋いでいないと、瞬く間に頭が煩悩に支配されてしまいそうになるくらいだ。


 思い出すのは、夏祭りに行った際の浴衣姿。

 あの時に感じた感情を、今の僕は追体験している。


 いや、もしかしたら、それ以上かもしれない。

 それほどまでに、美少女ーーー特に彼女の水着姿というのは圧倒的な破壊力がある。


 ………まずい、頭がピンク色に染まってきている。

 こういう時の対処法は、たった1つだ。


「……お兄ちゃん、何でさっきから私の方をじっと見てるの?」


「お前を見てると心が落ち着くから」


 何の感情も湧いてこない実妹の水着姿を目に焼き付けつつ、投げやりに言葉を返す僕。


 おかげで、何とか平静を保つことに成功した。


「千歳ちゃんも、海入ったりして遊ぼーよー」


 一華は甘えた声で、千歳の背中にしなだれかかる。


「私、千歳ちゃんの泳ぎ見たいなー」


 運動神経が良い千歳は、もちろん水泳もお手の物。

 高校の授業で、ダイナミックなバタフライを披露していたのを思い出す。


 だから、技術面では申し分ないはずなのだけれど、千歳は困った顔で難色を示した。


「別に構わないけれど……でもビキニだから、あんまり激しく泳ぐと解けてしまうかもしれないわ」


 それを聞いて、軽く想像してしまった僕をどうか許してほしい。


 悶々とする僕をよそに、一華は快活に笑い、


「その時はちゃんと謎の光が入るから大丈夫だよ!」


「何でお前はアニメーションの考えなんだよ」


「……それもそうね」


「お前も納得するな」


 間髪容れずに突っ込むと、千歳はこちらを振り返ってニコリと微笑み、


「あなたの描写力を期待しているわ」


「嫌だよ。『異空間から射し込んだ謎の光のせいで、彼女の乳房を直視することは叶わないけれど』なんて描写したくねえよ」


「めちゃめちゃ詳細に描写してるじゃん」


 一華から路上の汚物を見るような目を向けられた。


 それから彼女は千歳に向き直り、


「ねー、泳ごーよー」


 千歳の両肩を掴み、ユサユサと揺さぶる一華。

 なかなかに直視が憚られる光景だ。


「……じゃあ、少しだけね」


 ついに根負けした千歳が苦笑を返し、ゆっくりと立ち上がった。


「じゃあちょっと行ってくるから」


「おう。クラゲとナンパに気をつけろよ」


「あなたも水着女子に声をかけて通報されないようにね」


「心配の方向が斜め上過ぎる」


 クスッと微笑みながら、女子2人は海の方へと駆けていった。


「………それにしても」


 波打ち際へと走る、2つの後ろ姿を見つめながら。


「……水着回って、挿絵がないとあんまりサービスじゃないよなあ」


 僕の独り言は、海辺に吹く風の音が消し去っていった。

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