僕が先輩に話しかけて良いたったひとつの理由

森小路なお

これで駄目なら

 在校生送辞が読まれる間、僕はずっとズボンの左ポケットに入れた薄い金属板を薬指で撫でていた。

 進学や就職、はたまた浪人が決まった三年生の先輩達が、今日、この高校を卒業する。

 在校生送辞は、同じクラスの松本だった。毎年必ず、期末テストの成績優秀者が送辞を行うというのは今朝はじめて知ったが、どちらにせよ僕には関係のないことだった。高校生になって2年間ずっと、僕の成績は下から数えた方が早い。

 松本のよく通る声が卒業式場と化した体育館に響く。

 遠くから、近くから、さざ波みたいにすすり泣く声が聞こえた。別れがつらい先輩がいるというのは、どんな気持ちだろう。僕みたいに帰宅部だと、仲の良い先輩もいない。

 いや、だがしかし、別れがつらい先輩がいないわけじゃない。

 ひんやりとした金属板を指でなぞる。いつもズボンのポケットに入れているこの平たくて小さな板は、僕とひとりの先輩をつなぐ唯一の、細い細い糸みたいなものだ。

 送辞が終わりにさしかかる。

「先輩方の、これからの益々のご活躍とご健康をお祈りし、送辞とさせていただきます」

 松本の、はっきりとした声の余韻が、体育館の高い天井に霧散した。 

 僕はポケットの金属板を、ぎゅっと握る。次は、卒業生の答辞だ。

「卒業生答辞、望月まな」

「はい」

 凛とした声で応え、黒い髪を頭の後ろで一つに束ねた先輩が立ち上がった。背すじを伸ばして歩き、ステージに登壇して、みんなを見下ろす。すっくとした立ち姿が、まるで一羽の鶴のようだった。それはあまりにも遠くに見えた。同じ高校に通っているのに。今まさに、同じ体育館にいる筈なのに。

 先輩はさえずるような、それでいて芯の強さを思わせるような声音で、はっきりと答辞を読み上げる。

「冬の寒さもようやく和らぎ、穏やかな春の兆しが、すぐそこまで感じられます」

 先輩の声を聴きながら、僕は思い出す。

 一年生の頃の僕。

 期末テスト前の図書室。

 明けない梅雨に、身体も精神もじめじめと蝕まれてじっとりしていた。 

 僕は解けない数学の問題を前に湿度を呪っているところだった。

 女の子が二人、窓際の席に並んで座っていた。胸元のリボンが赤い。ひとつ上の学年だ。

―あー、もう。やめやめ

 片方が言って、集中できないのは僕だけではないと知った。

―わたし帰るわ。まなは?

―わたし、もう少し勉強していく

―そ。じゃあ、また明日

―うん、またね

―うん

 そう言って、ひとりはスクールバッグを肩に下げて図書室から出て行った。

 僕は、残った方の上級生を盗み見た。連れ立って出て行かなかったのを珍しく思ったからだった。特に誰も一緒にいるやつがいない僕みたいなのならまだしも、進んでひとりになれる人間がいるなんて。

 黒目の大きい一重の目。

 流れるような黒髪。

 梅雨の陰気なんて何でもないというような涼やかな表情で、ひとりでシャーペンを動かす先輩。

 僕は数学の問題集に視線を戻した。

 時折、辞書をくる、ぱらり、という音が聴こえてくるのが心地よかった。

 静かな空間に、思い出したように訪れる、ぱらり。ぺらり。シャーペンの先と、ノートの擦れる音。

 鬱蒼とした曇り空のせいで時間の感覚は失われた。

 そのうち、かたん、と椅子の動く音がして顔を上げると、先輩が荷物を鞄にまとめていた。

 僕は盗み見たことを気取られないよう、シャーペンを握り直してノートを見つめた。先輩が図書室を出て行く。気づけば下校時刻だった。

 僕は数学のノートやら問題集やらをまとめて鞄につっこみ、それから窓際まで歩いた。

 さっきまで先輩の座っていた机。

 ふと、机の上に、金色に輝くものがあるのに気付いた。

 薄くて平べったい、金属製の何か。トランプのカードより一回りか二回りくらい小さいそれを、僕はそーっと手に取った。

 先輩の忘れ物はフクロウをかたどった栞だった。

「最後になりましたが、今日まで私たちを支えてくださった皆様に、改めてお礼申し上げます。本当にありがとうございました」

 先輩が頭を下げ、そこで、僕は我に返った。答辞が終わる。

「母校のますますのご発展をお祈りし、答辞の言葉とさせていただきます」

 先輩が締めくくり、僕は、ポケットのフクロウをそっと撫でた。




 望月先輩と同じ空間にいたのは、一年生の六月。あの時が最初で最後だった。

 そして、その時から、フクロウの栞は、ずっと僕のポケットに居座っている。

 玄関から校門までは、式の厳かなムードと一変して、お祭り騒ぎだった。生徒会が先生を引っ張ってきて変なポーズを取らせている。陸上部が寄せ書きされたゼッケンをつけて走り回っている。吹奏楽部が校門をくぐる先輩に向けてファンファーレを鳴らし、小さな花束を持った卒業生たちがこの後のカラオケの予定を楽し気に話ながら隣り合って歩いていく。

 僕は、喜び溢れる玄関前、左ポケットに手を突っ込んだまま、先輩が出てくるのを待った。

 そっと、金属のフクロウに触れる。

 本当はすぐにでも返したかったし、何度も返そうと思った。でも、話しかける勇気が足りなかった。そうして、ずるずると、一年以上、フクロウは僕のポケットに居座り続けた。

 今日しかない。

 下駄箱のところに、先輩の姿が見えた。先輩が、友達と笑い合いながら、ローファーに爪先を入れる。

 踵までがすっぽりと入る。

 先輩が玄関に向けて歩き出す。

 すっくとした鶴が、僕の方に向かってくる。 

「先輩」

 緊張で、ひどくしわがれた声が出た。ごほごほ、と僕は咳ばらいをする。

「あの、先輩」

 玄関ドアをくぐった先輩は、黒いポニーテールを揺らして、僕の隣をすり抜ける。あまりにも声が小さすぎたのだ。それに、先輩、じゃ、誰のことかわからない。

 僕は、ポケットのフクロウをぎゅっと握りしめ、意を決して振り返り、そして叫んだ。

「望月先輩!」

 僕と先輩を繋ぐ細すぎる糸。

 僕が先輩に話しかけていいたったひとつの理由。

 最初で最後の切り札。

「望月先輩」

 先輩が僕を見る。

 初めて、先輩と目が合った。望月先輩はきょとんとしていた。

「あの」

 心臓が早鐘を打つ。

 手のひらにじんわりと汗が滲んでくる。

 顔が真っ赤になっているのが自分でもわかった。

「先輩の忘れ物を、どうしても、渡したくて」

「忘れ物?」

 先輩の切れ長の目が、僕を見る。

「はい、あの、図書室に」

 言いながら、僕はポケットからフクロウの形に抜かれた金属の栞を取り出し、ずい、と先輩に頭を垂れて差し出した。

「あの、ずっと前なんですけど、でも、その、あの、渡すタイミングがなくて」

 頼む、と心の中で唱える。カッコ悪いと思われるのはまだ良い。気持ち悪いと思われたら終わりだ。

 身体を直角に折り曲げたまま、僕はぎゅっと目を瞑った。汗が鼻先からぽたりと地面に垂れた。

 同時に、指先から、金属の感触が消える。

 顔を上げると、先輩がフクロウをつまんで、くるくると裏表を眺めていた。

「わたしのだわ」

 そう呟いて、先輩は僕を見て笑った。

「ありがとう。これ、気に入っていたの」

 先輩が、僕を見て、笑った。

 黒目の大きい一重が弧を描き、僕の心臓を破裂させた。

 先輩の視線が栞に戻り、それから再び僕に向けられた。先輩は微笑みながら会釈する。

「じゃあ」

 そう言って、先輩が振り返る。小さな耳が見えたと思ったら、ポニーテールが揺れて、襟から少しだけのぞくうなじが直ぐに遠くのものになった。紺のブレザーを着てぴんと伸びた先輩の背中が、僕から容赦なく離れていく。

 急に、目の前が真っ暗になった。

 先輩が友人と肩を並べて離れていく。当たり前だ。

 僕と先輩を繋ぐものは無くなった。

 切り札のフクロウは使ってしまったのだ。

 足元がぐらぐらする。

 僕と先輩を繋ぐ細い糸。ずっとポケットに入っていたフクロウ。

 もう先輩に話しかけて良い理由なんてなかった。

 先輩の姿が、急速に遠くなる。

 お祭りムードの校門が、ガラスの向こうの別世界みたいに見えた。

 おでこから汗が流れて、顎の先からぽたりと垂れた。

「待ってください!」

 口をついて、思わず叫んだ。

 ぎょっとして先輩と、先輩の友人が振り返った。

 身体中の至るところから汗が噴きだした。生え際、手の平、背中。震える声で僕は言った。

「あの、僕と」

 僕と、なんだ。僕は何を言ってるんだ。

 付き合って下さい?

 高望みすぎるだろ。

 友達になってください?

 いや、何を馬鹿げたことを。

 どうしよう。

「僕と」

 僕と、なんだ。なんだ、なんだ、なんでもいいから、出てこい。言葉。

「あの、僕、先輩と」

 なんて言えば良い。先輩のきょとんとした目が、まっすぐ僕に向けられている。

「僕、先輩と、もっと話したいです!」

 先輩は白目の部分が見えるほど、ぱっちりと目を見開いた。開きかけた口が、それ以上開かないのを見て、僕がぞっとしかけると、その前に、先輩の隣にいた上級生が噴き出した。

 あはははは、と彼女が声を出して笑う。

「まな、何この子。面白すぎる」

 片方の手で目尻を拭いながら、片方の手で腹を抱える彼女に見覚えがあった。そうだ。あの梅雨の日、先輩と一緒にいた女の子だ。

 望月先輩は、笑い声を上げる友人を、きっ、と見た。そのきりりとした目元に反して、頬が赤くなっていることに気がつき、僕は狼狽えた。

 先輩は、こほんとひとつ咳払いしてから僕を見た。

「あなた、名前は」

「あ、はい、清水・・・です」

「そう、清水くん」

 先輩は、周囲をうかがうように、そうっと視線を巡らせながら小さな声で言った。

「その、恥ずかしいから大きな声でそういうこと言わないでもらえる?」

 終わった。

 先輩は、前髪のはしを耳にむかって掻き上げた。

 それから、信じられないことを言った。

「それで、とりあえず・・・そうね、LINEのIDでも教えてくれる?」

 先輩の右手で、陽光を受けた金属のフクロウが煌めいた。

 あたたかい春風が吹いて、先輩のポニーテールを揺らす。

 なんてことだ。

 僕はしばらく、固まったまま、動けなかった。

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