シヴァリー

稲田しんたろう

第一話 格差社会

騎士道(シヴァリー)はそれ自身人生の詩である。

(シュレーゲル 『歴史哲学』より)


武士道(シヴァリー)はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。

(新渡戸稲造 『武士道』より)


   ◆◆◆


 かつてある魔法使いはこう言った。

「私がまだ幼かった頃、魔法は希望の象徴だった。

 しかし今は違う。

 魔法という存在は嫉妬、差別などの暗い感情を生み、世に不幸をもたらすであろう」


 魔法――

 それはとても不思議な力。その力は人類に様々な恩恵をもたらした。

 時代が流れるとともに魔法への信仰、依存心は深まっていき、人類にとって無くてはならない存在となった。

 しかし神は残酷だった。

 魔法は誰にでも扱えるものではなかった。魔法を扱うには天性の素質が必要だった。

 魔法は強い力。それを扱える者は自然と社会の強者になった。

 人の欲望は果てしない。力を持つ者達はより大きな力を求めた。


 富、名声、権力――これらを巡り戦いは繰り返された。

 その犠牲になるのは常に弱者。魔法を扱えないものは血を流し、涙を飲むしかなかった。

 人は皆何かに価値を見出し、それを頼りに生きる。しかしこの世界は魔法の価値があまりに高くなりすぎていた。

 しかしどんな時代にも必ず終わりは来るのだ。この物語はそんな魔法使いの世の価値観を変えた者達の物語である。


   ◆◆◆


 二人の男が戦っている。

 場は戦場。

 しかし場に響くは二人の戦闘音のみ。

 兵士達は二人を囲むように円陣を組んでその戦いを見守っている。


「「雄雄雄ォッ!」」


 円の中心にいる二人が叫び合い、手を出し合っている。

 両雄の名はアランとリック。

 双方とも、この物語を語る上で外すことが出来ない者だ。

 そして両者とも、得意とする間合いは接近戦。

 アランが振るうは剣、対するリックは拳。

 魔力を帯びて光る鋼の刃と拳が何度も交錯する。

 魔法使いらしからぬ戦い方。

 リックは誇りある伝統と、受け継いだ技術がそうさせている。

 アランは違う。彼にはこの戦い方しか選択肢が無かった。

 アランは魔法使いとしては半端者。

 しかし今、アランは強者であるリックと互角に戦っている。

 交錯する刃と拳の速さは目に見えぬほど。素人目にはどちらが有利なのかすら分からない。

 単純な速度ではリックのほうに分がある。

 しかしアランはある能力と、剣捌きでその差を埋めている。

 そしてアランは苛烈な命のやり取りの中に身を置いているにもかかわらず、感動している。

 自分をこの舞台にまで引き上げてくれた奇妙な運命に感謝している。

 ここに至るまで長かった。

 何度も壁にぶつかった。挫折もした。一度はあきらめ、別の道を歩もうとすらした。

 だが、運命は呪いのようにアランを元の道に引きずり戻した。

 まずはその過程を話そう。

 物語はこの戦いの六年前から始まる。


   ◆◆◆


  格差社会


   ◆◆◆


 季節は冬――降り積もる雪の中、多くの男達の姿があった。

 耳を澄ましてみると穏やかではない叫び声が聞こえてくる。


「前列突撃! 弓兵部隊も援護しろ!」


 ここは戦場。怒声や悲鳴が響きわたり、弓と魔法が飛び交う死地。

 そんな中を悠然(ゆうぜん)と歩く一人の男がいた。

 男が腕を振るう。その度に兵士達が炎に飲み込まれていった。


「なんだこいつは、化け物か!?」


 彼は魔法使いであった。この戦場はたった一人の魔法使いによって阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄と化していた。


「味方の盾持ちをもっとこっちに回せ!」


 魔法使いが放つ炎を食い止めようと多くの盾が前線に並ぶ。しかしそれも空しく、兵士たちは盾ごと炎に飲み込まれていった。


「……!! 全軍撤退! 退け、退けえ!」


 勝機は無いと判断したのか、敵は速やかに後退していった。

 敵の姿が見えなくなり、後には焼死体だけが残った。


「化け物」と呼ばれた魔法使いは、敵のいなくなった戦場を退屈そうな表情で眺めていた。


(脆(もろ)いな、我が軍はこんなやつら相手にてこずっていたのか)


 そんなことを考えていた魔法使いに、貴族らしき身なりの良い男が話しかけてきた。


「お見事でしたカルロ将軍。さすがは炎の大魔道士ですな」


 炎の大魔道士、そう呼ばれた男はお世辞など気にもかいさずに答えた。


「この戦いはこれで決したようなもの。あとは数だけで押し込めるでしょう」


 そのようですな、と言葉を返す貴族を置いて、魔法使いはその場から立ち去ろうとした。


「将軍、どちらへ?」

「城に帰ります」


 魔法使いは顔も向けずにそう言い残し、去っていった。


 炎の大魔道士、カルロ――

 彼はこの世界において類まれなる力を持つ炎の魔法使いである。

 彼の放つ炎は全てを燃やし尽くした。

 しかし彼は敵が無残に燃えていく光景になんの感情も抱いていなかった。

 彼は国に奉仕しているだけであり、国はそんな彼に高い身分を与え丁重に扱っていた。

 彼が存在するゆえにこの国は強国であった。国の優劣は魔法使いの優劣で決まる、そんな時代であった。


   ◆◆◆


 ある街の中心にあるカルロの居城――

 その城の存在感は大きく、「この城には王が住んでいる」と言われても信じられるほどであり、その城の雄大さはカルロの力がどれほど大きいのかを示していた。

 そして今日、長らく城を空けていた城主の帰還を多くの従者達が出迎えていた。


「お帰りなさいませ、城主様」


 城の主の帰還に、従者達が深く頭を下げる。


「お帰りなさいませ、お父様」


 続いて、従者達の中から顔を出した一人の少女が丁寧に頭を下げた。


「いい子にしていたかい、アンナ」


 アンナと呼ばれた少女は返事と小さな笑みを返した。


「……アランの姿が見えないが、どこにいる?」


 城主の質問に答えるものはいなかった。


「あやつはまた下賤(げせん)な者と遊んでおるのか」


 沈黙がそのまま答えとなった。


「帰ってきたら私の部屋に来るように伝えろ」


 城の主はそう言って怒気を含んだまま城の奥に消えていった。


 下賤(げせん)な者――

 カルロが指しているのは奴隷階級、またはそれに近い身分の人間のことである。

 この世界では人々の身分は一部の例外を除き魔法能力の高さのみで決まっている。

 魔法能力が高いものは国に召し上げられ、相応の身分とともに裕福な生活が保障される。

 しかし魔法能力が皆無な者、そういう者達は奴隷として他人に使役されることになる。


 奴隷と一言でいってもその境遇は様々である。

 多くのものは他人に使役される過酷な生活を送っているが、一部のものは理不尽な支配から逃れ、ひっそりと生活している者達もいた。

 そのような者達が集まり、ひとつの社会を形成している場所があった。そこは俗に「貧民街」と呼ばれていた。


   ◆◆◆


 同時刻、貧民街のとある場所で仕事に精を出す男達の姿があった。彼らは鍛冶師であり、戦争で使う武器の製作を行っていた。

 そしてそんな男達の中にアランの姿があった。


「アラン、こいつを親方のところに持っていってくれ」

「はい」


 アランと呼ばれた青年が金属の資材を抱え、親方のところへ走る。


「親方、ここに資材置いておきますね」

「アラン、すまんがついでにそこの炉に火をいれてくれんか」


 頼まれたアランは炉の前で手をかざし、意識を集中した。手が光るのと同時に炎が放たれ、炉に炎が吹き込まれた。

 見てのとおりアランもまた父と同じ炎の魔法使いである。由緒正しい身分ある人間である。しかしアランは頻繁に家を飛び出し、このように貧民街で奴隷の人達の仕事を手伝ったりしていた。


 そして仕事がひと段落し、腰を下ろして一息ついていたアランは、よく知った顔を見つけたので声をかけた。


「おーいディーノ!」


 ディーノと呼ばれた男はアランの声に気づき手を振り返した。大男であるディーノは街の往来の中でもよく目立つ。


「おう、アラン!」


 ディーノと呼ばれた青年は笑顔を返し、アランの隣に座った。

 近づくとその巨躯が放つ存在感はさらに増した。こうして並んでいると、アランが小さく見えるほどに。


「アラン、今日の仕事はもう終わったのか?」

「いや、今はちょっと休憩しているだけだ」

「そうか、じゃあ仕事が終わったらいつもの場所で」

「ああ」


 簡単な会話だけ交わしてディーノは去っていった。ディーノが言った「いつもの場所」、二人はそこで毎日欠かさずあることをしていた。


「………」


 アランは手を握り締め、その力強さを確かめた。腕を軽く振り、簡単な運動をして自身の調子を確認する。

「いつもの場所」で毎日やっていること、もう数え切れないくらいほど続けてきたことだが、それでも少し緊張していた。

 自身の体に問題が無いことを確認したあと、アランは残りの仕事を片付けにかかった。


   ◆◆◆


 日が沈みかけるころ、町のはずれにある広場で二人の男が木剣で打ち合っていた。


「でえや!」


 ディーノが対峙(たいじ)する男に切りかかる。男はそれを受け流し、すかさず反撃の態勢をとった。


「せい!」


 その男、アランが反撃の一撃を放つ。しかしそれは空振りに終わった。ディーノはアランの反撃の態勢を見てから素早く後方に距離をとっていた。

 お互いの距離がひらき、仕切りなおしとなる。双方とも構えを整え、次に放つ一撃を思案する。


 アランとディーノ、二人はこの場所で剣の特訓を毎日行っていた。

 この魔法使いが支配する時代に剣の練習など、赤の他人からすれば愚かしい、無意味な行為に見えるだろう。

 しかしディーノにとってはそうでは無かった。彼は魔法能力を持たない奴隷階級の人間であった。

 ディーノの家は、元は高い魔法能力を有する貴族の家系であった。しかし世代が移るとともに魔法能力は衰えていき、ディーノの親の代で奴隷の烙印を押されるほどに落ちぶれてしまっていた。

 ディーノはそんな家に生まれ、両親からかつての栄華の話を聞きながら育った。

 ディーノは力を欲していた。家を再興できるほどの力を。

 ディーノ自身、この特訓にどれほどの意味があるかはわかっていない。完全に無駄かもしれない。ディーノは心の片隅でそんなことを考えつつも、体を動かさずにはいられなかった。

 しかし魔法使いで、しかも名のある貴族であるアランがこんなことに真剣に付き合ってくれるのはなぜだろうか。ディーノは不思議に思っていた。俺達が親友だからだろうか?

 そんなことをディーノが考えている間に、二人の距離が徐々に詰まっていった。もうあと一歩でお互いの剣が届く距離だ。

 緊張が極限に達したとき、二人はほぼ同時に動いた。木剣を打ち合う大きな音とともに二人の体がぶつかりあった。


 ……今日の勝負の軍配はディーノにあがった。アランの木剣はその手から弾き飛ばされ、はるか後方にあった。


「今日は俺の勝ちだな」

「……くそっ」

「最後は惜しかったな、いい勝負だった」


 ディーノとアランは大きく息を吐き、身体の緊張を解いた。勝負の余韻(よいん)はなかなか冷めず、身体には滝のように汗が流れていた。

 二人がせっせと汗を拭っていると、いつの間にか二人の傍に近づいてきた一人の女が声をかけてきた。


「二人ともおつかれさま」


 そう言いながら女は水の入った壺を二人に差し出した。


「おお、気が利くな、リリィ」

「ありがとうリリィ」


 我先に壺を受け取ったディーノは浴びるように水を飲み始めた。


「おいおい、俺の分も残しておいてくれよ」


 女はそんな二人の様子を穏やかな表情で眺めていた。

 彼女の名はリリィ。ディーノと同じく奴隷の身分であり、二人とは幼馴染(おさななじみ)の関係にある。端正な顔立ちの美人だが、痛々しく荒れた手肌がその生活の苦しさを物語っていた。

 三人はそのままその場に座り込み、アランとディーノは先の勝負を振り返って話し合った。あそこでこうしていれば、こういう時はこうしたほうが、などと意見を言い合い、お互いをアドバイスしあった。

 話し込んでいるうちに内容は脱線していった。最近の仕事の話や、家庭についての話など、いわゆるただの雑談になった。

 こういうときたくさん喋っているのはいつもディーノであった。ディーノは喋り好きで、話が弾んでくると聞いてもいないことでもぺらぺらと口に出した。

 こんな時ディーノが必ず話すことがあった。それはディーノが抱いている夢、野望についてである。


「俺は将来大手柄をたてて偉くなってやるんだ、それで両親に楽をさせてやるんだ。それだけじゃない、こんなこともやってやる……」


 いつも同じ内容であった。しかしアランとリリィはそんなディーノの話に黙って耳を傾け、時々相槌を打っていた。

 アランは熱く語るディーノに共感しつつも、どこか冷めた目で見ていた。アランは知っているのだ。本当に強い魔法使いの力というのがどれほどのものなのかを。

 いつかディーノは現実の壁にぶちあたるかもしれない。でもそれまではディーノと一緒にこの甘い夢に酔っていよう、アランはそう考えていた。

 日が沈み、あたりがすっかり暗くなったころ、ようやくディーノの話が終わった。


「話過ぎたな。今日はもう解散にしよう」

「そうだな。それじゃあ、また明日」

「二人とも、また明日ね」


 そう言ってお互いに手を振り合い、それぞれ帰路についた。


   ◆◆◆


 二人と別れたリリィは月明かりを頼りに帰路を歩いていた。

 貧民街の夜は物騒である。リリィの胸には不安が広がり、その歩みは自然と速くなっていた。


 そこへ突然、


「リリィ!」


 などと呼び止められたものだから、リリィの身体は跳ね上がった。

 しかしその声が親しい人のものであるとすぐにわかったリリィは、声がしたほうへ振り返った。


「アラン! 一体どうしたの?」


 アランはリリィの隣に並び、


「夜は物騒だろう? 家まで送っていくよ」


 と言いながら、リリィの手を握った。


「ありがとう。……でも、こんなところを誰かに見られたら……」


 夜道を並んで歩く若い男女、それは淫らな想像を掻き立てるだろう。ましてや二人は貴族と奴隷の関係である。


「大丈夫さ」


 なにが大丈夫なのかわからないが、アランにその手を離すつもりは無いようであった。そしてそれはリリィも同じであり、リリィはその身を預けるようにアランに寄り添った。

 二人の歩みはゆっくりとしたものになった。できるだけ長くこうしていたい、という気持ちがその歩みにあらわれていた。


   ◆◆◆


 しかし幸せな時間は速く過ぎるものである。気がつけば、そこはリリィの家の前であった。


「……送ってくれてありがとう、アラン」

「……」


 二人の手はまだ離れなかった。


「……それじゃあ、……また明日」

「……ああ、また明日」


 二人の手はようやく、名残惜しそうに離れた。リリィは玄関のドアに手をかけたところでアランのほうに振り返ったが、


「……」


 結局何も言わず、リリィの姿は家の中に消えていった。


「……」


 アランもまた何も言わず、黙ってその足を帰路へ向けた。


   ◆◆◆


 城に帰ったアランを最初に迎えたのは妹のアンナだった。


「お兄様……」


 アンナの不安そうな表情からアランは察した。


「まさか父上がお帰りになられたのか」


 アンナは黙ってうなずいた。


「お兄様が戻られたら部屋に来るように仰っていました」

「わかった」


 アランがアンナの横を通り抜けようとすると、アンナはアランの服の裾を握って引き止めた。


「……」

「……アンナ、俺は大丈夫だから、心配しないで」


 アランは服を握るアンナの手をやさしく握り返しながらそう答え、城の奥へ消えていった。


「お兄様、どうかお気をつけて……」


   ◆◆◆


 父の部屋の前に立ったアランは手のひらに汗をにじませながら、慎重にドアをノックした。


「父上、アランです」

「入れ」


 アランは緊張しながらゆっくりと父の部屋に入った。


「アラン、今日一日こんな時間までどこでなにをしていた?」

「……」


「もう一度聞く。今日一日どこで何をしていた?」

「……貧民街に行っておりました」


 答えるやいなや平手打ちが飛んできた。


「下賎なものと付き合うなと、何度言えばわかるのだ」

「……」


「なにか言いたいことがあるのなら言え」

「……彼らは私の友人です。友人とともに過ごすことが悪いことなのですか」


 くだらん、アランの回答をそう一蹴してカルロは言葉を続けた。


「アラン、あいつらと我々は違うものなのだ。我々は選ばれた人間なのだ」

「……魔法を使えることがそんなに重要なことなのですか」

「そうだ。今の世では最も大事なことだ」

「でしたら父上! できそこないの私はどうなのですか! 私は父上が言う『下賎なもの』なのではないのですか!?」


 アランの自虐的で叫びのような問いかけに対し、カルロは反射的にアランの頬を打った。


 アランは炎の大魔道士カルロの実の息子である。だが、アランには父のような強い力は受け継がれなかった。それどころかアランの魔法能力は一般人よりも劣るレベルである。

 幼少時、アランは父であるカルロから直接魔法の指導を受けていた時期があった。しかし、アランの魔法能力はほとんど伸びなかった。

 そんなアランに対しカルロは厳しくあたりつづけてきた。対するアランはそんなカルロに強い反抗心を抱くようになった。

 カルロはアランには魔法使いとして生きていけなくとも、せめて貴族として教養を積み、慎ましく生きていく道を歩んで欲しいと考えていた。しかしアランはそんなカルロの考えを無視し、貧民街に入り浸る生活をしていた。

 アランとカルロ、二人の間の溝は年々広くなっていく一方だった。


 わずかな静寂のあと、カルロが口を開いた。


「アラン、魔法の訓練はちゃんとやっているのか?」

「……」

「勉強はやっているのか? 最近なにか本を読んだか?」

 アランはやはり何も答えなかった。

「……ひさしぶりに稽古(けいこ)をつけてやる。外に出ろ」


   ◆◆◆


 城の敷地内に作られた訓練用の広場、そこでアランはカルロと対峙した。

 カルロには明らかな余裕が見て取れた。アランの片手にはあの木剣が握られていたが、カルロがそれを警戒している様子は全く見られなかった。


「どうした、早く攻めてこい」


 カルロの挑発を受け、アランはカルロに突撃しつつ炎の魔法を放った。

 しかし、アランの放った炎は、まるで虫を払うかのようにカルロが軽く腕を振っただけでかき消された。

 だがアランは自分の魔法が父に通じないことなど百も承知だった。魔法はおとり、本命は自身の手に握られた木剣による一撃だった。

 アランは魔法による目くらましが効いている間に父の側面に回りこみ、木剣による渾身(こんしん)の一撃を放った。

 鈍い音と同時にアランの手に確かな手ごたえが伝わった。しかしアランの期待はすぐに絶望に変わった。

 アランの木剣はカルロの手で受け止められていた。いや、正確にはカルロの手は木剣に触れてはいなかった。

 カルロの手はうっすらと光っており、その光が木剣を止めているように見えた。これは防御魔法と呼ばれるものであり、魔法使いが使う基本的な防御手段であった。


「……それでは今度はこちらからゆくぞ」


 カルロが腕を振るうと同時に、アランの体は後方に吹き飛ばされた。このときカルロが放ったのは炎の魔法ではなく光弾、要はただの魔力の固まりだった。アランは素早く体勢を立て直したが、続けて飛んできたカルロの光弾を避けられず、再び吹き飛ばされた。

 立つ、吹き飛ばされる、立つ、吹き飛ばされる、そんなことを何度か繰り返したあとアランの意識は消えた。


   ◆◆◆


 アランは夢を見ていた。

 目の前で小さい男の子が泣いている。

 この男の子は……俺だ。

 小さなアランの周りにはたくさんの子供達がいた。

 その子供達が小さなアランに何かを言っていた。何を言っているのかわからないが、小さなアランはその言葉にひどく傷つけられているようであった。

 そこへ一人の男の子がやってきた。この子は……ディーノだ。

 小さなディーノはたった一人でたくさんの子供達を蹴散(けち)らした。

 いじめっ子達がいなくなり、小さなディーノが小さなアランに話しかけた。

 小さなディーノが何かを喋っている。何を言っているのかわからないのは、俺が覚えていないせいだろう。

 小さなディーノから慰めの言葉を受けても、小さなアランは泣き止まなかった。

 困った小さなディーノが頭を掻(か)きながら口を開いた。そうだ、この台詞は良く覚えている。お前はあのとき俺にこう言ったんだ。


「強くなってあいつら全員見返してやればいいんだよ!」


   ◆◆◆


 アランが目を覚ますと、そこは自室のベッドの上だった。窓から覗く太陽の位置から、まだ朝早い時間であることがわかる。あのあと気を失った自分を誰かがここまで運んでくれたのだろう。

 体を動かすと、全身のあちこちから鋭い痛みが走った。


「お兄様、まだ起きないほうが……」


 制止の声を受けて、アランはようやく傍にいるアンナの存在に気づいた。見るとアンナの目の下にはくまができていた。もしかすると一晩中傍にいてくれたのかもしれない。


「……心配をかけさせてしまったな」


 アランが上半身を起こそうとすると、支えにした右腕から強い痛みが走った。


「っ!」


 アランが反射的に左腕で右腕を庇(かば)うと、それを見たアンナは咄嗟(とっさ)にアランの体を支えた。


「お兄様の右腕にはひどい打撲のあとができていました。折れてはいませんでしたが、ヒビがはいっているかもしれません」


 そういえば父の魔法を受けるとき、反射的に腕で防御したような気がする。それのせいだろうか。

 痛みのひどい右腕は包帯でぐるぐる巻きにされていた。左腕のほうの痛みは軽く、目に見える怪我は擦(す)り傷だけだった。

 そしてアランが自身の状態を確認し終えると、慎ましやかなノックの音と共に、ドア越しに従者の声が聞こえてきた。


「アンナ様、当主様が部屋に来るようにと」

「そうですか……わかりました、すぐに参ります。それではお兄様、失礼しますね」


 そう言いながらアンナは名残惜しそうに立ち上がった。


「ああ。その……傍についていてくれて、ありがとう」

「……そう思うのでしたら、心配をかけさせるようなことはもうやめて下さいね」


 そう言ってアンナは笑顔を残して部屋から去って行った。



 アンナがいなくなってからしばらくして、アランはいつもどおりの一日を開始することにした。


(とりあえず顔を洗って着替えよう。……そのあとはどうしようか。この怪我ではディーノの特訓に付き合うのはしばらく無理そうだし、鍛冶仕事の手伝いも難しそうだ)


 アランは少し思案(しあん)したあと、


(急に姿を見せなくなったらディーノや鍛冶場のみんなに心配させてしまいそうだし、とりあえず一度顔だけでも出しておこう)


 と考えていた。


 カルロにこれだけ痛めつけられたにも拘(かかわ)らず、アランは全く懲りていなかった。体のあちこちが痛むが、今日も隙を見て貧民街に繰り出そうと考えていた。

 服を着替えた後、部屋を出ようとしたところでアランは木剣のことを思い出した。昨日気を失ったあとどうなったのだろうか。ざっと部屋を探しても木剣は見当たらなかった。


(訓練場にあればいいんだが。最悪、既に捨てられてしまったかもしれないな)


 アランは貧民街へ出掛ける前に訓練場に寄って行く事にした。


   ◆◆◆


 同時刻、訓練場にはカルロとアンナの姿があった。カルロはアンナに稽古をつけるためにここへ連れ出していた。


「アンナ、私が留守にしていた間、魔法の訓練はちゃんとやっていたか?」

「はい。言いつけどおり毎日かかさずやっております」

「それが本当かどうか見せてもらおう」


 そう言ってカルロは両手を前にかざした。


「私に魔力を全力でぶつけてみろ」


 アンナは息を軽く吸い込み、少しタメを作るような動作のあと、父に向かって魔力を放った。

 直後、重く大きな音とともにカルロの体が激しく揺れた。アンナとカルロの魔力がはげしくせめぎ合い、魔力の余波が光る風となって周囲に広がり木々の葉を揺らした。


「見事だ。訓練はちゃんと続けていたようだな」


 娘の全力を受け止めたカルロは、満足そうな表情で答えた。


「では次は実戦形式の訓練を行う。炎の魔法も使っていいぞ」


 ――実戦形式、それは訓練場から出さえしなければ何をやってもいいというかなり危険な訓練である。


「……では父上。全力で行かせていただきます!」


 先に仕掛けたのはアンナ。炎の魔法で先制攻撃を行った。

 対するカルロはアンナが放った炎に魔力をぶつけて相殺した。

 アンナは炎の放射をすぐには止めなかった。このまま押し切ってしまおうと考えていた。

 しかし結局アンナの放った炎がカルロに届くことはなかった。アンナの炎は全てカルロの放った魔力によって阻まれていた。

 そして、長時間の魔力放射で体力を消耗したアンナは、攻撃の手を完全に止めてしまった。

 その隙をカルロが見逃すわけもなく、反撃の炎魔法がアンナに襲い掛かった。

 アンナもまたカルロがやったのと同じように炎に魔力をぶつけて防御しようとしたが、消耗したアンナが放てる魔力ではカルロの炎を防ぎきれないことは明らかだった。


(正面から受けては駄目! 少しでも炎の軌道をそらして射線から逃げなくては!)


 そう判断したアンナは魔力を放つと同時に大きく横に飛んだ。

 アンナの放った魔力がカルロの放った炎と激しくぶつかりあう。アンナの予想通り、カルロの炎を防ぎきるにはいたらなかったが、炎の軌道をわずかにそらすことはできた。

 跳躍したアンナの後ろをカルロの炎が通り抜ける。背中に伝わる熱さからその炎のすさまじさを感じ取れた。

 頭から滑り込むようにアンナの体が地に落ちる。アンナはすぐに体勢を立て直し再び父カルロのほうへ向き直った。


「アンナ、戦いでは常に余力を残しておけ。戦場では敵は待ってくれないぞ」

「はい、お父様」


 もしこれが本当の戦闘であれば、アンナが態勢を立て直す前に追撃されていただろう。

 カルロはアンナの息が整ったのを確認し、訓練の続行を告げた。


「ではもう一度いくぞ」


 宣言とほぼ同時にカルロは炎の魔法を放った。

 アンナはさきほどと同じようにその炎を正面から受けることはせず、最小限の魔力による防御と、体さばきで炎を回避した。

 カルロの攻撃は一度では終わらず、連続でアンナに襲い掛かった。しかしアンナはそれらを一つ一つ丁寧に回避していった。

 しばらくしてカルロの攻撃がやんだ。この間、アンナは体勢を一度も崩すことはなかった。呼吸の乱れも無く、万全の状態でカルロと向かい合っていた。これならいつでも全力で反撃できるだろう。


「見事だ」


 カルロは連続攻撃をみごとに回避したアンナに賞賛の言葉を送った。


「ありがとうございます、お父様」


 父に褒められたアンナは額に汗をにじませつつも明るい笑顔を返した。


 そんな二人の訓練の様子を物陰から見つめている者がいた。木剣を探しに来たアランである。

 二人の訓練は何度か目にしているが、何度見てもすさまじいものだった。

 アランは剣の腕に関してはある程度の自信を持っていた。しかしいくら剣の腕を磨いても、父とアンナのような強い魔法使いに勝てるようになるとは思えなかった。

 アランは剣だけで父やアンナに勝つイメージが全く沸かなかった。

 二人の訓練を見ているうちに木剣のことなどどうでもよくなったアランは、静かにその場から立ち去った。


   ◆◆◆


 訓練場を後にしたアランはいつもどおりに城を抜け出し、近くの森で庶民の服に着替えた。

 貴族の格好で貧民街をうろつくと目立ちすぎるからだ。しかし今はあちこちに傷がある上に包帯まで巻かれていたため、違う意味で目立っていた。


(うーん、包帯がかなり目立つが、これは隠しようがないな)


 あきらめたアランはそのまま貧民街へ出かけた。アランはまず鍛冶場に赴き、しばらく鍛冶仕事の手伝いができないことを親方に伝えた。その後は特にやることが無く、ディーノの仕事が終わるまで適当に時間を潰すことにした。


(暇だな……)


 歩き疲れたアランは適当に腰掛け、貧民街の町並みと人々の往来をぼうっと眺めていた。


「おい、そこの兄ちゃん……なんだ、坊ちゃんか」


 ガラの悪そうな男が話しかけてきたが、相手がアランであることがわかった途端、少しイラついた顔をして去っていった。

 貴族という身分であるにも拘らず、貧民街に入り浸っているアランは有名人であった。貧民街の人間はアランのことを「貴族の坊ちゃん」と呼んでいた。

 当然この呼び方に親しみはこめられていない。ほとんどの人はアランのことをただの変わり者として認識していた。

 男の用事がなんだったのかはわからないが、どうせろくでもないことであろう。貧民街の治安はお世辞にも良いと言えるものでは無かった。

 男が大して絡まずに去っていったのは相手が魔法使いだとわかっているからだ。もし荒事になった場合、無能力者が魔法使いに勝つことは難しい。

 アランの魔法使いとしての能力の低さもまた皆の知るところであるが、それでも無能力者がアランに挑んでくることは普通無い。無能力者の大人と平民階級程度の魔法能力を有する子供が戦ったら子供のほうが勝つ、これがこの世界における一般的な認識であった。


 そう、魔法使いは強い。強すぎると言ってもいい。


(ならば無能力者が強い魔法使いに勝利するにはどうすればいい?)


 アランは昨日の父との訓練を思い出した。どうすれば父に勝てただろうか?

 あのとき自分は全力の攻撃を父に叩きこんだが、父の防御魔法を突破することはできなかった。

 そう、攻撃の威力が全く足りない。今の自分の体力と木剣では、父の防御魔法を突破して有効な一撃を当てるのは不可能に近いのではないか?

 もっと体力が必要だ。武器も木剣では話にならないだろう。もっと重いものでなくては。

 では防御のほうはどうだろうか。もし魔法使いに攻撃されたらどうすればいい?

 距離があれば魔法を回避できるかもしれない。しかしこちらの攻撃手段が近接攻撃しかない以上、ある程度の被弾は覚悟しなければならないのではないか。

 では剣で父の放つ魔法が受けられるだろうか? ……無理な気がする。相手の攻撃は広く、重い。こちらも大きなもので受けなくては。……やはり盾だろうか。


「………ラン!」


 アランは大きな盾と重い武器を持つ自分を想像した。……今の自分にはこんな重い装備は扱えない。もっと体を鍛えなくては。


(そうと決まればこうしちゃいられないな)


 そう思い立ち上がろうとしたアランは、ようやく自分の名前を呼ぶ声に気がついた。


「おい、アラン!」


 声の主はディーノだった。ディーノはアランの目の前で大きな荷物を持って立っていた。


「あ、すまん。考え事をしていたせいで気がつかなかった」

「お前その怪我は一体どうしたんだ」

「昨日の夜、親父にこっぴどくやられたんだ。そっちはまだ仕事中なのか?」

「ああ」

「そうか、なら先にいつもの場所に行って待っているよ」

「いや、この荷物を運んだら今日はあがりなんだ。ちょっとそこで待っていてくれ」


 そう言ってディーノは大きな荷物を持ったまま走り去っていった。

 背が高く体格も良いディーノは、重そうな荷物を持っているにもかかわらず、あっという間に貧民街の奥に消えていった。

 そんなディーノの後ろ姿を見送りながらアランは思った。ディーノなら自分が想像した重量装備でも自由に扱えるのではないかと。


   ◆◆◆


 アランは仕事を終えたディーノと一緒にいつもの場所へ向かっていた。


「で、昨日の夜になにがあったんだ?」


 アランは昨日の夜のことを簡単に説明した。


「厳しい親父さんなんだな。でもここまでやるか普通?」


 ディーノの同情に対しアランは苦笑いで返した。


「それにしてもお前でも全く歯が立たないとはなあ。その親父さんはどれだけ強いんだよ」


 ディーノはカルロの強さに興味津々な様子だった。


「その親父さんの魔法っていうのは、どんぐらいすごいんだ?」

「うーん、父の本気を見たことがないから正直よくわからない」

「じゃあ昨日お前が食らった魔法はどんな感じなんだ?」

「どんな感じと言われてもなあ。……でかくて固くて重い大男に、すごい速さで体当たりされてる感じかなあ」

「よくわからんが、なんかすげえ痛そうなのはわかった」


 何を想像しているのかはわからないが、うーんと唸(うな)りながらディーノは相槌(あいづち)を打っていた。


「なあ、お前の親父さんってこの国で最強の魔法使いだって言われてるんだろ?」

「ああ」


 次の国王であるとも言われているらしい。


「良かったじゃねえか」

「なにがだよ」

「だってその親父さんをぶっ倒せるくらい強くなれば、お前が最強だってことだろ? わかりやすくていいじゃねえか」

「すごく幸せな考え方だな」

「そんで親父を越えたお前を俺がぶっ倒して、俺が最強の称号を手に入れると。うーん、完璧な筋書きだな」

「なんだそりゃ」


 アランとディーノは笑いながら会話を続けた。


「でも今のお前が全く敵わなかったっていうのはちょっと驚いたなあ。こりゃあ俺が夢を叶えるにはもっともっと鍛えないと駄目かあ」


 アランの話を聞いたにも拘らず、ディーノは自分の夢を全くあきらめていないようだった。


「よし、じゃあ今日からはお前の親父さんをぶっ倒すことを目標にしようぜ!」


 突拍子(とっぴょうし)も無いことを言っているように聞こえたが、アランはディーノの提案に素直に賛同した。アラン自身気づいていなかったが、アランは常に父を意識して行動していた。アランは無意識のうちに自分の父を目標としていたのだ。


   ◆◆◆


 いつもの場所に着いた二人は適当に座りこんで今後どうするかについて話し合っていた。

 アランは魔法使いに立ち向かうにはなにが必要か自分の考えを述べた。もっと強力な武器が必要であること、魔法使いの攻撃から身を守るものが必要であること、そしてなにより大切であるのは、それらを不足なく扱える体力が必要であること。

 時々、相槌(あいづち)を打ちながらアランの話に耳を傾けていたディーノは、話が終わるとやや興奮した様子で口を開いた。


「お前が親父さんにぼこられた話を聞いたときは正直へこんでたんだけどよ。お前の話を聞いてたら、なんだか魔法使いにも本当に勝てるんじゃないかって気がしてきたぜ」


 ディーノは朗らかな表情で喋りながらアランの肩を抱き、じゃれあうようにアランの腹を小突いた。


「おいおい、ちょっと興奮しすぎだろ。ていうか腹を叩くのをやめろ。本当に痛いから」


 この日からアランとディーノはカルロという漠然(ばくぜん)とした目標を抱き、共に努力していくことになる。

 しかし二人はまだ知らない。後に二人は違う道を歩むことになることを。

 それが良いことなのか悪いことなのか、幸か不幸なのか、それはわからない。しかし二人はこの時を境に、着実に自分の道を歩んでいくことになるのであった。


   ◆◆◆


 ディーノと別れたアランは、帰り道で偶然リリィと出会った。


「やあリリィ。今日もこんな遅くまで仕事だったのか?」

「ええ、アラン。……あなたその怪我はどうしたの?!」

「ちょっと父に絞られたんだ」

「ちょっとどころじゃないじゃない。うちに来て。痛み止めの薬があるから」


 無理に断る理由もなく、アランはリリィの招待を受けることにした。


   ◆◆◆


 リリィの家に着いたアランは、そのままリリィの部屋へと招かれた。

 アランは最初リリィの部屋に入るのを少しだけ遠慮していたが、


「この時間なら母はもう寝ているから大丈夫よ」


 と言われ、促されるまま部屋へと立ち入った。


「適当にくつろいでいて。お薬を取ってくるから」


 アランはざっと部屋を見回してみたが、くつろげそうなものがベッドくらいしか見当らなかったため、そこに腰掛けて待つことにした。

 飾り気のない質素な部屋である。奴隷の身分だから当たり前なのかもしれないが。

 しかしリリィは奴隷にも拘らずれっきとした「家持ち」なのだ。奴隷のなかではかなり恵まれているほうである。

 こういう者は祖先に身分の高い者がいた場合が多い。いわゆる「没落貴族」というやつだ。ディーノの家もこれにあたる。

 しかしリリィの家のことはよくわからなかった。一度それとなく聞いてみたことがあるが、本人も詳しくは知らないそうだ。

 まあ他人の家をあれこれ詮索したところでしょうがない。アランはくだらないことを考えるのをやめ、大人しくリリィが戻ってくるのを待った。

 そしてほどなくして、リリィが薬を持って戻ってきた。


「じゃあアラン、包帯を外すわね」


 リリィはアランの隣に腰掛け、上着を脱がし、慣れた手つきで包帯を外していった。

 そしてリリィはアランの素肌に指を這(は)わせ、その傷口をなぞっていった。

 先ほどの包帯を外していたときとは違い、今のリリィの指の動きはどこかぎこちなく、緊張しているのが見て取れた。

 薄暗い部屋で年頃の男女が二人きりなのである。無理も無かった。しかもアランは上半身を晒している。

 アランの無駄なく鍛えられた体はリリィの目には毒であった。リリィの顔は明らかに紅潮していた。

 ……しばらくしてリリィの手が止まった。終わったようだ。

 しかしリリィの手はアランに触れたまま動こうとしなかった。

 アランはリリィの肩にそっと手を回し、抱き寄せた。

 リリィの体は一瞬震えたが、拒絶する素振りは見せなかった。

 二人の顔はゆっくりと近づき、もう少しでお互いの唇が触れ合いそうに――


 ……二人の唇が届くことは無かった。直前でリリィが顔を背けたのだ。


「ごめんなさいアラン」


 そう言いながらリリィは慌ててアランの包帯を巻きなおし、ベッドから立ち上がった。


「……今日はもう帰って」

「……わかった。……また来るよ、リリィ」


 アランはこの場は大人しく帰ることにした。


 城への帰り道、アランは悶々とした気持ちを紛らわせるために、独り言を呟いていた。


「駄目だな俺は。女一人押し倒す勇気もない」


 身分が違う、父が恐ろしい、言い訳はいくらでも思いつくが――


「……くそっ」


 アランは最後にそう吐き捨て、路傍(ろぼう)の石を蹴り飛ばした。


   第二話 戦いの始まり に続く

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