あなたとブルームーンを
吹井賢(ふくいけん)
あなたとブルームーンを
買い物帰りに原付を走らせていると見知った人影を見つけた。
懐かしの学び舎から出てきた彼は、ほぼ同時に私を発見すると、柔和な笑みを向けてくる。
「久しぶりだね」
高校の頃と変わらない、見た者の心をふっと緩ませる笑顔。とんでもない高身長なのに、不思議と安心感を抱かせる雰囲気もそのままだ。地味ながら整っていた横顔は、少しだけ、精悍になった気がする。大人になったということだろうか。
私の方はどうだろう? 大人になれているだろうか?
そう自問自答しつつ、ビーノのサイドスタンドを起こして校門傍の路肩に固定する。
「成人式の後の飲み会で会ったから、三、四年ぶり……に、なるのかな」
「そうだね。でも、よく気付いたね」
「お前、目立つんだよ。無駄にデカいから」
参ったな、と彼はまた笑うと、「今はこの辺りにいるんだっけ?」と問い掛けてくる。バーの店員やってるよ、と短く応じ、商店街の角、と続けた。
「そっちは? 二十歳超えたオッサンが高校で何やってんの? 先生にでもなったとか?」
「先生ではないけど、仕事ではあるかな。ソーシャルワーカーとしての挨拶周り」
「何それ」
率直な疑問を口にすると、少しだけ悩んで、彼は「困ってる人を助ける仕事、かな」と応じた。
どうやら、そういったお節介な部分も昔のままらしい。
校舎に終業のチャイムが響き渡る。その音もやはり、あの時と変わらぬままで。
私は高校の頃へタイムスリップしたような感覚を覚えた。
彼と出会ったのは高校一年の春だった。
当時の私は荒れていた、……と言うと大袈裟だが、お世辞にも「良い生徒」ではなかった。
遅刻やサボりは日常茶飯事で、成績も悪く、何よりもウリをやっていた。
要するに売春だ。口や手で男子の相手をして、金を貰っていた。時には本番にまで及ぶこともあった。自分で言うのもなんだが、顔もスタイルも良かったので、かなり稼げていた。
しかも、そのバイト先は専ら学校内だった。今から考えると結構、危ない橋を渡っていたものだと思う。
校舎端三階の、滅多に人が来ることのない男子トイレ。
そこが私がよく使う場所で、その時もちょうど小銭稼ぎを終えたところだった。
窓枠に寄り掛かるようにして空を見ていた彼は、私を見ると、「やあ」なんて呑気に声を掛けてきた。
「なに? シテ欲しいわけ? 悪いけど、また明日ね。今日は疲れたし」
「いや、そういうわけじゃない。むしろ逆かな」
「やめさせにきた、ってこと?」
そういうこと、と、とても注意をしに来たとは思えない、柔らかな笑みを彼は見せる。その表情に妙に苛ついた私は、頭を掻きつつ強い口調で告げた。
「あのさ、私は男子共に親切にしてやってんの。色々含めてね。その対価として、お金を貰ってるだけ。誰か、損してる人いる? ……『親御さんが悲しむ』なんて大人ぶったこと言ったら、ぶっ飛ばすからね」
「そんなことは言わないよ」
単に、と続けた。
「君がそういうことしてるの、ぼくが嫌なだけだよ」
「…………はあ? なに、告白?」
「違うよ」
彼は言った。
「友達として、心配してるだけだ」
彼と話したのは、実は二度目だった。
最初に喋ったのは、入学してすぐの頃。学食で相席になった時だった。何組だとか、何処中だとか、場繋ぎ的な他愛もない話をした。そして、すぐに別れた。
それだけの関係性。顔見知りと言うのも烏滸がましい間柄。
なのに。
「私といつ、友達になったって?」
皮肉を込めた言葉にも、彼は「友達って『今日からなる』って決めるものじゃないでしょ?」と笑うばかりで。
「ぼくは、君のことを友達だと思ってる。だから、やめて欲しいだけだよ」
「あっそ。私は友達だとは思ってないから」
その日のやり取りはそれで終わったが、それ以降、彼は何かに付けて私に絡んでくるようになった。
挨拶をして、たまに世間話をして。思い出したかのように、彼が「そういうことはやめた方がいいよ」と注意して、私が冷たくあしらって。そんな日々が日常になっていった。
恋人でもなければ、お客さんでもない。かと言って他人というわけでもない。
異性との友情を信じていなかった私にとって、彼は、自分でもどう言い表せば良いか分からない、不思議な相手だった。
結局、自然とそういう小遣い稼ぎはやらないようになったが、彼は最後まで注意こそすれ、無理やり止めようとはしなかった。
ごく普通に、友達のような存在で在り続けていた。
……尤も、私はとうの昔に、『友達』だなんて思えなくなっていたのだけれど。
「ねえ」
卒業式を一週間後に控えた金曜日。
窓枠にもたれていた彼に、私は言ってみた。
「折角だし、最後に一回だけ、しよっか?」
答えなんて、決まっていたのに。
答えなんて、分かっていたのに。
彼は笑ってこう告げる。
「友達とはそういうことしないでしょ?」
「あっそ。親切で言ってやったのに、もう絶対ヤラせてあげないから」
悪いことをしていたつもりはなかった。
今もそうだ。誰かに咎められることではないと思う。相手は喜んでいた。私はお金を稼げた。お互いに気持ち良かった。誰も、損はしていない。それで良かったはずだった。
けれど、その時は何故か、酷く胸が痛くて。
涙が零れそうで。
本当に好きな人と身体を重ねたら、どんなに幸せなんだろうと――そんなことを、思ってしまった。
チャイムが鳴り終わると、急に現実感が戻ってくる。
彼の笑みはあの時と一切変わらない。私もそうだ。十年近くの時が流れても、彼を見ると心の奥底が静かに痛む。鈍痛は全く風化することなく、今でも「何かが違えば」と在り得ぬ夢想をしてしまう。
彼は、私の気持ちに気付いていたのだろうか?
それとも、気付いた上で、触れなかったのだろうか?
……だとしたら、悪い男だ。優しげな顔をして、なんて酷い奴なんだろう。
「今度、飲みにおいでよ。作るから」
私がそう誘うと、やはり彼は変わらぬ微笑を湛え、
「何を出してくれるのかな? あんまりお酒の味は分からないんだけど」
なんて、楽しそうに問う。
久々の友達との再会が嬉しくて仕方ないという風に。
だから私は言ってやるのだ。
「友達としてご馳走するわよ。ブルームーンをね」
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