声が聞こえた気がしたんだ

小峰綾子

声が聞こえた気がしたんだ

声が、聞こえた気がした。


風の音だったのかもしれない。またはただの気のせいだったのかもしれない。でも、あの子の声のような気がしたんだ。そして思った。自由になりたい、この場所から逃げ出したい。


私たちが住んでいるマンションの1階に「ふくろうカフェ」ができた。店の中には何台かの、ふくろうが止まるための台や木の幹が設置され、ふくろうやみみずく達が止まっていた。ふさふさした羽、丸みを帯びた頭と、意外にほっそりした2本足。昼間のぞくと大体眠たそうな顔をしていたが、パッチリとその目を開くとクリっとして愛らしい。

「かわいい」

「え、こんな獣のどこがかわいいのか全然分からないな」

私はふくろうたちに愛着を感じていたが夫の直之は、彼らはかわいいとは思わないようだ。そもそも彼はあまり動物に興味がない。犬や猫も嫌いというほどでもないみたいだが、特にそれらを愛でたり世話をしたいという感覚はないらしい。


自宅マンションの1階にあるのでいつでもカフェに行くことはできるが、いつでも行けると思うとつい延ばし延ばしにしてしまうのが人間の性分というものだろう。でも、スーパーのアルバイトに行く前、帰り際や買い物のついでなどにちょっと覗いていくのが習慣にはなっていった。

毎日覗いているとやはり推しのふくろうというものが現れる。入り口近くにある台によくとまっている小さめのふくろうに私はシンパシーを感じるようになった。店のホームページによると「フクスケ」という名前なんだとか。


「おい、何ずっとスマホばかり見てんだ」

直之がいう。いつの間にかふくろうカフェのホームページでずっとふくろうたちの写真を見ていて時間が経っていたようだ。

「おいって」

直之は近くに来てスマホをのぞこうとするので咄嗟に胸の前において画面を隠す

「なに?なんで隠したの?見せられないものでも見てたの?」

彼は私がスマホを見て時間を費やすこと、また見られるのを拒否することをとても嫌がる。

「そんなんじゃないよ。急に来るからびっくりしただけ」

今まで見ていた画面を直之の方に向ける。

「下の、ふくろうのカフェ、あるでしょ?そこのホームページ見てたの」

「ふうん。」

「ナオくん、あまり興味ないみたいだから。見ても面白くないかな、と思って」

「分かったよ。別にもう良いって。でも一緒にいるのにスマホばかり見てんのは気分悪いから」

今日はあまり機嫌がよくないらしい。夕食があまり好みの味付けでなかったのだろうか。そういえば習慣にしている食後のコーヒーをまだ淹れていなかった。

「怒んないでよ。気を付けるから。コーヒー飲む?」

「いい。後で。先に風呂入ってくる」

さっきのことは許してくれたのだろうか。機嫌は直ったのかそうでもないのか、無表情のまま彼はお風呂へ向かっていった。


これは、DVなのだろうか。ぼんやりと思うことがあった。そんなことを考えている時点でうしろめたい気持ちになってしまうのだが。直之は、私を殴ったりはしない。怒鳴ったり罵倒したりもしない。過度な束縛もないと思う。では、この息苦しさは何だろう。機嫌のよい直之のことは好きだ。優しいし、気が利く。でも、いつからこうなったのか、いつの間にか直之の顔色をうかがい、不機嫌にさせないように気づかうようになっていた。


ふくすけは今日も外から見える場所にいた。

「ふくすけ」

小さな声で読んでみた。ガラスで隔てられているので聞こえるわけもないが、ふとこちらに目を向けて首をかしげて見せた。彼の足には、細いロープのようなものが括りつけられていている。万が一脱走を試みても外には出て行けないようにしているのだろう。


「来月の連休で、1泊か2泊で実家に帰ろうと思うの。最近顔を出してないし。いいかな?」

恐る恐る聞いてみたが、直之が眉をひそめるのを私は見逃さなかった。

「え、でもその日は俺は健一たちと旅行だって、言ったよね」

「分かってるよ。だから私だけで帰るって意味だよ」

「そんな、お前だけ顔出して俺はいかないって、失礼じゃねぇか。なんでそんなこと勝手に決めるの?」

「失礼じゃないよ。うちの親、そんなこと気にしないし。」

「それはお前が決めることじゃない。」

直之は声を荒げる。

「ちょっと考えさせてくれ」

「え、でも、もう帰るって言っちゃったから。」

「おい、だからなんで何の相談もなしに」

そこからは、いつもの如く不毛なやりとりだった。なぜ、直之は私の行動すべてを把握していないと気が済まないのか。そもそも彼がいないときに私が何をしていようが影響はないはずだ。自分の実家に帰るのに彼の許可を得る必要もない。しかしこんなことは、結婚生活が始まってからこの3年間、何度も何度もあった。職場の人たちの飲み会、大学時代の友人との旅行、実家への帰省など、いつも彼の機嫌を損ねないように数日前から注意を払わなければいけなかった。テレビを見るのもご飯を食べるのも極力二人でしたがる彼。しかし、いつでも機嫌を損ねる訳ではない。疲れた時、何か嫌なことがあった後はその傾向が強くなることも分かっていた。調子のよい時は平気だったりもする。でも、それもそれで厄介だ。ダメなものはダメ、で一貫しているほうがまだわかりやすい。その日の直之の顔色、疲れ具合、機嫌を見て出方を考えなくてはいけないのも神経を使うのだ。


直之が起きている時間はいつも監視されているような感覚で息が詰まるので、わたしが一人で好きなことをやるのは彼が寝静まった真夜中に布団を抜け出すしかない。今日も夜中1時を回ったころ、彼の寝息を確認してからそっとリビングに移動する。この時間に一番元気なれるなんてまるで夜行性の動物のようだな、と思う。雑誌を読みながらハーブティを飲む。ほんの少しの時間だがようやく呼吸ができるような感覚。そうだ、今日もふくろうカフェのブログを見ておこう。


ふくろうカフェに足を運べない理由はもう一つあって、それは「彼らは幸せなのだろうか」と考えてしまうからだ。本来愛玩動物として育てられていない猛禽類たちを、人間の都合で狭い店の中に押し込め、自由に飛ぶこともできず、望んでもいないのに人の肩にのせられ、触られる。猛禽類を扱うカフェに関してそのように意義を唱えている人がいるのも何かの記事で読んだことがある。ここでは飢える心配もない。危険もない。でも、自由はない。

でも、店の中で過ごすふくろうたちは、嫌がって暴れたりすることもなく、素直に人間の腕や肩にのせられている。結局、彼らが幸せかどうかということを人間が理解することなんてできないのかもしれない。しかし、同じマンションの1室に住む自分が、体は自由でありながら、見えない足かせをはめられて身動きが取れない自分のイメージと重なるのだった。


「ふくすけが迷子になってしまいました」


いつもと様子が違う赤い大きめな文字で、トップ画面にそう書かれていた。驚いてよく記事を読んでみると、今朝出勤してきたスタッフがお店のエントランスを開けたときにフクスケが飛んできて、そのまま外に出て行ってしまったとのことだ。足につけられていたロープは、原因は分からないが外れていたようだ。


次の日お店を除くと、ドアの前にもふくすけ捜索のためのビラが貼られていた。毛の色や大きさなどと、見つけた際の連絡先などが書かれている。大丈夫だろうか。一度逃げてしまったふくろうが再び保護されることなんてあるのだろうか。彼らは肉食だ。食べるとしたらネズミやトカゲなのだろうか。この辺は緑がないわけではないが、豊かにあるとはいいがたい。その中で生きていけるのだろうか。


「ふくろうが脱走しちゃったんだって」

「ふーん」

直之は、興味がない様子でスマホに夢中だ。この人は動物に興味がない。いや、それだけではない。私の話に興味がないのだ。私がスマホを数分見ていただけで機嫌が悪くなるくせに、私が皿洗い、洗濯物の片づけをやっている間ずっとソファでねころんでスマホを見ているのは何なのだろう。


ふくすけの脱走で自分の中で何か歯止めが効かなくなっている。気になり始めたらなかなか止められない。


その日も一人になりたくて、布団を抜け出すが今日に限って直之を起こしてしまったようだ。

「何、どこいくの」

「ちょっと、眠れないから本でも読もうかと。先に寝てて」

「なんだよ。いい加減にしろよ」

さすがに夜2時で眠かったようで、そのあとすぐに寝息を立て始めた。


台所でお湯を沸かしながら、ついにこらえきれなくなり、泣いた。苦しい、苦しい、自由になりたい。どこでもいい、ここでないところに行けるのなら。


その時だ


ほう


風の音か、それとも気のせいだったのかもしれない。でも、咄嗟に、ふくすけの声だ、と思った。同時に、抑えていた気持ちがあふれ出した。逃げ出さなければ、足かせを外して、今すぐに。


次の日の朝、努めていつも通りの顔をして直之を見送った。ドアが閉まった瞬間、私は行動を開始した。とりあえずの荷物をキャリーケースに詰めて、家を飛び出す。

でも、逃げ出すことはできたとして、どうするのか。マンションを出たとたん不安な気持ちが襲ってくる。パートはどうするのか、どこへ行くのか。盛大な結婚式をした後でこんなことになって、親や親せきになんて説明するのか。そして、この生活から抜け出したって幸せになんてなれないんじゃないか。


でも


脱走したふくすけが幸せか、自由を感じているかなんて、私には知る由もない。でもきっと、今より良い場所を求めて必死で飛び立ったのだろう。足かせを外して、タイミングを計って。

あの子は、きっと後悔なんかしてない。どちらを選ぶか、それだけだったのだ。


触れたこともない小さなあの子が

「自由になっていいんだよ」

あの時そう言ってくれた。後悔はしない。そう信じて私は、一歩目を踏み出した。

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