森の死神

怠惰なアゲハ蝶

 とある国のとある街から数キロ離れた、人気のない森の中にその家はあった。壁には蔓が這いずり、窓の一部が割れているため、一見誰も住んでいないように見える。しかし、扉の前に同じ足跡がいくつも付いていることから、少なくとも一人は生活しているのが分かる。事実、その家には一人の老人が住んでいた。そう、住んでいるのは、だ。


 しかしその日は違った。その老人以外にも、もう一人男がいたのだ。家族か、はたまた友人か。いや、それはないだろう。なぜなら、男が老人を椅子に縛り付けていたからだ。老人がそういった趣味を持っていない限り、これは犯罪だと断定していいはずだ。


「このクソジジイ、手間を取らせやがって」


 老人を縛り付けながら悪態を吐くこの男は、街から脱獄した罪人であった。罪状は窃盗に殺人、強姦と、もう死罪が確定した人物だ。しかし不意をついて警官を殺害し、街でナイフを奪って逃走。行く当てもなく走り続けてたどり着いたのがこの小さな古びた家だった。

 始めはこんな所に人が住んでいるのかと目を疑った男だったが、こんな森の奥だ。警官に見つかる心配も激減する。それに、人が住んでいるということはここで生活ができているという証拠だ。水もあれば食料もある。身を隠すにはうってつけだった。まさに神が与えてくれた絶好の機会だ。

 そう考えた男は、その家の住人がいないことを確認すると家の中に身を潜め、帰宅したところを拘束した。


「ヘッヘッヘ。ジジイ。しばらくの間厄介になるぜ」

「……」


 老人には怯えも怒りも悲しみも、全く表情には出ていなかった。しかしそんなことにも気付かずに、やり遂げたという満足から男は慢心していた。


「安心しろよ。殺しはしねぇ。お前には色々と聞きたいことがあるからなぁ」

「……何が望みじゃ?」

「ここでの生活の仕方を聞きてぇだけだ。俺には森の中で生活する知識はねぇからな。ジジイはここに住んでんだろ? 色々と教えてくれよ。なぁ? そうすりゃ、残り少ない余生を楽しむことができるんだからよぉ」


 もちろんそんなのは嘘だ。男に老人を生かしておくつもりはさらさらなかった。これまで何人もの人を殺してきた男にとって、殺人をするのは娯楽に近かった。老人から生活の仕方と食料の場所を聞けば、すぐにでも殺すつもりだった。


「断る、と言ったら?」

「その時は殺すしかねぇよ。役に立たないのなら殺す。当たり前だろ?」

「……お主、歪んでおるのぉ」

「俺が? ハハッ! 歪んでんのはテメェらの方だ。人間っていうのはなぁ、欲望に従順なんだよ。俺からすれば欲望を抑える連中の方が頭がおかしいぜ」


 そう言って男はゲラゲラと笑った。対する老人は未だに表情を変えない。男が狂ったように笑っても、冷めた目で男を見続けていた。


「それでジジイ。返事は?」

「……仕方あるまい。水と食料の場所は教えよう。生活の仕方についてはまた明日じゃ」

「いいねぇ、俺は好きだぜ。聞き分けのいい奴はな。ジジイには長生きして欲しいもんだな」


 心にも思っていないことを吐きつつ、男は不敵な笑みを浮かべた。うまくことが運び、神が手助けをしてくれているのだと再確認した男は、早速老人から水と食料の場所を聞き出した。


「そこの床下に水や食料が入っておる」


 老人に言われた場所を探すと、そこには水やパンだけでなく酒やベーコンなども置いてあった 。


「酒だ! 肉だ! やったぜ!!」


 ますます気を良くした男は、次から次へとそれらを平らげていく。もう何日もまともな食事を食べていなかった男にとって、目の前の食べ物は高級料理店で出てくる料理と同じくらい美味いと感じるものだった。

 そのためだろう。食事に夢中になっていた男は、初めて老人がかすかに受けべたその表情を見ることはなかった。


 翌日の昼過ぎ。

 ようやく目を覚ました男は、痛む頭を抑えながら水を胃の中へと流しこんだ。久しぶりの酒に感動して飲みすぎてしまったらしい。周囲を確認して数瞬、ようやく男は現状を理解した。そういえば、自分は逃亡してきたのだと。


「随分と遅い起床じゃのう」


 声のする方に視線を向ければ、そこには未だに椅子に縛り付けられた老人がいた。あまり眠れていないのか、顔に疲労が浮かんでいる。


「そう言うジジイはよく眠れたか?」

「こんな状態で眠れたように見えるのかのう」

「ハハッ! 違いねぇ! だが紐を解くわけにはいかねぇな。俺はまだテメェを信用してねぇ」

「どうしたら信用してくれるのじゃ?」

「そうだな……、生活の仕方を教えてくれたら考えてやるよ」

「……分かった。教えよう」


 もちろん男は嘘をついている。しかし、それに気づかないのか、老人は男の要求をあっさりと飲んでしまった。


「では外へ向かう。足の拘束を解いてもらえんかのう」

「いいだろう。だが、不審な行動はするなよ? その瞬間俺はテメェを殺す」


 男は腰に差していたナイフをチラつかせながら、いつでも殺すことができることを老人に見せつけた。対する老人はいつも通り表情を変えずに、小さく頷く。


「それでいい。テメェは黙って俺の言うことを聞いていればいいんだ」


 男は老人の拘束を一部解き、老人と共に家を出て森の奥深くへと入っていった。それが死神に目を付けられる行為だとも知らずに……。





 昼間にも関わらず、森の中は薄暗く肌寒い。牢屋を出てきた時の、薄着の服装のままだったため、よりそれが強く感じられた。老人を先頭に、奥へ、奥へと突き進んでいく。目印がなければどこから来たのか分からなくなるほどに景色が変わらない。見渡す限り木ばかりだ。


「なぁ、ジジイ。どこに向かってんだよ」

「水があるところじゃ。人間、水がなければ生きていけん」

「つっても、どこから来たかなんて分かんねぇぞ」

「感覚じゃよ。それにまっすぐにしか歩いておらん。これで迷うのは幼子くらいじゃ」


 確かにまっすぐにしか歩いていない。しかし、これで仮に老人と取っ組み合いでもしようものなら、まず間違いなく男はこの森から出られなくなる。その自信が男にはあった。そして考えた。老人は自分のことをこの森に置き去りにしようとしているのではないか、と。


「おい、ジジイ。テメェ、何か企んでねぇか」

「なぜじゃ?」

「俺をこの森に置き去りにする気だろう!」

「そんなわけあるまい。ワシはちゃんと水場を案内しておる」

「どこにあんだよ! そんなもん! さっきから全然変わってねぇじゃねーか!」


 男はナイフを取り出すと、老人の喉元に突きつけた。もちろん老人に置いてかれると言う恐怖もある。だが、何よりも男は森そのものに恐怖していた。日のほとんど届かない、現在地が把握できないこの場所自体が恐ろしかったのだ。


「安心せい。ワシはお主に何もせん。水はすぐそこじゃ」


 首から少量の血を垂らしながら、老人は歩を進めた。男は老人について行くのか、ついて行くべきなのかを考えたが、答えは既に決まっていた。こんな不気味なところで一人になるのは耐えられなかったのだ。


「ここじゃ」


 それから数分も経たず、水場は見つかった。その数分が数十分に感じた男にとって、喜びの感情は一切なかったが。


「水さえあればしばらくは生きられる。分かったかのう?」

「あ、ああ」

「では水を汲んで帰るか」

「……ああ」


 男の口数は減り、ほとんど喋らなくなっていた。その理由は単純明快。見られているのだ。誰かに。


「な、なぁ、ジジイ」

「どうかしたかのう」

「だ、誰か、いるのか?」

「どうしてじゃ?」

「視線を、感じるんだ……」

「……気のせいじゃろう」

「いや、絶対ーー」

「ワシらの他に人はおらんよ」


 老人はそう言ったが、男はその会話をしている最中にも視線を感じ続けていた。一人や二人ではない。両手では足りないほどの数だ。しかもそれだけではない。微かに誰かの笑い声が聞こえてきたのだ。


「ジジイ、帰るぞ」

「何故じゃ? まだ水はーー」

「いいから帰るぞ!!」

「……仕方ないのう」


 そこからはどうやって帰ったのかは一切記憶になかった。ただ、男は家に戻るとすぐに扉を閉め、老人を拘束してから身を隠すようにベットの毛布を頭からかぶった。見つからないように、安心するために。

 しばらくすると心も落ち着き、気がつけば綺麗な三日月の昇る夜になっていた。


「……もう夜か」


 男は恐る恐る毛布から抜け出し、昨日の残りの酒を一気に煽った。そして見てしまったのだ。

 窓の向こう、木の上に光る一対の光の玉を。


「あ、ああ、ああああ!!」


 気が動転した男は手に持っていた瓶を落とし、静かな夜にガラスの割れる音が鳴り響く。そして、それに呼応するかのように幾つもの低い笑い声が聞こえてきた。


「ホッホッホッホッホッホ」

「な、なんだ! なんなんだよ!!」


 しかし男はその笑い声に聞き覚えがあった。森の中で聞こえてきたのはこの声だ。


「フクロウじゃよ」


 老人の声が聞こえ、そちらに視線を向ける。しかし、老人は椅子に縛り付けられておらず、全ての拘束が解かれていた。


「ジ、ジジイ……、どうやって」

「ワシはここでフクロウ達と共存しておってな。この森に住むフクロウ達はワシの親友なんじゃよ」

「テメェ、何を言って……」

「知っておるか?」

「な、何をだよ」

「フクロウはな、森の哲学者や守り神と呼ばれておったり、縁起の良い動物とされておる。しかしな……」


 暗闇の中、僅かに月の灯りで照らされた老人の口は、空に浮かぶ三日月のように裂けていた。


「死を象徴する動物でもあるのじゃよ」





「すみません、警察の者です。極悪犯が牢屋から脱出しました。こちらの方向に逃げてきたようなのですが、見ておりませんか?」

「どんな顔なのじゃ?」

「こちらがその人物の写真になります」


 そこには数日前老人の家に訪れていた男の顔が写っていた。しかし老人は、


「見ておらんのう。お役に立てず申し訳ない」

「いえ、捜査のご協力ありがとうございました」


 警察が離れていったのを確認し、老人は扉を閉める前にポツリと呟いた。


「次は誰を殺そうかのう」














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