2話

(『賢く優しい森の友人へ』 最終章、抜き出し)


 そんな風に穏やかに過ごせたわけだが、とある冬の日、私と彼の別れは突然に訪れる。

 その日はひどく寒く、夜には雪が降るだろうと町中で備えがされていた。私もまた、夜間に寒い思いをしないために必死で薪を割り、たくさん水を汲み、食料や酒を買い込み、厚めの服を準備していた。そして昼が過ぎ、夕方が過ぎ、夕飯が終わった頃に、予想通りに雪が降ってきた。しんしんと降り続く雪は大きく、地面はあっという間に真っ白になった。積もる速度も速く、明日の朝にはドアが開かないのではないだろうかと心配になるほどだった。

 こんな雪の夜、テリスはどうやって過ごしているのだろう。羽のある友人たちと身を寄せ合っているのだろうか。それとも彼が何度も厳しい厳しいと言っている主の家でのんびりくつろいでいるのだろうか。明日会ったら訊いてみよう。

 自室で少し窓を開け朝日に思いを馳せていると、不意にドアが乱暴に蹴り開けられた。その日の父はやけに大人しく、私はすっかり油断していた。今日は何事もなく終わるだろう、と。

 体は反射で跳ねさせてしまったが、私は唇をぎゅっと引き結んだ。叫んではいけない。叫べば拳が飛んでくる。愛想悪くしてはいけない。すれば蹴りが飛んでくる。私は大騒ぎする心臓を落ちつけながら、出入り口の両側に手を当て退路を塞ぐように立つ父に向き合った。

「ど――うしたの、お父さん。お酒とおつまみだったらキッチンにあるよ。それとも薪が切れちゃった? それならすぐに追加して――」

「ロイ」

 窓から離れ歩き出そうとした瞬間、父に名前を呼ばれた。その声は異様に優しく、穏やかで、恐ろしかった。

 ぞわりと全身に鳥肌が走る。脳内のどこかから警鐘が鳴り響く。思わず後ずさり窓枠に背中を思い切りぶつけた。とても痛かったが、その時父から目を離すことが出来なかった。目を離したら、その瞬間に全てを終わらせられそうだったから。

 父は穏やかさとはかけ離れた顔でにこりと微笑む。

「父さんなぁ、今日お前がいない間に町に行ったんだよ。酒が足らなくなっちまって、仕方ねぇからさぁ。そしたらなぁ、お前、毎日毎日魔女の森に入っているそうじゃないか」

 指摘され、私は血の気が引いた。バレた。バレてしまった。大事な友人との、大事な時間が。早鐘を打つ心臓の音に紛れて、自分の声が言葉にならずに口から洩れているのが聞こえた。そんな私の様子など気にも留めず、殴りかかってくるわけでもなく、父はさらに話を続ける。

「悪魔に取りつかれちまったかと、父さんは悲しくなっちまったよ。殴ってでも追い払ってやらねぇとな、って。だがな、親切な御仁が声をかけてくれたのよ。常人には悪魔の相手は無理でしょうから、お子さんを引き取ってあげますって」

「――え」

 一瞬、一瞬だが、私はその言葉に希望を見てしまった。この地獄から抜け出せるのではないか、と。だが、そんなに甘い話はなかった。

「俺も悲しいがなぁ、傷心のお父さんにって三千もくれるとあっちゃぁ、お任せするしかないだろぉ?」

 そう言いながら父が部屋に入って来た。その手に持たれていたのは荒縄。二本あるそれが、私の手足を縛るためのものだというのは容易に想像がついた。そしてそんな状態で私を引き渡す相手が、真っ当な人間なはずがない、ということも。

 確信した瞬間、私は背後の窓から飛び出した。恐らく今まで生きていた中で最も早くに動いた瞬間だろう。背後からは父の怒鳴り声が聞こえてくる。怖かったが、ここで戻る方がもっと怖い。私はかじかむ足を懸命に動かし、ただただ走った。頬を切る風は冷たく、厚めの上着とはいえ室内用のそれは外で体の体温を保つのには力不足だった。寒い。痛い。怖い。助けて。そんな言葉だけが頭を去来していた。

 そうこうしている内に、私は自然と友人のいる森へと入っていた。夜の森は暗く恐ろしかったが、他に助けてくれる相手が誰も思い浮かばなかったのだ。深くなった雪を音を立てて踏みながら、私は友人を呼んだ。

「テリス! テリース! 助けてっ、お願い助けてテリス!」

 何度も何度も叫んだ。彼しかいなかったから。彼しか父を恐れず私を助けてくれる相手がいなかったから。だが、その声は一番私を見つけてほしくない人物に届いてしまった。父が、私のすぐそばまで来ていたのだ。

「ロォォォォイ! 父親に逆らうとはいい度胸だなぁ!? 売れるからと殴らんでいたが、やっぱり殴った方が大人しくなるかぁ?」

 大股で父がどんどんと近付いてくる。必死に逃げるが、すっかり冷え切った子供の足ではそれも叶わなかった。腕を乱暴に掴まれ、私は無理やり父に引き寄せられた。振り上げられた拳。鬼のような形相。私はかつてないほど大きな悲鳴を上げた。

 その時だ。風を鋭く切る音が私たちに近付いてきた。かと思うと、大きな体が私の視界をふさぎ、父の顔めがけて突撃した。途端に父の悲鳴が響き渡り、自分ので嗅ぎ慣れた血の匂いが辺りに充満する。

「テリス!」

 私は救い主の名前を叫んだ。彼は「待っていろロイ!」と叫び返すと、何度も何度も飛び上がっては父に向って突撃し、そのたびに猛禽の鋭い爪が父を襲う。初めて聞く父の悲鳴に、これはもしかして、と、そう思った。だが

「こ……の、クソ鳥が!!」

 吠えるや否や、父は爪を立てたテリスを掴み拳を振りぬいた。テリスの大きな、しかし人からすれば小さな体に拳が埋まる。私は叫んだ。悲鳴のような声でテリスの名前を叫んだ。このままではテリスが死んでしまう。私のせいで死んでしまう。そう思った私は、勇敢な友人に倣い父に向かって突撃しようとした。しかしそれが為されるより早く、テリスの体が赤く光ったのだ。いや、正確には、テリスの前が、だ。彼の前に、赤い魔法陣が展開されていた。

「緊急手段だ。悪く思うな二本足の悪党よ」

 テリスが言うや否や、魔法陣から彼の体ほどの大きさの火の玉が二つ三つと続けざまに放たれる。それは父を正面から捉え、彼を吹き飛ばすと、一瞬で全身を火だるまにした。悲鳴を上げる父は雪の上で転がりだす。私が言葉を無くしていると、テリスが私の腕の中に落ちてきた。

「逃げ、ろ、ロイ、この雪では、長くは、もたない」

 指示され、私は弾かれるように走り出す。優しく抱きしめているはずのテリスは痛みで悶えており、温かい体が少しずつ冷たくなっていった。それがこの腕を濡らす雪ではない何かのせいだと思いたくなくて、私は涙もぬぐえないままどことも知れない場所に逃げ続ける。

 このまま死んでしまうのだろうか。テリスも、自分も。私はそんな絶望感に囚われていた。そんな時だ。正面から、声が聞こえてきた。

「ああ、いたいた」

 それは女性の声だった。初めて聞くその声は、私の焦燥感や絶望感とは裏腹にどこかのんびりとしていた。思わず足を止めた私の目にまず映ったのは、黒い大きい影。ややあって、雪の向こうから現れたのはこげ茶色の大きな大きな熊だった。私は当然悲鳴を上げた。上げないなど無理なほど、それは巨大だったのだ。

「はいはい、落ち着きなさい。タイタニロは人を襲ったりしないから」

 私の恐慌などどこ吹く風か、やはり女性の声は落ち着き払っていた。このクマが喋っているのか、と思っていると、その背中から一人の女性が下りてきた。厚手のコートを着た彼女は夜でも分かる明るい茶色の髪を緩い三つ編みにして背中に垂らしており、丸い眼鏡の下では髪と同色だろう猫のような目が私を見ていた。

 私が怯えていると、腕の中のテリスが身じろぎをする。

「……主、申し訳、いませ……どうか、彼を……」

 弱々しい声でテリスが呟いた言葉に、私ははっとした。テリスの主。それは、この森の魔女。魔法使いが多く存在するこの世界であって、なお魔女と呼ばれる畏怖の存在。私は自然と彼女の前に両膝をつき、虫の息のテリスを差し出した。

「ごめんなさい、ごめんなさい魔女様! ぼくが呼んだりしたから、テリスがお父さんに酷い目に遭わされてしまいました。罰はぼくが受けます。だから、テリスを助けてください!」

 ぼろぼろと涙を流しながら、私は何度も魔女に謝り、懇願する。その時の私が考えていたのは、賢く優しい私の友人が死なないようにと、それだけだった。

 少ししてから、魔女は私の手からテリスを受け取ってくれた。それだけでも私は救われたような気持ちになった。思わず顔を上げると、魔女は現れた時と変わらない笑みで私の頭を撫でてくる。母が死んで以来の、人の手の温かさ。私はそれまでとは違う意味で涙をこぼしていた。

「テリスは自分の意思であなたのことを助けたのよ。あなたのせいじゃない。――いつもなら勝手な行動は勝手に処理しなさいって言ってるんだけど、今回ばかりは坊や二人の友情に免じて助けてあげるわ。テリスは連れて帰るから、あなたも帰りなさい。ああ、大丈夫よ。町長の家に届けてあげる。流石に人買いがあったとあっちゃあ動くでしょ」

 言うが早いか、魔女は私の額に指を当てた。その途端に私の視界は暗転し、かと思うと、見たこともない建物の中に立っていた。魔女の言葉の通りなら、ここは町長の家。こんな所に急に現れて罪になるのでは。そう怯えていた私だったが、魔女の別の使い魔に事情を聞いたということで、そのまま無事に保護してもらうことが出来た。

 後日、父は自警団に囚われ牢に入り、私は遠く離れた親戚の家に引き取られることになった。引っ越すまでの短い間にせめてもう一度友人に会えたらと何度も森へ向かったが、彼と会うことは、その後一度たりともなかった。


 あれから三十年。他愛もない個人的な危機から私にはどうしようもない世界の危機まで、色々なことがあったが、どんな時でもこの胸にあったのは彼――テリスとの友情と断言出来る。

 その後何度トロステムダムの森を訪れても会えなかった友人のことをこうして文字にしたためているのは、彼の種族――フクロウの寿命が多く見積もっても四十年ほどだと知っていたからだ。それまでに会えていたのであれば思い出話を語り合うだけで済んだのだろうが、どうやら彼にはもう会えないようだからだ。


 森の賢者よ。賢く優しき森の友人よ。我が友テリスよ。君のおかげで私はこうして生きている。世界の美しさも醜さも穏やかさも煩わしさも受け止めて生きていられるのは、何より君がいたからだ。

 君の穏やかな眠りを、この世の誰よりも願い祈り、この思い出を君に捧げよう。


         ――――君の友人 ロイ・ハマートン



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