好一対ー伍 滝の音
※
「白い娘はきっと恋をしたのね」
その夜、小町は夢路にてそういった。
ここはふしぎな場所である。あるときは夜闇一色かと思えば、またあるときはいまのように欠けた月がぽっかりと浮いている。
対するは業平。
おのれの袖をばさりとうしろに払い、胡座をかく。その膝に肘を置き、頬杖をつき問うた。
「恋?」
と。
「あの黒き獣に」
「まさか」
「あら、百戦錬磨のあなたがよもやそんなことをおっしゃるなんて。そのまさか、が起こるのが恋ではなくて?」
「…………しかし獣だよ」
──でも、あるかもしれない。
業平は閉口した。
「……恋」
素敵だったわ、と脈絡なく話をすすめる小町に、なにが──とは聞かない。
業平は無言のまま続きをうながした。
「八郎さまたちのご家族。きっとよほどに良い恋をしたのね、ゆきさんも八郎さまのお父上も、とっても良いお顔をしてらした」
「そんなことは分からないよ。人は偽るものだから」
「いやだわ、偽りの気持ちであのお顔は作れますまい。女はとかく真偽のほどには気がつくものです」
「そうかな。まあ、あの夫婦にかぎっていえばわからぬでもないがね」
「わたくしには」
といった小町の声がわずかにくもる。
「あの家族は眩しすぎるわ」
「どうして」
「明るくてやさしくて、まるで世の穢れを知らぬかのよう──。あの家族を見るにつけ、わたくしはおのれの生涯で大切な人と愛を育むことのよろこびを、知らぬまま終わってしまったのだなぁと。その選択をしていれば、これほどのあたたかい家族をもつことができたのでは、と……思ってしまう。だめね、女って」
後悔はないはずなのに、と小町はわらう。
(また見栄を)
と、業平も微笑した。
いつもそうだ。
彼女はいつも、もろく繊細なその心を必死に隠して強がるのだ。そこが彼女のかわいいところでもあり、男を寄せ付けぬところでもある。
いい加減、取っ払ってやらねばなるまい。
「なにをいう。小町」
とたしなめるように業平はいった。
『滝の音は たえて久しく なりぬれど
なこそながれて なを聞こへけれ』
──言霊。
和歌をきき、小町はハッと息を呑む。
「私はね、この和歌こそ我ら人間の至るべきところだと思う。あの白い娘の話を思い出してごらんよ」
「…………」
「白地蔵の娘も、私たちのような詠み人も。この世から去って久しいというのに──いまなおこうして皆に語り継がれ愛されている。これのなんとすごいことだろうね」
業平は小町の真白な手をとった。
とくに意味はない。が、身体などとうにないはずの互いの手にぬくもりを感じる。
「歌人冥利に尽きるというものじゃないか」
「…………」
「栄枯盛衰は人の世の常。誰もがみな滅びゆくものだ。そんな世のなかで、──君は和歌とともにこれほど名を残した」
絶世の美女、小野小町。
女として、歌人として、これほどまでに長いこと名を、そして和歌を残した者がいただろうか。
小町はぐっと唇を噛みしめる。
「君はおのれの生涯において、女として一片の後悔を抱いたという。けれど、──私は思うよ。君がその道を歩まずに歌人として生きてきたからこそ、君の和歌が生まれ……その和歌によって多くの人が共感し癒された」
「…………業平さま」
「やさしさを知る人が増えれば、あのような家族がごまんと生み出される。君が選んだのは、やさしい家族をひとつつくるのではなく、百も二百もつくりだす道だった」
本心からくる言葉であった。
その心は伝わった。褒めちぎられ、照れたのだろう。小町はすっかりちいさくなってしまって両袖で顔を隠している。
「ははは。おいおい」
そんな顔をされるとこちらも照れる──と業平は頭を掻いた。そして空気を変えるかのごとく、おのれの膝をパンと叩く。
「と、申しはしたがね……せっかくの機会だ。思いきり恋をなさい」
「え?」
「此岸人として君は使命を果たしたのだから、彼岸人となったいま、できなかったことをしてみるのもまた一興。あの男はあれでなかなか思慮深い男のようだ、私は応援するよ。なあに、しょせんこの世は煩悩の夢。夢ならば夢として思う存分に動けばいいさ」
「…………」
夢路の月が、一段と輝く。
小町はぼうとその月を眺めていたけれど、やがて頬をゆるめた。
「──おもうさまが、あなたをあの場に連れていった意味がわかったような気がします」
「そう?」
「ええ」
稀代の歌人──在原業平。
彼のくちびるがつむぐ言の葉は、どれほど耳をふさいでも心にするりと入り込む。
小町は胸のうちが軽くなったことに気づく。
「ありがとう、業平さま」
「どうということはないさ」
「けれど、また叶わぬ恋となるのね……」
「結構けっこう! この世のすべての恋心が成就する世界ならば、これほど心揺れる和歌は残ってはいまい。はりきって砕けておいで!」
「……あなたの、そういうところがキライなのよ!」
一見すれば。
好一対の男女として、数々の噂もされたこのふたりである。──しかしこの夢路のなか。
彼らはまるで童心にかえったかのごとく、じゃれつき、いつまでも笑い合っていた。
※ ※ ※
──滝の流れる水音は、渇れて
聞こえなくなってから長く時が経つけれど
その評判は世間に流れ伝わって
いまなお語り継がれている。──
第五十五番 大納言公任
大覚寺に人々が多く参じられ、
かつてそこに流れていた
古い滝について詠める。
──。
────。
「ゆきとこうして晩酌するのも、久しぶりだ」
夜も更けた刑部家。
子どもたちが寝静まったころ、縁側に腰かけて、股のあいだに文次郎を挟みながら日本酒をひと口。
浩太郎が満足げに息をつく。
「浩太郎さんったらぜんぜん帰って来いひんのやもん」
盆に徳利を載せたゆきがとなりに腰を下ろした。つまみは小田原から取り寄せたさつま揚げといかの刺身である。
「だって片道で十四時間だよ。いまの時代はテレビ電話もあるし、腰も重くなるって」
「……世の中が便利になるいうんも考えものやわ」
「それに君、あの高村先生とよく呑んでるんだって? 思った以上にええ男で焦ったわ」
「なにいうてはんのん。八郎の方がずうっと懐いてますよ、高村先生には」
「そないにええ先生なんか」
「それはもう。八郎だけやのうて、環奈ちゃんの事情も環奈ちゃんから話してたみたい。小学校のころから知ってるって──あの人、ホンマに話して知れば知るほどふしぎな人でね」
「ゆき」
浩太郎の声が尖った。
タン、と猪口を盆に置いて、となりに座るゆきに身体を寄せる。
「…………」
「あ。──妬いた?」
「…………」
「ふふふっごめんなさい」
ちょっとわざと、と笑うゆき。
このォ、と浩太郎は彼女に全体重を乗せてじゃれついた。股ぐらにはさまってうとうとしていた文次郎は、浩太郎の体勢が変わったことであわてて飛び起きると、居間の方へ逃げてゆく。
「浩太郎さん」
「うん」
「おかえりなさい」
「…………ただいま」
夜闇にまぎれてふたりは口付けた。
とろりとまぶたを落とすゆきの頬を撫で、
「そうやって僕の気持ちをあんまりもてあそぶと」
浩太郎はささやいた。
「いっそドイツまで連れてくよ」
と。
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