第2話未婚なのに妻が出来ました

 翌日の午前八時。耐えようのない全身の、特に足の痛みとともに目が覚める。


 おおよそ心地よいとも呼べない寝覚めだ。ベッドから起き上がりたくない。


 カーテンの隙間からは朝日が漏れているが、残念ながら今の俺にはその爽やかさを感じる事は難しい。


「ぐうううう……」


 翌日に痛みが出るなんて若い証拠だ! 頑張れ! と、自分で自分を応援しながら立ち上がる。まあ、痛みのせいで変な声が漏れてしまっているが。


 とりあえず、歯を磨こう。摺り足気味に足を引きずりながら、洗面所へと向かう。


 歩き慣れた部屋の廊下が、まるで燃え盛る大地を歩いてるようだ。一歩進む度に痛みが走った。


 昨日は明日から頑張るって思ってたけど、無理だなこれは。


 奮い立たせた気持ちはすっかりと絞り、妥協まっしぐら。


 仕方ない、気持ちを切り替えよう。と、洗面所に着いた俺は、いつもより多く歯磨き粉をつけて歯を磨く。


 いつもより泡で溢れる口腔内。前歯を、奥歯を、これでもかと磨き続けていた時の事だ。


 突如として大きな雷が鳴り、雨粒が屋根を叩く音が響いた。


 おいおい、朝日がカーテンの隙間から漏れてたくらい晴れてたのに。


 起きてからまだ十分も経っていないが、こんな事もあるんだな。と、突然の天候の変化にぼんやりとした感想を浮かべつつ、俺は歯磨きを終えて水で口をすすぐ。


 ふう、スッキリだ。


 足が痛くて落ち込んでいた気分も持ち上がってきた矢先に、玄関からピンポーンと訪問者を告げるチャイムが鳴った。


 ……出たくない。


 率直な感想が頭をよぎる。


 居留守使っちゃおうか。こんな朝早い時間だ。通販とかではないだろう。どうせ訪問販売とかそんなんだ。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン!


 違った、怪しい宗教とかそんなんだ!


 突如として連打されるチャイムに恐怖を覚えて息を殺す。どうか、諦めてくれ。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン!


 だが、チャイムは無情にも鳴り続ける。


 これは、一回対応しなければ……。


 今日の俺の気持ちをグラフに直すなら上がったり下がったりを繰り返し、今はちょうど下がってる所だな。なんて思いながらずりずりと足を引きずって、ドアホンを手に取った。


「すみません、誰ですか? セールスとかお断りですが」


「あ、や、やっと出た! 出るのが遅いのじゃ! 妻が来たのじゃからさっさと出るのじゃ!」


「……………………は?」


 声音からして多分女性だろう。そして多分怒っている。だがそんなことよりも、質問に対しての回答の意味が分からず、たっぷり十秒消費してたった一言絞り出した。


 あ、ありのまま今起こった事を整理するぜ。


 セールスを断ったと思ったら妻が来た。未婚なのにだ。


 ……まあ、多分酔っ払いが家を間違えたのだろう。朝まで飲みに行く奥さんか。旦那さん、迎えに行ってやれよ。


「あのー、間違えてませんか? 私は未婚ですが」


「間違えておらぬわ! お主は、巣山 尋は妾の旦那じゃ!」


 ……ま、またしても今起こった事を整理するぜ。


 未婚なのに妻が来た。何を言ってるのか当の本人である俺にも分からねえ……。


 だが、名前と家を知られてる以上知らない人ではないのだろう。


「……とりあえず、鍵開けますね。話聞きます」


「当然じゃ! 常識的に考えて、早く三つ指ついて迎え入れるのじゃ!」


 三つ指ついてって、どこの常識だ。


 迎え入れようという気持ちが株価の大暴落のようにがくんと下がったが、変な事をご近所さんに吹聴されても困る。


 げんなりとした気持ちで、また足をずりずりと引きずって、玄関まで歩いた。


 泥まみれのスニーカーが一組だけ並ぶ玄関。


 しまった、見られたくないなと思いつつ、片付けるのも面倒なので、行儀が悪いが足で玄関の端にスニーカーを寄せて鍵を開ける。


 そして、扉を開いた。


「おっそいのじゃ!」


 扉の先には目が覚める程の美人が腕を組み仁王立ちしていた。


 なぜか白と赤の巫女服に身を包み、金髪の腰まであるロングヘアー。そして、先程の雨に打たれたのか少し足元に水が滴り落ちている。


 俺を睨みつけている目は碧眼で、切れ長つり目。西洋感を感じる。


 身長は百七十センチの俺より少し低いくらい。百六十くらいか。それで、スタイルは出るとこ出てていいですね。


 そして何より不思議なのは頭の上の耳。犬の耳? コスプレか?


 とまあ、上から下まで舐め回すように見たのだが、分かったことが1つある。


「人違いです」


 俺はそう言い残して扉を閉め、鍵をかけた。


 危ねえ、あれは絶対怪しい宗教だ。だって知らない人だもの。


「ひ、人違いじゃないのじゃ! あーけーるーのーじゃー!」


 扉の向こうでドンドンと鈍い音が鳴り、先程の犬耳女が抗議の声を上げている。


 くそっ、ご近所さんに怒られるじゃないか。ここは、できるだけ穏便に済ませて帰ってもらおうか。


 一向に帰る気配を感じない為、意を決してもう一度扉を開ける。


「なんで締め出すのじゃ! ハッ! こ、これがどめすてぃっくばいおれんすというやつか!? 結婚初日なのに。ひどいのじゃ。あんまりじゃー!」


 怒り心頭に発するを体現するかのような犬耳女。


 というかドメスティックバイオレンスなんて聞く人によっては危ない言葉を言いやがって、本当に肝を冷やす。


「いやいや、ドメスティックバイオレンスでもないし、結婚初日でもないです。というか誰ですか?」


 俺は、すぐに扉を閉める事ができるよう、扉の隙間から顔を出しつつ、ノブを持って問い掛けた。


 犬耳女は一瞬呆気に取られた顔をし、すぐに納得したように左掌に右手の拳をポンと置いて納得したような顔をした。


「成る程。妾の事が分からなかったんじゃな。そうじゃのう、この姿をお主に見せるのは初めてじゃからのう。妾の名はいなり。稲荷神社の主人にしてお主のプロポーズをしかと受け取った、妻じゃ」


 犬耳女はいなりと名乗り、ドヤ顔で腰に手をやり踏ん反り返った。どうだ、説明してやったし分かっただろう?と言いたげである。


 しかしだ。そんなことよりも、このいなりって人はなんて言った?


 稲荷神社の主人? プロポーズ?


 頭にクエスチョンマークが何個も何個も浮かぶ。


 稲荷神社って昨日のお百度詣りをしたところだよな。


 で、プロポーズ? 何の事だ?


 昨日の記憶を遡ってみるが、プロポーズなんて……。


「巣山 尋! 二十五歳! 四季アパートの一○一に住んでます! 結婚したいです! よろしくお願いします!」


 ……これかなあ。


 昨日の俺のお祈りは、プロポーズに聞こえなくもない。願望を伝えているだけだが、人が前にいたらお見合いみたいなもんだ。


 で、でも神様がこんなお願い聞くもんなのか? 甚だ疑問なんだが。


「あんな熱いプロポーズ百回も言われたら、その、妾嬉しくて……。その、突然来たから迷惑だったかのう?」


 耳がしゅんと垂れ下がり、不安そうに俺の顔を覗き見るいなりさん。


 や、やめてくれ。そんな目で俺を見ないでくれ。


 俺としては全然ウェルカムだから!


「え、いやいやそんな。迷惑なんてとんでもないですよ」


「そうかのう? いやー、良かった良かった。じゃ、早速中へ入れておくれ。狐の嫁入りだったからのう。雨に打たれて寒いのじゃ」


 どうやらいなりさんが一枚上手のようだ。不安そうな顔が一転してあっけらかんとした笑顔になった。


 というか、あの雨はそういう事か。納得。


 納得はした。したけど……しきれない。


 色々な感情がミルクを落としたばかりの紅茶のようにぐるぐると広がっていくが、なんとか感情をグッと押し殺して笑顔を作った。


「分かりました。とりあえず中へどうぞ」


 俺は扉を開くと、いなりさんを招きいれた。


 あ、しまった。こんなことならスニーカー片付けておけば良かった。


 時すでに遅し。いなりさんはちらっとスニーカーに視線を落とし、ニヤリと口角を上げていた。


 あー、汚いなとか思われたんだろうな。


 特に触れられなかったし、俺から触れる事もなかったが、少し肩を落としてダイニングの方へと向かう。


 その後ろを、ぺたりぺたりといなりさんが付いてきた。


「あんなに泥まみれになってまでたくさんプロポーズしてくれて、て、照れるのう」


「何か言いました?」


「な、なにも言っておらん! 足袋も濡れたからペタペタ鳴っておるしその音じゃろう!」


 確かにそうか。本人が何も言ってないっていうならそうだよな。


 少々腑に落ちないが、本人が言うなら仕方ない。


「聞こえてなくて良かった」


 今のもきっと空耳だろう。

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