暗闇の紅玉
池田蕉陽
第1話 紅の瞳
夢ではと疑った。それほど目の前の現実が信じられなかった。それは
息子の優一が服を着た状態で床に横たわっている。息子とはいっても、まだ生後五ヶ月の赤ん坊だ。
そんな小さな赤ん坊の頭は、表現し難いほど惨いものに変わり果てていた。両目は眠ってるように
さらに優一の頭の周りには血が広がっていた。その傍らに包丁が落ちている。刃の部分は赤いのが半分ほど占めていた。
優一が死んでいるのは一目瞭然だった。そして、誰かに殺されたのも容易に判断がつく。
通りでおかしいと思ったのだ。家に帰ってきたら閉めたはずの鍵が開いていたのだ。
千恵美はその場に崩れるようにして座り込んだ。走った訳でもないのに呼吸がひどく乱れている。思考はままならない。ただ頭の中で、この意味不可解な出来事が霧となって覆い尽くしていただけだった。
「ワンっ」
その鳴き声で千恵美は我に帰った。そちらを窺うと、ゴールデンレトリバーのジャックが険悪な表情を浮かべ吠えている。
「ワンっ」
もう一度吠え、今度はその場でぐるりと一周した。
それではっとした。
千恵美は立ち上がると、慌ててリビングを見渡した。
いない。長女の
「絢! 絢!」
娘の名を泣き叫びながら風呂場、二階、寝室、全ての部屋を見て回った。
だが、どの部屋にも絢香はいなかった。名を呼んでも出てくる気配もない。
そして千恵美は娘を探している内に、もう一つおかしな点に気づいた。ペット猫のマリーもいなくなっていたのだ。
まさか。
嫌な予感がした。しかし、再び優一の無残な姿を目の当たりにし、それは徐々に確信めいてきたものになった。
誘拐。その二文字が千恵美の脳裏を過った。
犯人はこの部屋に侵入し、赤ん坊の優一を殺してから娘の絢香と猫のマリーを誘拐したのだと千恵美は推測を立てた。
それでも疑問は残っている。なぜ、マリーまで連れ去ったのか。犯人は余程猫好きだったのか、それとも何か他の事情があるのか。
そこまで考えると千恵美は頭を振った。今それを考える必要はない。夫の
そう思い、ポケットからスマートフォンを取り出した。ダイヤル画面を開き番号を押そうとするが、腕が震えて上手く操作出来ない。
それでもなんとか画面をタッチして、最後の番号を押そうとした。
そこで指が画面の上で静止した。あることに気づいたからだ。
今は警察を呼んでいる暇はない。絢香は誘拐されて一刻を争う状態なのだ。今この瞬間、犯人から危険な目に合わされているかもしれないのだ。
こうしてはいられなかった。千恵美は台所に行き、別の包丁を取り出し肩にかけてある鞄に仕舞った。犯人と遭遇した時に対抗するためだ。
台所の上には、外出する前に切っていた野菜が何故か最後まで切り終わっている。置いてあった包丁がなくなっているのは、犯人がそれを使ったのだと窺える。千恵美は込み上げてくる気持ちをどうにか抑えた。
「ジャック!」
「ワンっ」
ジャックが千恵美の周りを一周する。
「絢のところまで案内して」
「ワンっ」
ジャックが玄関の方へ走り出した。千恵美も後に続こうとする。その時だった。
「ホホーン」
突如、異様な音が千恵美に耳に舞い込んだ。思わず千恵美は足を止め、目を彷徨わせる。
「ホホーン」
同じ音量でまた聞こえた。今度は体全体をぐるりと回し音の根源を見つけようとする。
すると、千恵美はある方向の所で視線を定めた。ガラス窓の先にある庭の石壁。そこの上に何かが立っている。
部屋は電気がついていて明るいが、壁の上までは光が届いていないので、その正体はわからない。ただ、黒いシルエットであることは確かだ。
そして暗闇に潜むように赤い丸が二つ。周りが暗いせいか、それは眩いルビーのように見えた。その眼光に千恵美は吸い込まれそうになった。
「ホホーン」
フクロウ?
千恵美は首を傾げると、黒いシルエットも同じようにした。
「ワンっ!」
ジャックが吠えて、気を取られている暇はないことに気づいた。千恵美は再び玄関まで走って扉を開けた。
ジャックは走って、止まって床を嗅いでまた走るの繰り返しだった。
時々すれ違う通行人は、異様な光景を目の当たりにするように視線を向けてきたが、気にしてる余裕はなかった。
千恵美はジャックの後を追いながら、自分がした行いを悔いていた。
千恵美が犯したミスのせいで優一を殺させてしまったのだ。
絢香と娘の友達は家で遊んでいた。友達が帰ると、千恵美は晩御飯の支度を始めた。
野菜を切っている時に、千恵美は味噌を切らしているのを思い出した。
絢香は小学四年生だ。絢香は優一の面倒も見てくれるし頼れるジャックもいるので、ほんの少しの間だけなら家を離れても大丈夫と思ってしまったのだ。
だが、それは愚行だった。二十分足らずで家に戻ってきたが、あのようなことになってしまった。もしかしたら犯人は、このことを知っていて狙ったのかもしれない。
しかし、腑に落ちない所が一つある。
千恵美は勿論鍵を閉めて家を出た。ということは犯人がインターホンを鳴らし、絢香が扉を開けてあげたということになる。
千恵美は絢香に知らない人が来ても開けてはいけないときつく言い聞かせてある。だから開けるはずがないのだ。
開けるとすれば、その相手が絢香の知人の場合なのだ。
そこまで頭を整理すると、思わず千恵美は足を止めた。
だが直ぐに頭を振って、そんなはずはないと言い聞かせた。
「ワンワンっ!」
千恵美の心中に靄が広がっていると、ジャックは足を止め、ある方向に向かって吠え続けた。
千恵美はそっちに視線を向けると、何の変哲もないアパートが建っていた。
「ここに絢がいるの?」
「ワンっ!」
千恵美は目を凝らしてアパート周辺を見張った。
すると、アパート二階の所に子供が座っているのが千恵美の目に映った。
「絢!」
慌てて千恵美が娘の名を叫ぶと、絢香はキョロキョロしながら立ち上がり、やがて目が合った。
「お母さん!」
「よかった! 無事だったのね!」
千恵美はそこまで走る。錆びた階段を一段飛ばしで登っていく。後ろからジャックもついてきていた。
絢香の輪郭をはっきり捉えると、娘がマリーを抱いているのがわかった。。千恵美は絢香とマリーに抱きついた。
「心配したんだから!」
千恵美が涙ながらにいう。
「ごめんなさい」
千恵美は両手を絢香の背中から肩に移した。
「誘拐犯は」
「誘拐犯?」
絢香が首を傾げた。
すると、隣でバサッと音が聞こえた。千恵美と絢香は反射的にそちらを見る。
紅の瞳。翼を広げたフクロウが柵の上に立っていて、籠った鳴き声を夜の街に轟かせた。
間違いない。さっき庭にいたフクロウと一緒だと千恵美は確信した。
突然後ろで扉が開く音がした。今度はそっちに目をやる。
「おかえり。ってえ? だ、誰ですか?」
若い男が出てきた。
「あ、すみません。すぐに離れますので」
千恵美は申し訳なさそうに頭を下げた。
「これお兄さんのフクロウ?」
絢香がフクロウに指さす。フクロウは鳴き声を漏らして首を傾げた。
「そうだよ。かっこいいだろ。こいつにカメラを仕掛けて夜の街を動画で撮影しようと思ったんだ」
そう言いながら若者はフクロウの首元に巻かれた輪っかの機械を取り外した。
千恵美はそこで閃いた。
「あのすみません。その撮った動画って今、見せて貰えること出来ますか?」
若者は不思議そうにしたが、「ええ、いいですけど」とスマートフォンを取り出して、画面を何度か指で滑らせた後、千恵美に渡してきた。
私も見たい、と絢香が要求してきたが、そうはいかなかった。おぞましい映像が映ってるいるに違いないからだ。この若者もまだそれを知らないだろう。
画面の再生ボタンを千恵美はタップした。
最初は上空からの夜の景色が映し出されていたが、途中で下降してある所に止まったようだ。
そして画面に千恵美の家の中が映し出された。あの石壁の上に着地したのだと千恵美は思った。
既に家の中は千恵美と絢香がいなかった。マリーもいない。リビングには優一とジャックしかいなかった。
何故か包丁が床に落ちている。優一はそこにずりばいで向かっていた。ひやひやする場面だった。
「ねぇ絢。お母さんが家出たあと何をしてたの? 一から全部詳しく説明してちょうだい」
千恵美は画面に目を向けながら絢香に聞いた。
「えっと、まず優一のオムツを取り替えて、そこからお母さんの手伝いしようと思って野菜を切っていたの。そしたらジャックが突然吠えたから包丁飛ばしちゃって……それから美代ちゃんが忘れ物あるからって家に戻ってきてドアを開けたの。そしたらマリーが逃げ出しちゃって二人で追いかけて。途中で美代ちゃんは帰ったけど、私はずっと追いかけてここまで来たの」
美代は絢香の友達だ。まさかそんな事が起きていたとは想像もしていなかった。野菜が切り終わっていたのもそれで合点がいく。
絢香は普段犬の吠え声に驚くことはない。慣れない包丁をもって緊張していたからだろう。包丁を落としたタイミングで美代が来て、そっちに意識が逸れてしまったのだ。扉を開けてマリーが逃げた時は、慌てていたせいで優一のことは忘れていたに違いなかった。
そして、最後にあの謎が残された。
どうして優一が死んでしまったのか。
それはフクロウの第三の目によって解決される。
千恵美は再び画面に向き直った。あの時、フクロウは何を見ていたのか。
赤ん坊と犬が戯れ合っている。だが、そんな愛おしい映像は一瞬にして豹変した。
千恵美は思わず画面から目を背けた。
隣でさっきから大人しくしているジャックに目をやる。
舌を出して吐息を漏らしている。
牙が剥き出しになっていた。
どうして気づかなかったのか。
真っ赤な牙だった。
暗闇の紅玉 池田蕉陽 @haruya5370
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