黒犬
黒犬ー壱 玄影
(お前なんか、消えてしまえばいいのに)
──かえして。
(みんなおまえが嫌いだよ)
……うるさい──かえして。
──” ”をかえして!
(ハルカゲはわたさないよ)
──返して!
(だめだよ)
…………。
(…………)
──返して。
みんなかえして!
(ならばお前が)
熱ッ──。
( )
「アッ」
荒い息。
汗ばむ額。
がちがちとふるえる歯。
(…………)
ワン。
と、文次郎が上機嫌に顔を寄せてくる。
「……もんじろ」
手を伸ばす。指先までふるえている。
しっかりと文次郎を抱きかかえると、その体温が環奈の気持ちを静めた。
「もんじろう……」
今日は、日曜日である。
※
高村居宅。
とはいっても古い廃屋なのであるが、今日はそのなかに八郎と柊介、そして環奈が遊びに来ていた。
──散歩中だった文次郎も連れて。
「お前たちも好き者やな、こないくつろげへんところにズカズカと」
呆れたように高村が頭を掻いた。そのかたわらで、柊介がソファで弾んでいる。
「わりかしちゃんとしとるやん、ソファあるし」
「絨毯もフカフカやで。先生これ新調しはったんスか?」
と、八郎は絨毯の上にごろりと転がった。そこに転がっていたために場所を追いやられた文次郎が、八郎めがけて体当たりをする。
まったくこの家の主よりもよほどくつろいでいるのだから呆れたものである。
「んなわけあるか、ここにそのままあったんや。ほれ環奈、お前もどっか座り」
「フワーァ。ねむねむ……あんまし寝られんかったナ」
「なんや、お前が寝不足なんざ珍しいやないか」
「ウーン。変な夢見ちった、最近よくあるの。途中で起きちゃうの」
もんじろとサンポする夢、といって柊介のとなりに腰かける。その足元に文次郎が身体をくねらせて丸まり、瞼をとじた。
高村は、その頭を優しくなでる。
「文次郎はホンマ環奈になついとるなァ」
「おかしない? 飼い主おれやねんで」
「俺、コイツとすこししかいっしょに暮らしてへんけど、ハチより好かれとる自信あるわ」
「ムカつくわァ。おれかてこーんなに」
愛してんのに、と八郎がその背に顔を埋めた。しかしつぎの瞬間、穏やかに眠っていた文次郎の顔は一変して険しく歪む。しまいには起き出して環奈の足とソファの間に移動してしまった。
「あーあ、嫌われた」
「なんやねんこいつ!」
「ハッハッハ、犬ってのはけっこう利口やもんな」
「むっちゃん、ワンちゃん飼ってたことある?」
と、環奈が足先で文次郎をいじりながら問うた。
「ああ──むかし黒犬を拾って、飼ってたことがある」
「黒ワンちゃん!」
「へえ、先生も生き物を愛でるっちゅー心があんねんな」
柊介がからかう。しかしその挑発は受けずに高村は環奈の頭上に視線をうつした。
「なにをいうか。俺は慈父だったろう、な」
小町──というや、突然彼女があらわれた。
突然の出現に驚いた柊介は、ソファの端で石のように固まっている。
父親に求められた同意には返さず、小町は遠い目をして「なつかしい」とつぶやいた。
「……あの黒犬、おもうさまにとってもなついていたわね。おもうさまが亡くなられてからすぐ、あとを追うように死んでしまったのだっけ」
「名前なんてつけたんスか?」
「たしか、玄影──と」
「ハルカゲ?」
身をかがめ、足の間から文次郎を覗いていた環奈がパッと顔をあげた。
文次郎の耳がピクリとうごく。
「そう、むかしは街灯なんぞなかったゆえに、黒犬が暗い影に入りよると見えんでな。琥珀色の眼だけが闇にぼうと浮かぶのがおかしゅうて──黒い影という意で、玄影とつけたんやった」
「へえ、なに犬?」
「さあ──ずいぶんと胴の長う犬やったが、文次郎より足は長かったな」
「ハハハ、言われとるでもんじ。短足やってよ」
「ウー」
「なんでおれが話しかけると唸るねん!」
「たぶん、お前かて短足のくせによう言わんわ、て言うとるねんな」
「コノヤロォ」
と、八郎が文次郎の頭を撫でくりまわす。
柊介や小町はケタケタと笑っていたが、環奈だけはどこか浮かない。
高村は首をかしげた。
「環奈、眠いねんやったらソファで寝とってもええぞ」
「……ウン、でも寝ちゃうとまた夢見るから」
「なんてこった」
環奈が寝たくない、とはめずらしい。
三度の飯より睡眠好きの彼女を知る高村にとって、それはこの上なく重大事項である。
「怖い夢なんか」
「うん……ううん、こわくはないけど」
「けど?」
柊介がうながす。環奈は眉を下げて文次郎を抱き上げた。
「夢、おんなの子が出てくるの。その子が文次郎をどっかに連れてっちゃうのネ──」
おとなしく環奈の膝に落ち着いた文次郎は、耳をピクピクと動かしている。うすぼんやりと環奈の話を聞いているのかもしれない。
「でもその子がさがしてるの、たぶんもんじろじゃないのヨ」
環奈は文次郎の頭を撫でた。
「お名前、ずーっとまちがってるの呼ぶんだから」
「ハルカゲ」
高村がつぶやく。
「そう呼ぶんか、その子は」
「…………ウン」
とうなずいた環奈に、八郎と柊介は顔を見合わせる。それから小町を見て、最後に高村を見つめた。彼は口元を覆い隠すように頬杖をついている。
「おんなの子──それはまっしろの髪に、夢のなかの私と似たような服を着てるとか」
「そうそう。そーよ、むっちゃんスゴいね。……お名前しらないけど、あっついの」
「あついってなにが、テンションが?」
八郎はのんきに聞いた。すると環奈は首を横に振って「からだが」といった。
「からだが?」
「あっつくって、かんな、火傷しちゃって。文次郎のこと守れんかったのネ──」
といって、とうとう文次郎の背に突っ伏してしまった。泣いてはいない、が、ひどく落ち込んでいるのは明白だった。
「ほんでもそれ、夢なんやろ!」
と八郎は慌てていったが、しかし夢というのは満更バカにもできまい。事実、こうして高村と話している今とて、夢がすべてのはじまりなのだから。
柊介は手のひらを上にかざした。
「さわったら火傷するくらい熱い子どもて、もはや人間とちゃうやんけ」
「せや。人間とちゃうわいな」
高村がぽつりとこぼした。
一同の視線が彼に向く。
「おもうさま、知ってるの?」
「環奈は一度会うてるぞ」
「エッ──」
と環奈が文次郎の背から顔をあげる。その顔は文次郎の毛にまみれた。
「十三年前、八郎がいるといって──おまえを御蓋山の禁足地に誘った娘がおったろ。たぶんおなじ子ども」
「…………」
「それは、いったいなんなのです」
ひやりと昏い廃屋のなか、小町が問う。
高村は自嘲気味に微笑する。
「人を燃した木屑でつくった、式神や」
その声はゾッとするほど穏やかだった。
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