土曜の喫茶店

月満輝

土曜の喫茶店

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

 マスターのゆったりとした口調に、つい口元が綻ぶ。いつもので。そう言うだけで、彼は棚からいくつか袋を取り出し、コーヒーミルに目分量で豆を入れる。カリコリと音がし始めて少しすると、ほのかに匂いが漂ってきた。コポコポと注がれるコーヒーの匂いが鼻腔を通り、肺に溜まる。それだけで幸福感を味わえる。

「今日も、待ち合わせですか?」

 カップを差し出しながらマスターは言った。こくりと頷くと、マスターもにこやかに頷いた。

 毎週土曜日、日が沈み始めるこの時間に、街外れにあるこの小さな喫茶店で彼と待ち合わせをするのが、咲の習慣であり、楽しみだ。カウンターの端に座り、窓の外を眺めながら彼を待つ。そして、彼は窓の外から咲を見つけて、嬉しそうに手を振る。なかなか会えない二人の、至福のひとときだった。

 目の前に置かれた皿には、クマのクッキーが沢山盛られていた。

「頼んでませんけど?」

 そう言うと、マスターは照れくさそうに微笑む。

「最近、お子様連れの方もご来店されるようになりましたので。こんな新商品はどうかと思いまして」

 咲は一つ手に取り、頬張った。こんがりとした甘い味が口に広がった。

「美味しいです。それに、可愛いし。いいと思いますよ」

 マスターは嬉しそうに頭を下げた。

 窓の外がオレンジ色に染っていき、彼が来る時間が迫ってきた。コーヒーとクッキーを交互に口にしながら、彼が窓の外に現れるのを待った。しかし、彼の姿はいつまで経っても見えない。徐々に外は暗くなり、遂に日は落ちてしまった。空になったカップの底にできた三日月を眺める。もう何時間も彼からの連絡はなく……

 ブーッ、ブーッ、

 突然携帯のバイブが鳴った。つけているフクロウのお守りがチリチリと音を立てる。画面には彼からのメッセージが表示されている。

『今、まだ喫茶店?』

 ご馳走様、と勘定を済ませる。扉を開ける前に視界の端で見えたマスターは、私を、切ない顔で見ていた。

 喫茶店の外に出ると、彼は立っていた。

「マサ? もしかしてずっとここにいたの?」

 雅之はポケットから手を出し、首を横に振る。どうやら今来たようだ。その顔は、いつもと全く違う。彼の顔は影が落ちているように暗かった。

「どうしたの。何かあったなら連絡くらいしてくれてもいいじゃない」

「ごめん……」

「なにか、あったの?」

 雅之は俯いて視線を逸らし、しばらく考えてから、顔を上げた。

「別れよう」

「……え」

 それはとても唐突で、頭が追いつかなかった。つい先週まで嬉しそうに咲に逢いに来ていた彼から出た言葉とは思えなかった。

「私、なにか悪いこと……」

「違う、そうじゃなくて」

 雅之は食い気味に否定した。とても苦しそうな顔で、先に伸ばした手を、すっと引いた。またしばらく考えて、きつく結んだ口を開く。

「咲がどうこうってわけじゃなくて、なんて言うか……すごく、我儘なんだけど、俺の気持ち、っていうか……」

 咲は悲しみ、同時に安堵した。零れそうな涙を抑え、にっこりと笑ってみせた。雅之は目を丸くして咲を見つめた。

「わかった。良かったー。私、マサになにか酷いことしちゃったのかと思っちゃった」

「……」

 何かを言いかけた口は、一度少し開いただけで、また固く結ばれた。咲は目を擦り、携帯に着いていたお守りを、雅之に差し出した。彼は眉をへの字に歪ませ、少し首を傾げた。

「これ、返すよ。他にもフクロウはいっぱい貰ったし。お守りだから、マサに持ってて欲しい。いらなかったら……神社に持っていくといいよ」

「咲……」

「じゃあ……バイバイ、津上くん」

 半ば強引に会話を終わらせ、足早に立ち去った。小さな声で「ごめん」と言うのが聞こえたが、気付かないふりをした。帰るまで、帰るまではと、歯を食いしばって堪えた。

 彼女の背を目で追う。角を曲がって咲の姿が見えなくなると、一筋、頬を涙が伝った。左手の中の、チリチリと音を立てるフクロウをポケットにしまう。

「これで、良かったんだ。これで」

もう一度、角の方を見た。

「さようなら、咲」


 あれから一週間が経ち、土曜日がやってきた。三日月にフクロウが乗っているというデザインのネックレスは、雑多な化粧台の上に埋まっている。ここ数時間、ずっとそれを見つめている。出かける予定なんてないのに、なぜお洒落なんてしてしまったのだろうと、蹲っていた。つけっぱなしのテレビでは、行楽情報が伝えられている。チャンネルを変えようとしたその時、洋菓子店の映像が流れた。甘そうなケーキやタルト、そして、クッキー……

 咲は服装を整えて出かけた。フクロウのネックレスをつけて。


「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

 いつもと変わらない口調で、マスターは言った。いつもの、と言いかけて、メニュー表を見た。新しいデザインの一番下に『どうぶつクッキー…くま、うさぎ、りす、ふくろう』と書かれている。

「えっと、じゃあいつものと、どうぶつクッキーで」

「どの動物にします?」

「ふくろうで」

 マスターは嬉しそうに頷く。棚から袋を取り出し、コーヒーミルに入れた後、カーテンの向こう側へと消えていった。

 ふと窓の外を見ると、日は既に落ち、街灯がコンクリートを薄らと照らしている。今思い返すと、あの時、彼の顔はよく見えなかった。俯き気味のその表情には、影が落ちているように感じた。

「お待たせしました」

 コーヒーと一緒にさらに盛り付けられたフクロウのクッキーが出てきた。

「かわいいですね」

「ありがとうございます」

 一つ手に取り、その姿をよく眺める。口に運ぼうとして、ハッとして手を止めた。何故かそのフクロウには見覚えがある気がする。もう一度まじまじと眺めると、雅之が言っていたことを思い出した。


「かわいいだろ、このフクロウの人形」

 うん、すごくかわいいね。どうしたのそれ。

「なんか、メッセージフクロウって言って、このフクロウの背中のポケット、ほらここね。ここに手紙が入れられるんだよ」

 へぇ。手紙書いたの?

「うん、まぁ」

 見せてよ。

「だ、だめだよ!その時が来るまで見ちゃだめだから」

 何よ、その時って。

「いや、まぁそれは……」

 

「その時が来ればわかるよ」


「メッセージフクロウ……」

 弾かれたように体が動き始めた。扉へ向かおうとしていた自分を抑え、カウンターへ戻った。

「すみません。お勘定を」

 すると、マスターは嬉しそうに、優しく笑った。

「いいんですよ。今日は私の奢りです。早く行ってあげてください」

 咲は何となく悟り、ありがとうございますと頭を下げて扉に手をかけた。

「お客さん、フクロウですよ」

 マスターに念を押され、大きく頷いて、店を後にした。


 部屋に転がり込んで、フクロウを探した。ホコリが被らないようにように、たまに手入れをしていたため、それほどくたびれていない。背中の手紙は少し色褪せていた。


咲へ

 君がこの手紙を読んでいるってことは、もう君の元に僕はいないのだろう。僕が君にどんなふうに別れを切り出したのかはわからないが、もし傷つけていたら、ごめんなさい。きみとであってからきめていたことがある。病状が悪化したら、君から離れる。僕の命はもう短いかもしれない。君に迷惑はかけたくない。我儘でごめんなさい。ありがとう。さようなら。愛しています。

 雅之


「本当に、どこまでも、不器用なんだから……」

 手紙を胸に押し当てて、声を殺した。話してくれなかったことへの悲しみと、気づいてあげられなかったことへの悔しさで息が詰まる。会いたい。会って話をしたい。叱ってあげたい、謝りたい。今更なことだと分かっていても、そんな思いが巡るばかりで、しばらくの間、その場から動けなかった。膝の上に寝転ぶフクロウを見て、雅之に貰ったお守りを思い浮かべた。チリチリとなるフクロウが、とても愛らしかった。なんのお守りだったか……

『お互いがどこにいても、ずっと一緒でいられるように』

「お客さん、フクロウですよ」

 彼の言葉と、マスターの一言が重なり、合点がいった。雅之とマスターの意図するは、あのフクロウのお守りの神社だ。

 咲は手紙をポケットに入れ、荷物をまとめて部屋を飛び出した。駅までの道を必死で走る。何とか最終列車に乗り込んだ。電車に揺られながら、息を整えた。窓の外には大きな三日月が浮かんでいた。もう手遅れかもしれない。胸が痛いほど締め付けるが、今はこうするしかない。咲は、間に合え、間に合えと心の中で念じた。

 やがて、目標とする神社と、その横に、大きな病院が現れた。


「会えましたかねぇ……」

 マスターはカップを拭きながらため息をついた。

 あの日、彼が言ったことには驚かされた。自分に協力して欲しい、と。常連客の女性の彼氏だということは何となく察していた。彼には、ちゃんと話しをした方がいいんじゃないかと提案したが、それは嫌がった。断る理由もなく、彼と彼女のためにフクロウのクッキーを作った。彼女が飛び出して行った時、ほっと胸を撫で下ろした。

 クッキーを綺麗に箱詰めして、リボンで飾った。

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