弐の抄

光の君

光の君ー壱 再燃

 ぜったい京子ちゃんは好きになる、と春菜がぼやいた。

 松子の部屋で、ふたりだけのパジャマパーティの最中のことである。


「それはどっちに対して言うてんの。有沢が京子のことか、それとも逆?」

「どっちもあるけど、いまは逆──」

「え? 見ててわかるやん。京子の目、もうずいぶん前から有沢のこと好きって言うてるで」

「ああやっぱり!」

 と、クッションを自分の顔面に叩きつけた。どうやら春菜は、体育祭での柊介があまりにいい男だったために、いまさら惜しくなってしまったらしい。

 ただでさえ女のこういう勘は鋭いのだ。春菜は虚空を見つめてさめざめと泣いている。

「なんで別れたんやろ──あんなええ男ほかにいてる? いやいてへん」

「知らんがな。どこがええのん、あんな無気力ぶった似非一匹狼気取りの根暗」

「えっ松子、シュウのことそないボロクソに見てたん」

「いや別にいつも思てるわけでは──ほんでもぜったい女が幸せになれへんタイプやで。ま、高校生のころはああいう男に惹かれるんも分かるけどさ」

 という松子は、梅雨のためすっかりじめついた空気を払うように、手持ち扇風機を回している。

 クッションを顔に押し付ける春菜は、グスンと鼻をすすった。

「松子はええなぁ、モテるし」

「べつにモテへん。てかそれでなに、京子が有沢のこと好きなんが気に入らんの?」

「気に入らんとかちゃうねん。べつにもう春菜のもんちゃうしさ……ほんでもモヤモヤしてまうねん。どないしよ!」

 という春菜に、松子はふうんとつぶやく。

「てかマジでなんで別れたん」

「…………せやって、シュウさぁ」

「うん?」

「…………」

 そのまま彼女は押し黙った。

 よほどのひどい性癖でもあるのか──と邪推して、松子はそれ以上深く聞こうとはしなかった。

 もう寝よう、と松子が声をかけたとき、春菜はちいさくつぶやいた。

「シュウ、京子ちゃんに告白されたら付き合うんかなぁ」

 布団のなかで松子は苦笑する。

「もっかい告白したら?」

「……それは──……」

 こわいもん。

 その言葉を最後に、春菜は寝落ちたようだった。


 ※

 大勝利をおさめた体育祭から早二ヶ月。

 高村学級はクラスメイトの仲が良くなった。みな騒ぎ、遊び、叫び──教室はもはや動物園のようである。

 この時期の学生が控えるのは、中間考査。

 例にもれず、この白泉高等部も試験期間まで残り十日とさし迫った今日このごろであった。


「今日も最後までやかましいなこのクラスは」

 帰りのホームルーム。

 教室に一歩踏み入れた瞬間、高村は無表情でつぶやいた。

 なにやら不機嫌そうだ──と八郎は頬杖をつく手を下ろす。前のほうに座る生徒も気が付いたようで「先生どないしたんですかぁ」と担任の顔色をうかがっている。

 高村は出席簿を眺めながら、

「おまえら、試験勉強しとるんか?」

 といった。

「してませェん!」

 コンマ一秒の返事から、どっと笑い声があがる。

 箸が転げてもわらうお年ごろとはよく言ったものだが、高村としては頭が痛かった。なにが痛いって、彼らの危機感のなさである。

「四月にやった学力試験あったやろ。おまえらな、あれ結果どうなったとおもう?」

「そんなんやったっけ?」

「あ、ボロカスやったやつやわ」

「せやかてノー勉で臨んだやつやろ。無理やって!」

 と生徒たちはわらう。

 高村はパンッ、と出席簿をたたいた。

「平均四十三点」

 その声にとうとう怒気が含む。

「二学年のなかでこのクラス、だんとつのドベや」

「…………」

 ようやく生徒たちのなかに「ヤバい」という空気が漂ってきた。あの高村が本気で怒っている──と生徒たちは目で会話をする。

「秀才の滝沢がおるにもかかわらずこの体たらく。……お前ら体育祭で一位とったからって調子乗ってんちゃうぞ。中間考査まであと十日──もしもその試験でこのクラスの平均点が六十五点を越えたら、補習はなしにしたる」

「えっ」

「ただし越えへんかったら、中間後から夏休みまで補習時間を放課後一時間。とうぜん部活動なんざ行かせはせん。親の死に目やいうても帰さへんぞ」

「お、鬼やないか……!」

 クラス中であっという間の大ブーイングが巻き起こった。横暴だ、パワハラだ、などと口々にこぼす生徒の声など聞く耳持たず、高村は「しかし!」と声を張る。

 まるで鶴の一声である。

 生徒は高村に注目した。

「現在平均十八点のドベ中のドベが、選択科目を除く科目で平均五十点越えたら許したろう。どうや、悪ないはなしやろ」

「ドベ中のドベ──?」

「だれや」

「平均十八って脳みそノミか?」

 と口々にいい放つ生徒の視線が、自然とひとりに集まっていく。

「…………いや」

 磁石のように吸い寄せられる視線の先にいたターゲット。

「なんで俺やねん!」

 有沢柊介その人である。


 ────。

「薄情なやっちゃで」

 柊介はぼやいた。

 放課後、昇降口にて靴をはきかえる彼の顔は蒼白である。

「ついこの前まで、体育祭の英雄みたいに俺んこと持ち上げてからに、おつむの話になったとたんこれや」

「けど事実やんけ。おれも大概やけど、さすがに十八点はあかんわ」

「…………」

 八郎はケタケタと笑う。じとりと睨んだ柊介は、荒々しく下駄箱の扉を閉めた。

「まあまあ、賢い友人ふたりがおバカなお前らに勉強教えたるわいな。なんてったって平均七十五点の明夫と八十二点の武晴様やさかい」

「うるせえ選抜棄権者が」

「いつまで言うとんねん、くそ意地のわるい!」

「あー、ドベの有沢くんやないのぉ」

 四宮松子だ。

 武晴の背中からひょっこり顔を出して、けらけらとわらっている。

 その後ろには滝沢京子や仲宗根春菜、松田恵子もいた。先ほどまで携帯をいじっていたのに女子と合流するやいつの間にかしまっている明夫を武晴はじとりと睨みつける。

 一方で柊介は、ぐいと身をそって武晴のうしろにいる春菜を見た。

「てかおい仲宗根。お前かておんなじようなもんやろ」

「えっ、あ──春菜ね、ギリやばかってんけど。京子ちゃんに勉強教えてもろうたからセーフやった」

「ドーピングやないかしばくぞ」

「春菜が勉強教えたげよか!」

「馬鹿が馬鹿に教えたら悲惨やろ」

 鼻で笑う柊介に「自分が馬鹿なんは認めるねんや」と恵子がつぶやいた。

 それをうけてふっと静かに吹き出す明夫に、武晴がピンときたようだ。

「お前らこれから勉強すんねやろ。いっしょにしようや!」

「た、タケ」

 明夫が戸惑いの声をあげた。

 しかし声色のわりに目は、こいつはなぜいつも躊躇なく女子を巻き込むことができるのだ──という尊敬の色を浮かべている。

 しかし「いや」と恵子はバッグから飴を取り出した。

「ムエタイの体験あるから、帰る」

「おまえはどこまで強うなんねん!」

 武晴は蒼白になる。

 すると、その後ろ、明夫が気まずそうに視線をそらして「俺も今日は用事ある」とつぶやいた。

 まったく、さっきまでいっしょに勉強する気だったくせに──。魂胆が見え見えな嘘に腹が立ったか、八郎と武晴は彼の肩を小突く。

「ていうか」

 意外にも。

「俺も用あんねん」

 次に断りをいれてきたのは柊介だった。携帯を見てため息をついている。

「なんの?」

「病院行かなあかん」

「あー、光さん! 怪我しはったんやってな」

 八郎が明朗な声をあげた。

 “光”──現在柊介とともに暮らす、彼の叔父である。三日前に怪我をして入院したと聞いている。

 中学からいっしょの男子陣や松子は、光と一度会ったことがあるためか「ああ」とうなずいている。

「じゃあおれも行く。最近、光さん会うてへんし」

「いやいらん。迷惑やし」

「迷惑やないやろ、騒がへんし」

「図々しいやつやな!」

 しかし柊介の苦言はいっさい流され、八郎はちらりと女子を見た。

「おもろい人やで、光さん。行かへん?」

「久しぶりに行ってみよかぁ。迷惑やないねんやったら」

 松子がうなずき、春菜や香子に「おもろい人やで」とうながすと、ふたりはおずおずと承諾した。

「せやから迷惑て言うてるやんけ!」

「ほないこか!」

「ウェーイ!」

「…………」

 すべてを流された柊介は、鬱憤払いに八郎の背中を蹴った。

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