黒犬ー弐 師景
※
和本の作者について──。
お前たちもええ加減に知らんといかんわな。
ちいっと長くなるが、寝るなよ環奈。
承和六年のことやった。
──西暦でいうと八三九年、そう。まだ千年もいかぬときのことや。
遣唐使事業に対して、俺が厭味ったらしゅう風刺する漢詩を読んでな。上皇を怒らせてしもたことがあった。え?
ふふ、せやで。上皇さんに喧嘩売ったんや。
まあ案の定やっこさんもドタマにきた、と。そんでもって隠岐国──いまの隠岐の島やな。そこへ流罪に処された。
なんや、流罪も知らんのんか?
簡単にいうてしまえば、島流し。
だァれもおらん遠いところでひとり、自分の力で生きていかなあかんのや。まあ、とはいうても島民もおるっちゃおるで、まったくのひとりちゅうわけでもないけれど。
ほんでも心細うて、心細うて──そんなとき、どっから紛れたか、俺の住むあばら家にいつの間にか黒犬が棲みついとってな。
そう、犬が入り込めるほどひどいボロ屋やった。
都におったときやったら、野良の子どもなんぞ気にも留めんかったろうが……そのころは世の無常さに鬱々としとったこともあってな、なんとなくいっしょに暮らすようになった。
せや。それが、
玄影はいつも俺のあとをひっついて回っとった。──。
まだ子犬やっちゅうのにタフなやつでよ。
翌年に赦免がおりて帰京するときも、玄影はながい船旅をともにしたもんや。俺もいつしかアイツが、本当の家族のようにかわいくなってしもうた。
あのころ。
俺はすでに病がちで……あと幾年生きられるかっちゅうときやってな。
せやからいつか俺が死んだ後も、玄影が困ることのないように──野鳥の捕り方も教えたし、毒草かどうかの見分けやって仕込んだもんや。
うん、アイツはほんまに利口な犬やった。
────。
ほんまになんも知らんねんな、お前たち──巨勢派として宮廷画家と腕をならした男やで。
生前、俺はたまたま、彼と会う機会があって。
ウン……。
玄影が彼の邸に入っちまったもんで、連れ戻しに行ったんや。そこで彼の描く絵を見せてもろうたことがある。
どうにも不思議な絵を描く男やった。
どう不思議かっちゅーと、目がない。
え?
ちゃうわい、絵に、目を描きいれんのだ。たとえばそのとき描いておったんは馬の絵やったが、それにもまた目がなかった。
「目がございませんな」
「描き入れると、飛び出してきますから」
「……はあ」
「お疑いであれば夜にご覧なさい。瞳を描きいれてお待ちしております」
──ってな会話をした。
仕方ないから夜にまた彼の邸に行ったさ。ふふ、おうとも。玄影も当然のようについてきた。
どうしたもんかと思いつつ襖を開けたらな、そこからパッと飛び出してきた。
玄影が吠えるもんで、月明かりをたよりにブツを確認したらよ。
……馬。
そう、馬やった。
田畑の上を駆け回ってはしゃいどんねん。
はっははは!
うん、なかの絵を見たとも。なーんもおらんやった。右下に残された彼の署名を、なぜかいまでも覚えてる──。
放っとけば戻ります、なんていうててんからよ。玄影もいっしょになって遊んどるし、そのまま夜明けを待ったんや。
────。
寝て起きたら朝やった。
絵を確認したら、たしかに馬は絵の中に存在しとってん。けどその脚は泥で汚れてもうてる、と。
そんときにようやっと実感湧いて、
──巨勢金剛は神の筆をとる人や、と思うた。
彼は、馬の目を石で削り始めよった。
「動いておる馬の瞳は抉り出せませぬ。これ以上田畑を荒らされても困りますからな」
なんて言うもんやさかいに、そらそうやと思うたもんや。ほんで俺も気になって聞いてもうた。
「そんな筆、とれるようになるものですか」
「とって如何にします」
「うん?」
「とれたところで──こうして瞳を削るはむなしいもの。冥府通いとうわさの立つ篁さまならば、もしやとは思いますが。それでも」
やめたほうがよろしい──。
て言うたきり、それでおわった。
うん、おわり。
どうしたかって?
いや、そんなもんかと思うたからよ。ただそうですかと答えた。それだけや。
──それが、俺と金剛がした最期の会話。
おう、そこから数年ぽっちで、俺は死んだ。
……────。
続きがあんねん。
ここからは俺が冥官篁として見てきた話や。
その年、玄影は十二歳になったんかな。
玄影もそれからまもなく、死んだのやけども、それでも死ぬまでの数ヶ月をその金剛のもとで過ごしたらしい。
何度もいうが、玄影は、それはそれはお利口さんやったもんで。
どこか人間のことばを理解してる節があった。
お前たちも文次郎を見て、思うときがあるやろう。犬ってのはなかなかどうして──人の気持ちを感じられる生き物らしいな。
世間にてうわさの立つ俺への誹謗を耳にいれまいと、金剛が気を利かせて囲うてくれたようやった。
うん?
なに、贔屓者が死んだだの、よもや落ち目豪族だのと、やいのやいのいう輩がおったのよ。
…………。
そうさなァ。
俺の死後は、小野氏も衰亡の途をたどった。
なぜかって──簡単にいうてしまえば、時の流れやろうな。
──山の頂上は空気が薄かろう?
花も草も生えぬ、それは息苦しいところだとも。
てっぺんというのはそう長く生きてゆけるところじゃァない。
むしろすこし下がったほうが草花は育つし水も湧く。人生もおなじこと。どれほど栄華を誇ったところで、それが永遠につづくかと言われればそれは無理な話や。
かつて先祖が築いた栄華──それが、ちょうどしおれてくるころだっただけのことよ。
────。
それで、だ。
玄影がまもなく死んで、幾年月が流れたころ。京の都、中原という家に双子の兄弟が生まれた。
兄の
おお、さすがは環奈。中原師直を知ってるとは。
中原氏とは当時の……うーん。基本的学問であった明経道というものを教えていた先生一家でな。
かくいう兄の師直も、明経博士として出世している。弟は──まったく別の人生を歩んでしまうんだが。
うん?
ああ、知らんのも無理ない。
師直が双子だったことは、記録に残ってへん。師景の存在は、公文書からは消されてんねん。
なんでって……双子は忌子として、片方が殺されてまうことが多かったからな。
──師景もおんなじ。
産まれてすぐに『縁起がわるい』と野に捨てられた、かわいそうな子ォやってん。ただほかの双子とひとつ違うのは、そのときに起こった怪奇によって……おそらくは死ぬよりつらい道に立たされたっちゅうことやろうな。
突如、天から光が降り落ちて赤子の師景に飛び込んだ──と。
嘘くさい?
ハッハッハ、まあ柊介はそう思うよな。
しかしこれがまた、嘘のようなホントの話。そんなことがあって、殺すのも忍びないと師景は死ぬのを免れたわけや。その不思議さを証明するかのように彼は、それはそれは不思議なおとこやった。
師景は幼いころから、周りが理解できひんことをよくいうもんやった。
動物と会話したり、人の死期を当てたり、急に人が変わったかのように粗暴な態度で周囲を傷つけたり……そんなもんで忌子、鬼子、光の子──いろんなこと言われてな。蔵のなかに閉じ込められて外界との接触を絶たせたり、腫れ物にさわるかのように接したりと、生活はそらァひどかった。
ちょっと人とちがうだけやったのにな。
ウン、……そのとおり。そない生活してたら嫌でも性格歪むわいな。
対して師直はたいそう人がよかった。周りのサポートが手厚くて、順調に出世して……。
な。
双子とはいえ、境遇は天と地のごとくかけ離れとった。
あるとき。
師景の母が死んだ。
……いや、そう──殺した。自分の手で。
きっかけは些細なことやった。
母親がたまたま、師景の前で貴族のだれかの悪口をこぼしただけのこと。そんなもんはみんな言うてることやで。いまさらそないに怒ることでもなかった、はずなのに。
師景は自分でも抑えきらんほどに頭に血がのぼって、母親を喰い殺してしもうたんや。
ああ、喰い殺した。──まるで獣のようにな。
いつしか、師景は気付いててん。
自分のなかにはもうひとりの自分がいて、それはおよそ人ではないことを。
いつだって冷静な自分と激情する自分がいることを──。
そのまま師景は蔵を飛び出して、夜闇のなか、黒く薄汚れた身体で、四つん這いに駆けた。
ずいぶんと長く駆けるうち、その身体からもやが立ち、もうひとりの師景があらわれた。
ふふふっ。
柊介、顔に出るヤツやなお前は。
ありえへん?
むかしはそんなこともまれにあったもんや。……まれにな。
──ああ、そうや。
師景もアッとした。これが自分のなかにいてたもうひとりの自分や、と。
そのとき見た分身の姿……なんやったとおもう?
黒い獣や。
琥珀色の瞳に全身黒い毛で包まれた、胴の長い獣。
フフ。
そうやな、まるで──玄影みたいな。
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