アテナ様のフクロウ

奏 舞音

アテナ様のフクロウ

 目の前には、気高く美しい女神像。女性らしいなめらかな曲線と、豊満な胸。うっとりと、私は美しき女神を眺めていた。

 石膏像のプレートにはこう書かれている。


『オリュンポス十二神 知略の女神アテナ』


 処女の誓いを立てた処女神は、まっすぐにどこかを見据えてゼウスに授かったと言われる「アイギスの盾」を持っている。


「私も、アテナみたいに知恵と戦略に長けていたら、振られることなんてなかったのかなぁ」

 篠原しのはら愛菜あいな、二十歳。

 先日、長年片思いしていた先輩に振られました。

 高校からずっと好きで、大学も同じところを受けて、少しでも近づけるように頑張っていたけれど。

(妹のようにしか見ることができない、か)

 大学に入って、化粧もお洒落も頑張っていたのに、結局妹ポジションから変わることができなかった。

 失恋のショックで日々落ち込んでいた私に、友人が気分転換に、とくれたのは、大学近くの博物館で期間限定で開催されている「ギリシャ神話展」のチケットだった。

 何故、博物館? と疑問に思って問うと、博物館という落ち着いた雰囲気の中で歴史を感じると無心になれて自分を見つめ直すことができる、と博物館巡りが趣味の友人は笑っていた。


「どうすれば、あなたみたいに強く生きることができますか?」


 女神像を見上げると、ふいにその口元が緩んだ気がした。

 そして。

 

 ――あなたの目で見て、感じてみなさい。


 美しい声が耳元に響いたかと思ったら、一瞬で視界が真っ白になった。


 *


 目を開けると、ついさっきまであったはずのアテナ像はなく、周囲を見回してもあきらかに博物館内ではなかった。博物館よりも、かなり広い長方形の空間。大理石の床はピカピカに磨き上げられており、剥き出しの白い柱にはオリーブの葉が巻き付いている。

「え、ここってもしかして……?」

 ギリシャ神話展で見た神殿そのもののような気がする。そして私がいるのは、まるで王様が座るような数段高い位置にある椅子の前。そこで、気づく。自分がさっきまで着ていた紺色のワンピース姿ではないことに。白い一枚布をただ巻いただけのような、ワンピースに近いかたち――ギリシャ神話展で見た人々の服装と同じだ。

「夢、だよね?」

 博物館のギリシャ神話展で様々な神殿や石膏像を見たせいだ。そうでなければ、想像力が乏しい私がこんな鮮明な神殿や服装を夢だとしても再現することなどできない。しかし、博物館で意識を飛ばす直前に聞こえたあの声は何だったのだろう。

 夢だとしたら早く目覚めたい。

 そう思っていると、天窓からバサリと羽ばたきの音が聞こえ、その直後には目の前に美しい毛並みを持つ灰色のフクロウがいた。その瞳はターコイズブルーで、宝石を埋め込んだように美しかった。

「うわ、きれいなフクロウ……」

 思わず見惚れていると、フクロウは再度大きく羽を広げ、くるりと回ってみせた。すると、そこにいたのはフクロウではなく、美しい灰色の髪とターコイズブルーの瞳を持った青年。

 数段上にいる私と並ぶくらいの高身長で、白い布からのぞく肢体は鍛えられており、無駄がない。

 フクロウはどこに行ったのだろうか。そんな疑問を抱く暇がないほど、目の前の青年に目を奪われる。テレビや雑誌でしかお目にかかれないレベルのイケメンだ。私の理想って実はこういう、目鼻立ちがはっきりしている色白の人だったのかな……そんな呑気なことを考えていると、青年がさっと跪いた。

「アテナ様、グロウリーがただいま戻りました」

「へ、アテナ様? どこに?」

 きょろきょろと辺りを見回していると、目の前の青年――グロウリーが呆れたような溜息を吐いた。

「今度は何をふざけていらっしゃるのです? あなたがアテナ様ではありませんか」

「……わ、私が?」

 間抜けな声を出して自分を指さすと、グロウリーは真顔で頷いた。イケメンの真顔って、なんだかすごい説得力がある。

「いつものアテナ様らしくありませんね。何かあったのですか?」

「これは……夢ですよね? って、自分の夢の中で夢って聞くのも変だな……うぅん」

 アテナを意識しすぎて自分がアテナになったということだろうか。どれだけ思い込みが激しいんだ、私は。

「他の神々にそんな隙だらけの姿を見せたら、舐められますよ。特に、メドューサ様やアラクネー様にはね」

 グロウリーから出た名前を聞いて、あぁやはりギリシャ神話の世界観を夢にみているのだと悟った。アテナは、メドューサとアラクネーと張り合っていたと解説にあった気がする。

「いや、あの、私はアテナじゃな……」

「アテナ様の神殿にアテナ様以外の者が許可なく入り込んでいたら、容赦なく私が殺しますよ」

 酷く冷酷な言葉をあっさりと、薄い笑みを浮かべながらグロウリーは言った。夢なのに、殺気が肌に突き刺さるのはどういうことだ。試しに自分の頬を馬鹿みたいにつねってみる。何故だろう。痛い。中身がアテナではないことは絶対にバレてはいけない、ということだけは本能的に理解した。


「さっきから、何をなさっているのですか? 美しいアテナ様の肌が赤くなっているではありませんか」

 何度も何度も頬をつねっていると、グロウリーが階段を上って私のすぐ目の前に来ていた。そして、その大きな手で私の頬にそっと触れる。ひんやりとして、気持ち良い。

「アテナ様は、知略の女神でしょう? 自身を傷つけるような愚かな行いは、おやめください」

「は、はい」

「おや、今日は随分と素直ですね。いつもは私が触れるだけで顔を真っ赤にしてお怒りになるのに」

 にやり、とグロウリーが美しい顔を悪戯に歪めた。その深みのあるターコイズブルーの瞳に捉えられ、目を逸らすことができない。

(普段のアテナの反応なんて知らないし……あ、でもそういえば!)

 アテナは自由奔放で気が強い性格だったということを思い出した。

 高校時代は演劇部に所属していた私の演技力が、ここで試されている……っ!


「いつまで触れているつもり? 調子に乗らないで、グロウリー」


 きっとグロウリーを睨む。

 あぁ、イケメンにこんな冷たい言葉を浴びせる日が来るなんて。

 先輩にも、こんな私を見せたことはない。演技とはいえ、冷ややかな姿を見せたくなかった。いつも先輩の前ではにこにこ笑って、素直で従順な女性でありたかった。本当は無理していた部分もあったかもしれない。何か悩んでいることはないのか、と優しく声をかけられた時も、大丈夫だと笑ってごまかしていた。弱い部分や愚痴を吐く醜い自分を見せたくなかったから。

「申し訳ございませんでした。アテナ様の様子がいつもと違っていたので心配で」

 グロウリーはすぐに手を引いて、元の位置に戻った。また跪き、私を見つめている。指示を待っているようだ。そういえば、アテナはフクロウを使って情報を集めていたのだとか。アテナにとってフクロウは優秀な諜報部員だったのだ。となると、このグロウリーがフクロウで、アテナの知恵の情報源。

 せっかくアテナになっているのだ。アテナの身近にいるフクロウならば、彼女のことをよく知っているだろう。


「グロウリー、お前は私のことをどう思っている?」

 自由奔放なアテナなら、突拍子もない質問だって問題ないはずだ。そう思って聞いたのだが、グロウリーは驚いたような顔をした。

「この世にアテナ様以上の女神はおりません。何度聞かれても、私の気持ちはずっと変わりません。アテナ様をお慕いしています」

 思わぬ愛の告白を受けた。イケメンの真剣な告白というのは心臓に悪い。ついさっき出会ったばかりなのに、その想いの熱さが伝わってきてどきどきする。というか、アテナとフクロウってそういう関係だったのか。

 頭の中は混乱していたが、かろうじて残っていた理性で言葉を返す。

「……処女を誓っている私は、お前の想いに応えることはできない」

「分かっていますよ。それでもなお、私はアテナ様を想い続けたいのです。あなたが、本当は弱いということを誰よりも知っているから」

 優し気な笑みを向けられた。しかし、アテナが素直にときめいていてはいけない。私は強く否定する。

「私は、弱くなどない!」

「えぇ、分かっています。でも、いつも強い訳ではないでしょう? アテナ様の決断で人々の命が大きく左右される。いつも正解を導き出すその頭脳は完璧であると思われがちですが、アテナ様の優しさと努力の賜物です。アテナ様が悩み抜いた末に決断していることを私は知っています。重圧に一人で耐えている姿を見ていると、やはり私はアテナ様の側でいついかなる時も味方で、お守りしたい……愛しいと思うのです」

「弱い姿を、お前に見せているのに?」

 アテナは、いつも気高く、強い女神であると思っていた。しかし、彼女も悩むことがあったのだ。普通の人と同じように。

 そして、そんな姿に惹かれるのだと、グロウリーは言う。

「まぁ、本音を言えば、完璧で強いだけの女性では、自分がいなくてもいいだろうと思ってしまいますから。本当のあなたの姿を知っているのは私だけだと思えば、余計に守りたくなります。これからも私はアテナ様に必要とされる限り、お側におりますよ」

 その言葉を聞いて、私は分かってしまった。

 何故、先輩に振られたのかを。私は先輩の前でずっと無理をして、強がっていたのだ。先輩に好かれる自分を演じていただけで、本心を見せたことはなかったかもしれない。


「グロウリー、ありがとう」


 気づかせてくれて。

 私が心からの笑みを浮かべた瞬間、また視界は真っ白になる。夢から覚めるのだ。元の世界に戻る。

 そう、薄れゆく意識の中で感じていた。


 *


「アテナ様が気高くて、強い理由が分かった気がします」


 誰しも、弱い部分があるのが当然なのだ。それを不自然に覆い隠していたから、先輩の心にも近づけるはずがなかった。

 ずっと失恋のショックから立ち直れなかったが、今は吹っ切れた気がする。

 アテナ像に一礼して、私はその場を去った。


 ばさり、とフクロウの羽ばたく音が聞こえた気がした。


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