序ー参 月明
──どうせ教授の贔屓でしょ。若い男らしいし。
──ちょっとかわいいからって人生ナメてるよね。
──あいつ頭おかしいじゃん。いなくなってよかったよ。
──くすくす。くすくす。……
「刑部さん、期待してるわよ」
と、老齢の学科主任はにこやかにわらった。
准教授からの引き抜きによりキャンパスを移動することとなった刑部環奈は、昼すぎに引っ越しを控えるなか、教授陣の談話室となっている合同研究室に訪問していた。
「ある種、浜崎先生のわがままだからちょっと申し訳ないけどね。それでもここよりはおもしろい勉強ができるんじゃないかな。浜崎先生はとっても面倒見のいい人だそうだから」
「ハマサキせんせー」
「ええ。准教授にしてはとても若いんだけど、教育者としても立派な人ですから。安心なさい」
「さみしくなるねェ。がんばれよ」
定年間際の教授も部屋の奥からエールをおくる。
環奈は態度こそ年相応とは言えぬものだが、なによりも素直で明るく一生懸命な性格から、とくに壮年の教授陣には好かれていた。
「あい!」
と元気よくうなずいてから「お世話になりマシタ」と環奈は頭を下げる。
それからはすぐに頭をあげて、失礼しまぁす、と曇りひとつない笑顔であいさつをしたのち、合同研究室を後にした。
大学寮に戻り、荷物をまとめる。
もともと荷物の量はそれほど多くない。まして、大学には別れを惜しむような友人がいるわけでもない。環奈は最後の段ボールにガムテープを貼りつけてから、つっかけを履いて外に出た。
向かいのマンションの一室に向かう。呼び鈴を鳴らす。インターホンの向こうから男の声がしたので「かんなだヨ」と言うと、まもなく玄関扉が開いた。
「なんや珍しい。おまえか」
と顔を出したのは、石田力哉という青年である。
数年前に専門学校を卒業後、就職のため奈良から東京へ出てきたという、環奈の先輩であり幼馴染でもある。彼の実家が刑部本家の近くにあるため、幼いころは環奈や八郎とともによく遊んだ仲だった。
昨年、環奈が大学進学にともなって東京へ行くと言ったとき、この力哉がなにかと面倒を見てくれたのだ。
「せや、今日帰るんやったか。午後から仕事なもんで見送り行かれへん。わるいな」
「ダイジョブ。これ、アヤちゃんに渡してもらおうとおもって来たのヨ」
「──おまえ、気ィ利くようなったな」
力哉は嬉しそうにわらって、環奈の頭をぐしゃりと撫でた。アヤちゃん、とは力哉が懸想する女性のことである。
なにかと環奈をダシに彼女に会いに行くので、色恋に疎い環奈でさえも気を遣うほどであった。
おまえ、と力哉は環奈を見下ろした。
「奈良帰るんはええけど、どこに帰るんや。ハチんとこに行くんか」
「ウン」
「ほんならええ。……俺もまた夏にはそっち帰るさかい、そんときは連絡するわ」
「あーい」
と、環奈は気の抜けた返事をした。わかっているのかいないのか──力哉は力こぶをつくって厳めしく眉を顰める。
「おまえボケッとしとるからなぁ──向こうでイヤなこと言うてくるやつおったら、俺に言えよ。まとめて夏に帰ったときにボコったるさかいな」
「ボーリョクいけないんだァ。アヤちゃんに嫌われちゃうよ」
「それは言わんお約束や」
環奈はすこし寂しそうに眉を下げる。
「そんでもりーや、お電話たくさんするのネ。かんなのこと忘れないでネ」
「アホ、忘れてたまるか。ただでさえお前がおらんくなったら口実が減ってまうねんで。せいぜいネタ提供頼まァ」
いっそ清々しい下心である。
うふふ、と環奈はわらった。彼女の笑顔は周りが見惚れるほど甘く柔い。
「環奈」
「ウン?」
力哉は、一瞬、視線をさまよわせてから、
「──ハチとシュウによろしく言うとけ」
とだけ言った。
まもなく引っ越し業者が来る時間である。わかった、とうなずいて、環奈は力哉のマンションを後にした。
※
その後、ひとり新幹線にて奈良へゆく。
刑部本家への東京土産をつまみながら、環奈はいつの間にか眠っていた。
──。
────。
夢のなか。
環奈は、草原の真中にて、遠く山裾に昇る月を見上げている。
見たことも、来たこともない草原ながら、環奈は旧く親しんだ場所であるかのような錯覚に陥った。
『あまの原 ふりさけみれば 春日なる
みかさの山に いでし月かも』
背後に聞こえた短歌。
くいと首をねじると、後ろにひとりの男が立っている。狩衣をまとい烏帽子を高く立てるその様相は、まるで平安貴族のごとき佇まいである。
その手には、和紙が一枚。
彼はそれを空に掲げた。
「月は」
低く通る声である。
「なにゆえか、遠い故郷を思い出す」
男は遠望の月を見つめて瞳を細めた。
草原に座った環奈が、隣をたたく。
「座って、ドーゾ」
「────」
男はだまって指定された場所に腰を下ろした。
これは夢である。
が、ただの夢でもない。
「見つけた?」
「いんや、お前さんの夢はなかなか広うての」
「ふうん」
環奈は、いつの間にか手元にあらわれた東京土産を、夢のなかでもつまんでいる。貴族然とした男は「まあいいさ」と草原に手足を投げ出した。
「この機会だ。もうひとりの夢路も探してみようかな」
「はっちゃん?」
いいなあ、と環奈は嬉しそうに肩を揺らした。
「環奈も行きたいのネ。はっちゃんの夢はきっと楽しいのよ。お花畑がいっぱいで、ワンちゃんもネコちゃんもいーっぱいなんだナ。きっとね……きっと」
「うん?」
「あったかくって、優しくて、とっても居心地のいいところなのヨ」
そして環奈も男とおなじく草原に身体を投げた。瞳を閉じて、深く、深く息を吐く。
「おかえり、のバショなの」
そして彼女は口を閉じた。
「…………」
男は、ふたたび月を見る。
月は霞がかってなお、山裾を柔く照らしている。
「何処に昇っても美しいもんだが──」
そして男は笑った。
「故郷から見ゆる月は、殊更に美しいものかな」
※ ※ ※
──天を仰ぎて遠望を眺むる。
あの月は、遠い昔春日にある三笠山に
昇っていたのと同じ月だろう。
嗚呼、ようやく帰れるのだなあ。──
第七番 阿倍仲麿
唐から倭国へ帰国の際、
明州の海辺にて送別の宴のなか、
明るくさし昇る月を観て、望郷の念を詠める。
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