★第二問 霊仙教教主の虚空密室

霊仙教教主の虚空密室・問題編

「まだ、階段が続くのか……」

 旭日啓治[きょくじつ けいじ]警部補は、石造りの階段を恨めしそうに見上げた。小雨の作り出す霧に煙るようにして、遠くに建物が見える。随分長い事階段を登った気がするが、まだ道半ば……山の中腹、と言ったところか。

 旭日とて仕事柄、身体は鍛えているつもりだが、長い階段を駆け足で進んだものだから、足腰が疲労を訴えている。

「この階段は『行者の階段』と呼ばれております。教主様は毎日、この階段を昇り降りして『虚空堂』まで行かれるのです」

 旭日の隣で足を止め、霊仙教、教主補佐、横野定彦[よこの さだひこ]が解説する。

「今、我々が居る場所が『行者の腰掛け』丁度、階段の中間地点になります」

 成程、腰掛けの名に相応しく、此処だけ土が敷かれており、木製のベンチが一つ設えてある。花壇には何処かで見たような花が植えられていて、宛ら極小の公園、といった風情である。

 だが、旭日は物見遊山に来た訳ではない。休む事無く、黙々と先を急ぐ。

 

 階段に辟易してきた頃、ようやく頂上――『虚空堂』に到着する。

「はぁ、現場に辿り着くのに一苦労だ」

 旭日が溜息交じりに呟くと、

「まったくです」

 すぐ後ろから、聞き覚えのある声がした。旭日は恐る恐る振り返る。

 くたびれた帽子に、よれよれのコート、口に咥えたシガレット。見間違う筈もない。其処に立っていたのは、誰あろう、自称名探偵の、砂鹿宝一[しゃろく ほういち]だった。

「おい! どうしてお前がここにいる!?」

 流石の旭日も面喰らった。此処は秘境とも呼ばれるG県の山奥、おまけに宗教施設である。偶然立ち寄った、では済まない。

「いえ、野暮用でこの近くに来ていたのですが、パトランプを点灯した鑑識車両と遭遇しましてね。気になって事情をお伺いしたところ、事件性がありそうだという事なので、現場まで同乗させてもらえるようお願いをしたわけです」

「くそ、俺の行く先々に……ストーカーか! 忌々しい」

 思わず毒を吐く。砂鹿と最初に出会った事件――金成錦司殺害事件では、旭日は公衆の面前で推理を外して、大恥をかいた。旭日にとっては思い出したくない、苦い記憶である。

「私は誰かをつけ回すほど、暇ではありませんよ。来週には、ロンドンに向けて発たなければなりません。今後暫くは、警部補に会う事もないでしょう」

 砂鹿は心外だ、と言いたそうに首を振った。

「ふん、ロンドンか。お前がロンドンに行こうものなら、切り裂きジャックが復活してしまいそうだ」

「褒め言葉と受け取っておきます」


 二人のじゃれ合いを見守っていた横野が、鹿爪らしい顔で、ごほん、と咳払いをした。

「……そろそろ、よろしいでしょうか」

 そうだ、いつまでもコントをしている場合ではない。旭日は我に返る。

「ああ、すみませんね。現場を見せていただきましょう」

 旭日は横野を伴い『虚空堂』へと歩を進めた。

「私も来たばかりで、何もわかっていません。警部補の捜査に同行させてもらいますよ」

 言って、砂鹿が後に続く。

「勝手にしろ。なんと言おうが、どうせついてくるんだろうが」

 いけ好かない男だと思ってはいるが、その推理力だけは、旭日も評価している。頼もしくない、と言えば嘘になるだろう。

 かくして二人は、協力して事件の捜査を行う事となった。


 虚空堂の入り口には、あるべき筈の扉がなかった。入ってすぐの位置に、罅割れて砕けた扉が横たわっている。扉は木製で、取っ手と錠の部分だけが金属製になっていた。

「これが『虚空堂』の扉です。鍵がかかっておりましたので、私と、設備管理の瀬津谷[せつや]で壊して、中に入りました」

 と、横野。蹴破られたらしく、扉の正面にはいくつか、泥のついた靴跡が残っていた。


 高い天井に、遮るもののない広い空間。虚空堂の内部は、まるで学校の体育館のようだった。しかし、一番奥に鎮座する霊仙教の御神体と思しき巨大な木像が、此処が体育館ではない事を雄弁に物語っている。そして木像の少し手前に、人間が、突っ伏すような姿勢で倒れている。周囲では、砂鹿を乗せて先に到着した鑑識班が遺留物の採取を行っていた。

「霊仙教教主、霊仙老子[れいせんろうし]様です」

 沈痛な面持ちで、横野が言った。

 旭日と砂鹿は、倒れている教主――霊仙老子に目を向ける。年齢は、見たところ七十歳前後だろうか。目を閉じて、眠っているような様子にも見えた。刺繍の施された頭巾は、びっしょりと濡れている。僧衣に似た形状をした煌びやかな衣服を身に纏っているが、膝から下が泥で汚れていた。また奇妙な事に、左手の指で輪を作ったままこと切れている。丁度『ゼロ』の形を作るように。

「死因は?」

 旭日が鑑識課員に尋ねる。

「監察医務院で司法解剖をしなければ、確かな事は言えませんが……ただ、状況からして、自然死ではないでしょうね。遺体の右側頭部には、不審な打撲の痕跡も認められました」

「なるほどな。横野さん、遺体を発見するまでの状況を教えていただけますか」

 旭日が横野に水を向けた。

「はい。教主様は、早朝、虚空堂での祈りを日課としておりました。いつもなら一、二時間で戻られるのですが、今日は昼食の時間になっても姿が見えない。ゲストハウスには、私横野と、設備管理担当の瀬津谷、教主様の娘、久実[くみ]様が、昼食を摂る為に集まっておりました。教主様は時間には厳格な方ですので、これはおかしい、という話になりまして、三人で虚空堂まで様子を見に行ったのです」

「当時、霊仙教本部に居たのはその三人だけですか」

 砂鹿が聞く。

「左様でございます。ここは本部の名を冠してはおりますが、教主様のご自宅でもありますゆえ、各地の支部と比較して、信徒の出入りは殆どありません。普段は教主様、私、瀬津谷だけですが、大学の春休みで、昨夜から久実様が泊まりに来ておりました」

 横野は話を続ける。

「虚空堂の扉には鍵がかかっておりまして、扉を叩いて呼び掛けても、応答はありませんでした。何かあったのでは、と、久実様も大変心配されている様子でしたので、私と瀬津谷で扉を蹴破りました。そこで……このようにして、倒れている教主様を発見しました。教主様の傍らには、ここ、虚空堂の鍵と、『教主の寝床』――教主様の私室がある建物ですね――の鍵が、揃えるようにして置かれていました」

 彼らはすぐに救急車を呼んだが、救急隊は現場で霊仙老子の死亡を確認、警察に連絡した。引継ぎの際、救急隊員が霊仙老子の側頭部に、石などの固いモノを叩き付けたような、打撲痕があった旨を報告。そこで、警察が本格的に現場検証を行う事となった、わけである。

 床にそのままになっている鍵を見る。似たような鍵だったが、持ち手部分には、それぞれわかりやすく『虚空』『寝床』との刻印が施してある。

「この鍵の他に、マスターキーだったり、コピーだったりは?」

 旭日の質問に、横野はすぐ首を振った。

「虚空堂の鍵も、教主の寝床の鍵も、教主様が持つ一本だけで、マスターキーのようなものは、私も瀬津谷も持ってはおりません。ですから、扉を破る他ありませんでした」


「ふーむ……」

 横野の話に耳を傾けながら、砂鹿は天井を見上げる。

「出入口の他に開口部は、木像の両側、天井の近くにある明かり取り用の小窓くらいですが……外側から、雨除けの廂が斜めに取り付けられていて、その上、鉄格子が嵌っている」

 言いながら、今度は木像に向かって歩を進め、裏側を覗き込む。

「実は、木像の裏に秘密の通路があったり……しないですね。人間が一人隠れる隙間はありそうですが、それだけです」

 其処で砂鹿は動きを止め、考える仕草をする。

「密室殺人、になるのでしょうかね」

「また密室か! 勘弁してほしいもんだ」

 大袈裟に旭日が嘆く。

「もう少し情報が欲しいところです。横野さん、些細な事でも構わないので、遺体発見時、何か気になった事はありませんでしたか?」

「気になった事……そうですね。教主様はいつも、教団の紋章の入ったキーホルダーに二つの鍵を取りつけて持ち歩いておられましたが、発見した時は、キーホルダーから鍵が外れていたので、おや、と思った記憶がございます」

「キーホルダー本体は、霊仙老子の衣服のポケットに入っていました」

 話を聞いていた鑑識課員が補足する。

「ありがとうございます。私としては、矢張り、あの小窓が気になりますね。近くで調べられたらいいのですが」

 砂鹿は誰にともなく言う。

「それでしたら」

 と横野。

「ゲストハウスの倉庫に脚立がございます。それを使えば、近くで見られるのではないでしょうか」


 そうした遣り取りを経て、捜査官二名が、案内役の横野と共にゲストハウスに向かい、虚空堂まで脚立を運ぶ事になった。脚立を持ったまま、長い『行者の階段』を踏破する羽目になり、肉体には自信のある彼らも疲労の色が隠せないらしく、揃って肩で息をしている。

「どうも、お手数をおかけしました」

 砂鹿は礼もそこそこに、折り畳み型の、銀色の脚立を広げ、虚空堂の外壁に立て掛ける。すると測ったように、脚立は小窓まで届いた。

 早速、砂鹿は脚立を登り始める。ギシギシと金属の軋む音が周囲に響いて、如何にも危なっかしい。

「雨で足場が悪くなってる! 気をつけろよ!」

 下で脚立を支えながら、旭日が叫ぶ。一応心配してくれているらしい。

 砂鹿は軽く手を挙げて旭日に応じると、小窓の廂に触れた。

「動く……開くようになっているみたいですね」

 廂を上に押し上げる。バターン! と派手な音を立てて、廂が可動する。斜め45度だった角度が、直角の90度になった。小窓から鉄格子越しに、老子の死体が確認できる。

 続いて、鉄格子を調べる。鉄格子はしっかり窓枠に固定してあり、動いたり外れたりはしそうにない。格子は意外に隙間があり、片腕くらいなら通す事が出来た。

「まあ、このくらいでいいでしょう」

 一頻小窓を調べて、砂鹿は地上に降りた。判明した事実を、旭日にも伝える。

「とりあえずは、この小窓のおかげで、密室の謎は解けたわけだ。まったく、あるわけないんだ、密室なんてバカバカしいものは」

 そう言って、旭日は胸を張る。

「犯人は虚空堂の、木像の正面付近で霊仙老子を殴打した。老子の遺体からキーホルダーを奪い、虚空堂の鍵を外して持ち出し、外側から施錠する。そして、今お前がやったようにして、脚立を外壁に立て掛けて、小窓まで辿り着く。確か、片腕くらいは通るんだったな? 鉄格子の隙間から片腕を出して、虚空堂の鍵を被害者に向けて放り投げる。これで密室は完成する」

 一気に捲し立て、したり顔で砂鹿を見るが、砂鹿はと言えば、冷めた反応だった。

「ま、一先ずは、そう考える事にしましょうか」

「含みのある言い方だな」

 不満そうな旭日を意に介さず、砂鹿は沈思黙考している。何かしら、納得のいかない箇所があるらしい。

「とにかく、後は犯人が誰なのか、だ。設備管理の瀬津谷、娘の久実にも話を聞くとしよう」



 旭日と砂鹿は、遺体の第一発見者である三人から仔細に事情を聞く為、行者の階段を降り、左手にあるゲストハウスに向かった。砂鹿が後で『教主の寝床』も調べたいと言ったので、虚空堂から寝床の鍵も持ち出してきた。

 ゲストハウスには客室が六つあり、三つを横野、瀬津谷、久実が私室として使っているのだ、と道中、横野が説明してくれた。

 まずは、老子の娘である久実に話を聞く事になった。細面の輪郭に、ボブカットが映えている。毛先はビビッドピンクに染められていた。こういった場は初めてなのか、落ち着きなく目線を部屋の各所に彷徨わせている。

「教主の娘さんにしては、若いですね」

 席に着くなり、砂鹿が不躾な感想を述べる。案の定、久実は不愉快そうに目を細めた。

「よく言われんの、そういうの。嫌なんだよね。霊仙教どうこうってだけでも悪目立ちしてんのに、あの人が年を取ってからの子だから、好奇の目で見られたりして、ホント、いい迷惑」

 蓮っ葉な口の利き方だった。それに父親を指して『あの人』という呼称。親子関係は良好ではないのが、一言だけでわかった。

「ふむ。父娘の仲はあまりよくなかったのでしょうか?」

 砂鹿がまたしても、直球な質問をぶつける。

「まあ……うん、そう。親が霊仙教教主なんて仰々しい肩書持ってるおかげで、あたしもいらない苦労してるから。いつも霊仙教の話ばっかで、あたしの話には真剣に取り合ってくれないし、高い値段で悪魔だとか渦巻きだとか、気持ち悪い絵を買って飾ったりするし、なんかもう、そういうの、きつくて」

「教主の奥さん……久実さんのお母さんは何を?」

「何をもなにも。私が生まれた時に、死んでる」

 暫しの沈黙が降りた。それを断つように、今度は旭日が口を開く。

「遺体発見時の状況を聞かせてもらえますか」

「……お腹すいて、ここの食堂で座ってたら、横野さん、瀬津谷さんが席についたのに、あの人、来なくて。いつも時間にはうるさいからおかしいと思って、全員で虚空堂まで様子を見に行ったの。虚空堂の入り口には鍵がかかってた。履物が置いてあったから、中にいるのは間違いないのに、扉をバンバン叩いても返事なくて、あたしが、このままじゃ埒があかないからもう破っちゃおうって言ったら、横野さんと瀬津谷さんもそうしようって賛成した。二人が扉を破ってくれて、そうしたら、その……あの人が、前のめりになって、倒れているのが見えて。三人で、大変だ! って騒ぎながら慌てて中に入って、携帯で救急車呼んで、後は知っての通り」

「遺体の近くに二本の鍵があったと思いますが、見ましたか?」

「鍵は、倒れてたすぐ横に並べて置いてあった」

 聞いていた砂鹿が、興味深そうに頷く。そして、再度質問を投げる。

「昨夜から今日のお昼頃までは、何をして過ごしていましたか」

「昨日の夜は、えーっと、ゲストハウスに着いた時には、もう遅くて、車、長々運転して疲れてたから、横野さんに挨拶だけして、メイクも落とさないですぐ寝ちゃった。今日は、起きてから……ずっと、自分の部屋でごろごろして『らぶ☆ぶれいぶ』で遊んでた」

「ら、らぶ?」

 旭日が戸惑うと、

「スマホアプリ。今、大規模イベント中なの」

 久実がスマートフォンの画面を見せた。画面には少女漫画風のイラストと共に“君だけの最強コーデで魔王を倒そう!”との宣伝文句が書かれている。



「あの、まず、話しをしないといかん事があるんですが」

 設備管理担当らしく、薄緑色の作業着を着た瀬津谷は、向かい合うなりそう切り出した。

「虚空堂の出入口には、小型の監視カメラがついとるんです」

「何!? 監視カメラが?」

 旭日が目を見開く。

「ええ、一度浮浪者だか暴走族だかが忍び込んだのか、虚空堂の中が荒らされた事がありまして。祈りを捧げる場所、言わば聖地である虚空堂に、部外者が立ち入るのはけしからんと、老子様が大変お怒りになったわけです。それからはいつも、鍵は閉めておく事になりまして、監視カメラも設置したんですな。で、その監視カメラなんですが、仕様上、録画が残るのは一日分だけになっとるんです。明日にはファイルの上書き保存で、録画した今日の分の動画データが消えてしまう。こういう事になっちまった以上は、刑事さん立ち合いの元で、早いところ映像を確認したいと思っとるんですよ」

「そいつは素晴らしい! 早速見せてもらおう」

 旭日は上機嫌で膝を打ち、立ち上がった。

 瀬津谷の部屋から出て、設備管理室に向かい、監視カメラの映像を、頭からチェックする。

 時刻は午前六時三十分。虚空堂正面入口の映像に、霊仙老子の姿が映った。カメラの解像度が低い上に霧が出ていたせいで見辛かったが、間違いない。老子は手に持った鍵で虚空堂の鍵を開けると、監視カメラを見上げ、一瞬だけ視線を送る。そして、すぐに虚空堂の中へと消えて行った。

「老子は一人で虚空堂の中に入った、と。さて……ここからだぞ」

 旭日は息を呑んで、映像を見つめる。だが、待てど暮らせど、映像に変化はなかった。早送りしながら、微々たる異常も見逃さないよう目を光らせるが、只々、無人の虚空堂入口が映るばかりである。

 ついに、時刻は十二時を過ぎた。横野、瀬津谷、久実の三人が虚空堂入口にやってくる。後は、横野と久実の証言通り、横野と瀬津谷が扉を蹴破り、間もなく救急隊が到着した。

「バカな……!」

 旭日が絶句する。密室トリック以前の問題だった。朝方から昼頃にかけて、虚空堂の入口からは、霊仙老子以外入室していない。

「第三者が予め木像の裏手に隠れていて、隙を見て脱出した可能性も、まだ……」

「ないでしょう」

 砂鹿がぴしゃりと否定する。

「少なくとも、犯人が脚立で小窓まで登り、小窓から鍵を投げ入れたという仮説が誤りだろう事は、最初から予想はついていました」

「な、何を根拠に」

「横野さんと久実さんの証言です。警部補、憶えていますか? 鍵を発見した時の様子について、横野さんは『揃えるようにして置かれていました』と言いました。裏付けるように、久実さんも『すぐ横に並べて置いてあった』と言っています。もし犯人が小窓から鍵を投げ入れたのなら、鍵は揃うどころか、床に無造作に散らばっている筈です。整然と置かれているのは違和感があるのですよ。単に投げ入れるだけでなく、何らかの細工を施せば、或いは綺麗に鍵を戻す事も可能かもしれませんが、密室を構築する以上の、プラスアルファの苦労をしてまで、犯人が鍵を揃えて戻す事に拘るとは思えません」

 確かに正論だった。隣で一緒に映像を確認していた瀬津谷も首肯する。

「ああ、言われてみたら、鍵、几帳面って言うんですか、刻印の部分を上に向けて、揃えて置いてありましたな。間違いないです」

「全員一致、ですね。面白くなってきました」

 砂鹿は満足そうに笑む。一方、旭日は肩を落とした。事件は、旭日の想像の埒外に転がっていこうとしている。

「密室の謎が復活しちまった。これで捜査は振り出し、か」



 横野の自室。真っ先に目を引いたのは、壁にかけられたクロスボウだった。

「このクロスボウは、何です?」

 旭日がじろりと横野を睨めつけるが、横野は動じた風もない。

「私の趣味は、クロスボウと渓流釣りですので、こうして部屋に愛弓を飾っております。警察の方ならご承知の事と思いますが、クロスボウは銃刀法等の規制対象外でして、法的にも問題はないと存じております」

「そうだが……まあいい。このあたりには野生動物も多いが、くれぐれも狩猟には使わんように」

 旭日が釘を刺す。他の壁を見れば、釣り竿と魚拓も飾ってある。

「おお、イワナ! こいつは大物だ」

 旭日は魚拓を見付けて、感嘆の声を上げる。横野は薄く笑った。

「渓流の主、でございます。今日はボウズか、と諦めて引き上げようとしたところ、ダメ元のオニチョロで――」

 暫くの間、旭日と横野の釣りトークが続いた。

 事件に繋がる情報は得られそうにない。砂鹿は話を打ち切るように口を挟む。

「教主の寝床を調べたいのですが、案内をお願いできますか」


 行者の階段の右手、少し歩いた所に『教主の寝床』はあった。鍵を開け、中に入る。

 薄暗い室内は、宗教的意匠が凝らされた調度品が並び、一種異様な雰囲気を纏っていた。

 部屋の中央には、大きな丸テーブルが置かれている。その中心には、拳大の石が、布を被った台座の上に恭しく乗せられていた。砂鹿は近付いて、観察する。

「それは、聖石、と呼ばれるものです」

 砂鹿の視線に気付いて、横野が解説する。

「パワースポットで採掘された石で、教主様が霊力を高めるために使われているものです。みだりに触れないよう、お願いいたします」

「しかし、すごい部屋だな。この、気味の悪い絵は?」

 旭日が指す先には、悪魔が羽の生えた小柄な妖精を貪り食っている絵があった。妖精が苦悶の表情を浮かべている。ルーベンスの『我が子を食らうサトゥルヌス』に似た構図だ、と砂鹿は思った。

「その絵は……霊仙教とは直接関係はありません。老子が懇意にされている前衛芸術家、ゴーゴン下田[しもだ]の作品でございます」

「ここにある絵は全部、その、ゴーゴンなんとかが描いたのか? これなんか、もう、何を描いてあるかもわからん」

 悪魔の絵の隣に飾られているのは、赤、青 黄、緑……色とりどりの筆を駆使して描かれた渦巻きの絵。旭日の言う通り、一目見ただけでは、何を表現しようとしているのかも判然としない。

「はい。そちらは昨日届いたばかりの新作で、教主様曰く、ゴーゴン下田の新境地、だそうです。私としましても、教主様の絵の趣味は……わかりかねます」


 室内を調べ終え、教主の寝床が寝床たる所以である、奥の寝室に足を踏み入れる。

「ここは、私もまず立ち入らない場所です」

 やや緊張した面持ちで、横野が扉を開く。香を焚いたような、甘い匂いが鼻についた。

 寝室は、天蓋ベッドにサイドボードが置かれているだけだった。サイドボードの上には、霊仙老子の写真がいくつも立てられていた。

「〇月〇日、榛名湖にて。自然の営み、生命の息吹と共に、祈りを捧げん……」

 砂鹿が写真立ての一つを手に取り、写真の下のメモ書きを読み上げる。写真の中の老子は、片手を天に向かって掲げ、長崎の平和祈念像のようなポーズをとっている。

「教主様は、自然を愛でるのがお好きでした。ここ、本部でもよく、鶯などの、野鳥の声に耳を傾けておられました」

 写真に目を落として、横野がぽつりと零す。

「このポーズには、何か意味が?」

「ええ、勿論。それは『祈りの形』と呼ばれるポーズで、祈り、信仰を示しております。霊仙教には他にも様々な『形』がございます。心の在りようを形として、形を心の在りようとするのです」

「では、これは?」

 砂鹿は、左手の指で輪を作り、横野に見せる。

「『赦しの形』でございます。赦し、調和を示しております」

「なるほど……そんな意味が。ありがとうございます」

 礼を言い、今度はサイドボードの中を物色する。霊仙教の会報誌、ノベルティグッズなどに混じって、折り紙で作られたメダルが何枚も出て来た。何れも同じ作りで、真ん中には拙い字で『HAPPY BIRTHDAY』と書かれている。

 砂鹿の中で、すべての欠片が繋がろうとしていた。事件の輪郭が明らかになり、真相が浮かび上がってくる。

「さて、解決編、といきましょうか」

 誰にともなく呟いて、サイドボードを閉め、砂鹿は立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る