青春一千物語

水巷

第1話 幼馴染

 大きな蝉の鳴き声が、閉められた窓の外からでもひっきりなしに聞こえてくる。蝉の生命は一週間しかもたないという話はあまりにも有名だが、案外、蝉たちはその短く儚い人生、否、蝉生の中で、自分たちの存在を、その生きた証を残そうと必死になって鳴いているのではないだろうか。そう思うと、やかましいとしか感じなかった蝉の鳴き声も、どこか哀愁漂うものに感じられなくもない。

 と、こんな風にどうでも良いことを考えてしまうほど、僕の脳味噌は限界を迎えていた。つーか、蝉うるせぇな。全然悲しくなんかならねぇよ。


 煩わしい蝉を無視すれば、カリカリ、カリカリ、と、シャーペンをノート上に走らせる音だけが、この六畳の部屋を満たしていた。さっきまで僕に涼しい風を送ってくれていたエアコンも、室内の温度変化を敏感に感じ取り、今は稼働が止まっていた。

 かくいう僕も、今や稼働を止めていた。


「手が止まっているわよ、かず


 冷たい声でそう言い放ったのは、丸テーブルを挟んだ僕の向かいに座る少女、千歳ちとせだった。


 千歳は僕の家の隣に住んでいる、まぁいわゆる幼馴染というやつである。幼稚園から高校までのほとんどの時を共に過ごし、もはや姉弟と言っても……兄妹と言っても過言ではない間柄だ。


「ちょっと、私を勝手に妹扱いしないでくれる? 不愉快だわ」


「ナチュラルに人の心を読むんじゃねぇ」


 で、そんな僕たちが今何をしているのかというと、なんてことはない、学生の本分、勉強である。高校2年生の夏休みーーーー僕と千歳が通う高校は進学校であるので、この時期から大学受験を意識して、本格的に勉強に力を入れ始める者も少なくない。かくいう僕らもその例に漏れず、絶賛受験勉強中というわけである。


「その言い方だと、まるであなたが意識高めの立派な受験生みたいに聞こえるじゃない。違うでしょう? あなたは大学合格どころか、進級も危うい成績だから、こうやって私に泣きついて教えを請いに来ただけでしょう?」


「いや、確かにその通りなんだけど、改めて言うのはやめてくれ。自分で自分が悲しくなるから」


 千歳の言う通り、僕は受験を意識するどころか、学校の定期テストでさえ看過できないほどの成績なので、こうして夏休みの間、千歳に勉強を教えてもらいに来ているのだ。

 ちなみに、千歳は学年でもトップクラスの成績を誇る秀才である。勉強を教えてもらうにはもってこいの人材だ。


『とりあえずは夏休み明けの実力テストね。それまで約1ヶ月間、私が血反吐を吐くまでみっちり教えてあげるわ。感謝なさい』


 たかが勉強で血反吐を吐いてたまるかと思ったが、そう言ってくれた(?)千歳に従い、夏休みは毎日、僕の家だったり千歳の家だったり、はたまた図書館だったりと、場所を変えては勉強会を開いているのである。ちなみに今日の会場は、千歳の家、ひいては千歳の私室である。


「こういう時、幼馴染って便利だよな。家近いし」


「人を便利な道具扱いする前に、まずは自分の脳味噌を使いこなしてくれるかしら。さっきから、全然進んでないじゃない」


 さっきまで部屋に響いていたシャーペンの音は、千歳のものだけである。勉強会が始まって数十分は僕と2人で二重奏を奏でていたのだが、時間が経つにつれて僕の手が止まり、その後は千歳の独奏状態、ソロパートだった。


「いや、だって数学難しいんだもん。全然理解できねぇ」


「そこの問題、ただ公式に当てはめれば解ける問題じゃない。特別な思考なんて要らないんだから、猿でも解けるわよ」


「猿では解けねぇよ」


「そう。では、一樹でも解けるわよ」


「僕と猿を同列に扱うな!」


 酷い言い草である。


「そもそも、数学っつーのにどうしても苦手意識があるんだよな。なんつーか、予め答えが用意されてるのがなぁ。僕としては、学問には自由な発想が必要だと思うんだよ。それを育むには、やっぱり国語にこそ教育の比重を置くべきなんじゃないだろうか」


 他教科に比べれば、いささか成績の良い国語を持ち出して、学問について語ってみた。

 だが、千歳はそんな僕の言を鼻で笑った。笑いやがった。


「たかだか定期テストでさえパスできない落ちこぼれが、一丁前に数学を侮辱するなんて片腹痛いわね。かのコナン・ドイルも言ってたじゃない。『真実はいつも1つ』って」


「何を勘違いしているのか知らないけど、それ言ったの別にコナン・ドイルではないからな」


 あと、ここはどちらかというと、有名な数学者の名言を引用するべき場面ではないのか。


 僕の突っ込みも、そうだったかしら、なんて言って、華麗に受け流す千歳だった。まさか本気で言ったわけではないだろうが、なにぶんこいつは滅多に笑わないので、ボケなのか天然なのかの判断がつきにくいのである。


「いつまでも口を動かしてないで手を動かしなさい。でないと、その減らないお口にチャックしちゃうんだから」


「お前にしては珍しく、随分可愛い言い回しだな」


 使い古された言い回しでもある。

 お口にチャックって。


「もちろん、物理的な意味でね」


 そう言って千歳が取り出したのは、すぐそばに置いてあった裁縫セットーーーの中にある、針と糸だった。既に穴に通してあり、ご丁寧に玉結びまでされている。


「いやいやいやいや怖い怖い怖い! お前、僕の口に何をする気だよ!」


「何って、だからお口にチャックを」


「そんな猟奇的な方法で僕の口を塞ぐな! そんなことしなくても、ちゃんと黙るよ! だから、早くその針と糸を仕舞え! いや、仕舞ってください千歳さん!」


 僕の必死の叫びが通じたわけではないだろうが、千歳は持っていた針を裁縫セットに戻した。残念がるような、軽いため息が聞こえてきたのは気のせいということにしておこう。


「はぁ……」


 緊張が解け、深いため息が思わず漏れてしまった。かといって一度切れた集中力がすぐに戻るはずもなく、勉強再開も後回しに、僕は目の前の千歳を見やった。


「………」


 ーーーこうして黙っているところを見ると、決して本人には言わないけれど、やっぱり美少女、と言えなくもない。長く艶やかな黒髪に、これまたえらく整った顔立ち。普段は抜けるように白い肌は、夏の暑さからか若干紅潮している。瞬きをする度に揺れる長い睫毛は、見る者の心まで揺さぶってくる。

 だがしかし、そんな完璧な外見のイメージを跡形もなくぶち壊すほどの中身を、僕の幼馴染は有しているのである。


「……前方から不躾な視線を感じるんだけど、ちゃんと閲覧許可は取ったのかしら?」


「ただお前を見つめることにすら、僕には許可が必要なのか」


 ーーーそう、先のやり取りから既にお気づきの方もいるだろうが、僕の幼馴染は超がつくほどの毒舌家である。綺麗な薔薇には棘がある、なんて言葉があるが、こいつの場合は棘なんて生易しいもんじゃあない。例えて言うなら、めちゃめちゃ綺麗な薔薇を摘みに行こうとしたら、その下に地雷が埋まっており、薔薇の元にすら辿り着けず、木っ端微塵という感じだ。例えがわかりづらくて申し訳ないが、まぁ要するに、切り傷どころでは済まされない、致命傷、あるいは即死レベルということである。


 確か、こいつがこんなに攻撃的な性格になり始めたのは、中学生の頃だったか。当時は一種の中二病かと思ってあまり気に留めていなかったが、高校生になった今も続いているとなれば、これはもはや真性である。

 それでもこうして付き合いをやめないのはーーーーまぁ、腐れ縁だから、だ。それ以上でも、それ以下でもない。


「……なに?」


 なおガン見をやめない僕が気に障ったのか、千歳が若干の怒気を滲ませて聞いてきた。


「……いや、千歳も昔は可愛かったのになぁって思って」


「昔は、が余計よ、一樹」


「それ、意味合い的には大して変わってないぞ」


 どちらにしろ過去形である。


「そんなことはいいから、さっさと勉強に戻りなさい。お昼までにあと5ページは進ませたいんだから」


 自分の人間性を『そんなこと』で済ませる千歳。ちなみに、千歳の方はテスト勉強ではなく、際限のない受験勉強をしているので、あと5ページというのは僕の方のことだ。

 直近の目標である夏休み明けのテストから逆算して、全範囲を網羅できるよう千歳が計画を立ててくれたので、1日分のノルマが決められているのである。


 ……自分の勉強をしながらも、そして酷いことを言いながらも、それでも僕の分のスケジュール管理までしてくれているので、あまり文句が言えないのが辛いところだ。勉強できない奴は、まず勉強の計画すら満足に立てられないからな。

 とすると、こうやって勉強会を開いているのも、ただ単に勉強を教えるためというだけでなく、僕がサボらないか監視する目的もあるのかもしれない。……ていうか、こいつの性格上、そっちの目的の方が強い気がする。


 そう思うと、これ以上続けると流石に千歳が怖いので、僕は参考書とノートに向き合い、再び勉強を始めた。公式を覚え直し、ひたすらに計算問題を解いていく。

 しばらくの間、カリカリ、カリカリ、と2人分のシャーペンの音だけが響く時間が続いた。不思議と、それはどこか心地よい音色だった。集中力も自然と上がっていく。


 そのまま1時間くらいが経過し、今日のノルマまであと2ページに差し掛かったところで、僕は手を止め、一度大きく伸びをした。長い時間前傾姿勢でいたせいで、伸ばすと背中から小気味よい音がする。


「あー、疲れたー」


「お疲れ様」


 テーブルに突っ伏した頭の上から、労いの言葉をかけられた。視線を向ければ、千歳が頬杖をついて僕の顔を見つめていた。その顔には柔らかな微笑を浮かべている。何だか照れ臭くなって目を逸らすと、千歳の手元のノートは閉じられていた。


「こっちは午前中のノルマは終わったわ。あなたも、少し休んだら再開しなさいな」


 前言撤回したくなるほど、いや、こう言っちゃあ申し訳ないが、少々気味が悪いほど優しげな千歳がいた。何だこれ、あまりに疲れすぎて、幻覚でも見ているのか?


「1時間も集中できるなんてすごいじゃない。今までの最高記録、2分に比べれば随分成長したわ、感涙ものね」


「あ、良かった。幻覚なんかじゃなかったわ」


 ものすごく貴重な笑顔で何言ってくれてんだこいつ。

 そして、自分の平常性を、幼馴染の毒舌性で判断することになるとはこれいかに。


「つーか改めて思ったけど、僕って本当にダメダメなんだな。こんな計算問題、お前なら1時間どころか、ものの数分で解いちゃうんだろうに」


「計算問題なんてのは、解き方の法則さえわかればお茶の子さいさいよ」


「ほーん」


 そんなもんなのかねぇ。頭の良い奴の考えはよくわからん。


「まぁ、馬鹿なあなたにわかれと言う方が、酷な話よね」


「一言余計だ」


 確かに、千歳から見れば僕は馬鹿なのかもしれないが、ていうか間違いなく馬鹿なのだが、実際にはっきりと言われると結構傷つく。


「それにしても、馬鹿って、なんで『馬』と『鹿』なんだろうな。別に馬と鹿が頭の弱い動物の代表格ってわけでもないだろうに」


「あら、自分の名前の由来くらい知っていないと駄目よ。親御さんに教えてもらったら?」


「僕の名前は馬鹿じゃねぇよ。一樹だ、一樹」


 お前もさっきまで呼んでたじゃねぇか。


「そうだったかしら。ごめんなさいね。ほら、私って、都合の悪い記憶は瞬時に消し去ることができるから」


「それはただの嫌な奴だ」


 随分と都合のいい記憶能力をお持ちのようだった。


「さぁ、これで息抜きにはなったでしょう。私は昼食を作ってくるから、あと2ページ、さっさと終わらせてしまいなさい」


「へーい」


 僕の気の抜けた返事を聞き届けると、千歳は部屋を出て行った。


「……つーか、千歳の奴、さらっと僕への暴言を息抜きとか言ってたな」


 息が抜けるどころか、軽く息が止まるほどのこの仕打ち。ーーーーそれでも、あの幼馴染とのやり取りを、雑談をどこか楽しいと感じてしまうのは、別に僕がマゾだからでは決してない。


「……さて、さっさと終わらせるか。あいつが戻ってきた時に終わってなかったら、また何を言われるかわかったもんじゃない」


 誰に聞かれることもない独り言を呟き、僕は三度シャーペンを握る。カリカリ、カリカリ、と、ひたすらに計算式を羅列していく。


 今度は僕のソロパート。


 階下からは、まるでそんな僕の背中を押すがごとく、透き通った鼻歌が聞こえてくる。

 そこに覆い被さるように、一際大きく蝉たちが鳴いた。


 蝉の一生は、もう終わりなのかもしれないけれど。



 ーーー僕の夏休みは、まだ始まったばかりである。

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