壱の抄
夢路
夢路ー壱 わたの原
波が寄る。
ゆらり。ゆら。ゆら。──
寄せる白浪が舟を沖へとさそう。
八郎は、舟の上にいた。
──これは夢である。
虚無だった。
ただただ、すぎた時間を手繰ろうと水面を掻く。しかし波はそれをあざ笑い、舟を沖へと連れていく。
双眸から涙がこぼれた。
なにが悲しいのか──わからぬままに、八郎は四方を確認する。目に留まったのは一艘の釣り舟。舟の上には漁夫がいた。
助かった。
ホッと息を吐く。声をかけようとした矢先、漁夫は口を開いた。
『わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
ひとには告げよ あまの釣りぶね』
短歌、である。意味は知らない。
まばたきの間。
釣り舟がそばにきた。八郎は喉の奥をひきつらせる。
左目の下に傷がひとつ──。
漁夫の唇がうごく。
「────」
その刹那。
乗った舟が大きく揺れる。
アッと声をあげて八郎は、飛び起きた。
※
春休みが明けた。
今日から新学期だというに、寝覚めの悪い夢である。しかも夢のわりにはっきりと残っていて、瞳を閉じれば漁夫の顔が脳裏にちらつく。
見知らぬはずが、ひどく懐かしい気分にもなる顔だった──ような気もする。
「おっ、晴れた」
二階の自室。出窓から空を覗く。
夜中に突如降りだした雨はすっきりとあがって、眼下にひろがる裏庭には、雨風に耐えぬいた桜樹がつぼみをふるわせて開花のときを待っていた。
ワン、と犬の声がする。
桜樹の根本にウェルシュコーギー・ペンブロークが駆け込んできた。小学校のころ、母が知り合いからもらってきた犬で、名を文次郎という。
それを見て、
「あっ」
と八郎は出窓から離れた。
部屋をとびだし、階下に駆ける。風のように居間を抜けて縁側から裏庭に出た。
(せや、帰って来たんやッ)
息を切らして四方に目を配る。──いた。
桜樹の根本に、八郎の求めていた姿があった。
ひと房跳ねた前髪。
艶やかな飴色の髪とそれに映える絹肌、色素のうすい丸アーモンド型の瞳にさくらんぼのような唇、しなやかに伸びた手足──。
「もんじ、速いねえ!」
刑部環奈である。
きのう再会したときは、胸がいっぱいで直視できなかった。が、朝を迎えたいま、八郎は頬をゆるめて穴が開くほどに彼女を見つめる。
「かんちゃん」
たまらず、声をかけた。
文次郎を撫でまわす彼女が顔をあげる。
「アッ」
と花が咲いたように笑った。
「はっちゃん、おはよう」
グレーのスウェットに黒いTシャツを着た環奈は、今しがた散歩に行ってきたところのようだ。じゃれつく文次郎を連れて、八郎のもとに駆けてきた。
「めずらしく早起きやね。昨日の今日で疲れとらんけ?」
「もんじが起こしてくれたのヨ。でも、ぐっすり眠ったからダイジョブ!」
「せや学校、うちの高校の隣にある校舎やろ。附属やもんね、いっしょに行こな」
「そーね、そーね」
うふふと彼女が笑う。
縁側から「ご飯よ」と声がした。八郎の母がこちらを覗いている。
「はっちゃんママ、おはよう」
「おはよう。早うご飯食べて支度しんさい、八郎はあんた始業式やろ。ギリギリに行ったらいかんよ」
「うん。ほら文次郎、足洗うで。良かったなかんちゃんに散歩行ってもろて──」
「これから毎日行ったげるネ、もんじろ」
ワン、と文次郎は鳴いた。尻尾のない尻を勢いよく振る彼を無理矢理に抱っこして、八郎は慌ただしく彼の手足と腹を拭きあげた。
町内チャイムが八時を報せる。
悠長に朝飯を食べていた八郎が、
「あかん」
とわめいた。
「はよせんと、しゅうが来てまう!」
「わお。シュウくん一年ぶりなのネ」
と、環奈は呑気にソファの背もたれに首をもたげている。
彼女はすでに朝食から支度まですべて済ませているのだが、環奈を見つめるのに必死だった八郎はいまだ学ランすら羽織っていない。
あわてて飯をかっこむ息子を見て、母はため息をついた。
「あんたまた前髪ぴょこんて跳ねて──なんであんたたちはそう前髪が跳ねんのやろね。あ、せや。近いうちお花見やるて言うといてくれる? タケちゃんとかも誘ってええさかい」
「はいよッ。ごちそうさま!」
と、台所に食器を片して洗面所へ駆けた。
荒々しく歯を磨く八郎を横目に、母が環奈を見てにっこりと微笑んだ。
「環奈ちゃん、新しいお友達どんな子やろうね。仲良うなれたらええね」
「ウン! 楽しみヨ」
「環奈ちゃんはお人形さんみたいにかいらしいさかい、女の子は嫉妬してまうかもわからんわ。イヤなことされたらおばちゃんに言うんよ」
「ダイジョブよ、ダイジョブ」
ケタケタと環奈は笑っている。
学ランの袖に腕を通しながら八郎が「おれにも言うてや」と顔を覗かせた。そのとき。
縁側の方が騒がしくなった。文次郎が吠えているのだ。
「うるせェわ、アホ」
と外から声がしたのを聞いて、八郎は「あぶねェ」と息を吐く。
「また遅ェだなんだってどつかれるとこやった──かんちゃん行こう。しゅう来たで」
「しゅう」
というのは、八郎の幼馴染、有沢柊介のことである。
小学校から中学、高校とずっと同じ学校へ通う腐れ縁で、家も刑部家から歩いて五分とかからぬところのため、むかしからよく遊びに来ていた。
重ねて彼は、中学生のころにとある理由からこの家に下宿していたこともあって、いまでは家族ぐるみで親交が厚い友なのだった。
「なんでお前の前髪跳ねとんねや。いつも」
玄関から八郎が出てくるなり、柊介は不機嫌な顔で言った。
とはいえ別に怒っているわけではない。口が悪く、目つきが鋭いためか勘違いされやすいが、不機嫌なのは彼の通常運転なのである。
「うわ」
と八郎の後ろに視線を寄越した彼の眉根が、さらに寄った。
「ほんまにいてる」
「シュウくん久しぶりネー」
環奈は気にする素振りもなく、うれしそうに柊介の眉間に指を伸ばす。柊介はおもいきり顔をそむけてそれを回避した。
八郎はムッとした顔で柊介の背中をはたいた。
「珍獣みたいな言い方すんなよ。かんちゃん、こいつ照れとるだけやで、気にせんときや」
「アホか、テキトー言うな」
「テレんなって!」
「お前に言われるんがいっちゃんムカつくねん!」
なんやアホ、と悪態をつく柊介に環奈はケタケタとわらう。その笑い声が響いたか、家のなかから母の「コラッ」という怒声がした。
「遅刻すんで、早う行きんさい!」
三人は肩をすくめる。
そして、駅へと駆け出した。
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