第56話阿佐の覚悟
阿佐薬品の機械準備室。コンクリートでむき出しの冷たい壁と床に、コンプレッサーの音が鳴り響くうるさい空間なんだが、俺は嫌な事があったりするとここに来る。
叫んだりしてもバレないし叫べばスッキリとする場所だからだ。
そして、昔阿佐にここを教えた事がある。
それ以来阿佐は何か嫌な事があったりすると、ここで泣いていた。そこを俺が迎えに行ってあげてたんだよな。
入社当初の阿佐を思い出せば、色眼鏡で見られて良く泣いていた。それを俺がよく迎えに行ってたっけ。
「うっうっ」
コンプレッサーの音に混じって、泣きじゃくる声が聞こえて来た。
間違いない、阿佐だろう。
音のせいでどの方向からの声かはわからないが、狭い準備室だ。俺はキョロキョロと辺りを見渡し、茶色のボブ頭を見つけた。
むき出しのコンクリートに座り込み、両手で涙を拭う阿佐にどう声をかけたものか。
俺はハンカチを取り出して、阿佐に近付いた。
「あ、阿佐?」
「……なんで来るんすか」
涙声で鼻声な阿佐は、ぐしゃぐしゃになった顔で俺を睨むように見つめる。
来て欲しくなかった。そう言いたげに訴えかけるその視線に俺はハンカチを渡した。
「来た理由は、お前が泣いてたからだ」
「……うるさいっす。巣山さんのせいっす」
阿佐はハンカチをひったくるように手にとって、悪態をつきながら涙を拭った。
「すまない」
「なんで謝るんすか? 巣山さんは悪くないじゃないっすか。それともあれっすか? 私と付き合ってくれるんすか?」
「いや、それもできない」
「……冗談っす。巣山さんがそんな事言ったら一生軽蔑するっす」
阿佐はそう言って自嘲気味に笑った。そんな阿佐に俺はただ謝ることしかできなくて、歯痒い。
「巣山さん、その中途半端な優しさは時に女の人を傷つけるっす。だったら、スパッと諦めのつく言い方をして欲しいっす」
阿佐はそっと立ち上がると、涙をポロポロと流してにこりと微笑んだ。
その顔は覚悟を決めたような、諦めたような、色々な感情を混じらせた顔で、俺はその阿佐の覚悟を受け止められるよう真っ直ぐ阿佐を見つめた。
「巣山さん。私は巣山さんが好きです。どうか、私と付き合って下さい」
阿佐は溢れ出す涙を拭うこと無く、俺に右手を差し伸べた。
付き合ってくれるならこの手を取ってくれという事だろう。でも、俺は取る事が出来ない。
鳴り響くコンプレッサーの音すら気にならなくなる。むしろ無音にすら感じる。
これがトランス状態というものなのだろうか。
俺は意を決して、頭を下げた。
「すまない。俺は好きな人がいる。阿佐と付き合う事が出来ない」
たった少しだけの言葉。だけど、ひねり出すのに色々な葛藤があった。
俺はゆっくりと顔を上げていくと、涙を堪えて笑顔を無理くり作ろうとしている阿佐が俺を見つめていた。
「……やっぱり巣山さんは優しいっす。……巣山さん、明日からまた、私はいい後輩になるっす。だから今日は……」
阿佐は俺に向かって駆け出すと、俺の胸元に顔を埋めた。
抱き止める事はしない。だけど、離れさす事もしなかった。
「……胸を貸してください。……な、泣かせて……くだ……うう……」
阿佐が、俺の胸元で嗚咽を漏らす。
俺は、阿佐が落ち着くその時まで胸を貸し続けた。
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