(仮)春の休みと君の死体
S●NY
第1話
車掌に手渡す切符がひらりと宙を舞った。
無人駅に降りたのは生まれて初めてで、焦っていたのかもしれない。
車窓から上半身を乗り出した車掌さんに呼び掛けられて、慌てて財布の中から切符を取り出したのだった。
「あー、構わないよ」
慌てて切符に手を伸ばした僕に、危ないからと白い手袋で静止をかける。
僕が駅のホームの中央に後ずさったのを確認して、それじゃあねと片手を上げて電車は出発した。目の前を通りすぎる1両編成の電車の中には誰も座ってはいない。
やがて電車の向こう側には切り立った崖と森。振り返れば眼下に木々に囲まれた小さな小さな町が見えた。
森深樫(もぶかし)町。
静岡県西部地区の北部に位置する山深い山村。僕の祖父の生まれ故郷だった。
古来より信州と遠州を結ぶ塩の道が通っていて、宿場町として風情がある。
奈良時代の有名な僧、行基が訪れたことから始まった祭礼は国の重要無形文化財として今も続いているそうだ。
目を閉じて肺いっぱいに空気を取り込んだ。深呼吸。
空気が美味しい、と思う。
5年前、あれは小学6年生だっただろうか、祖父に連れられて此処に来たことがある。
当時は祖父の車で来たと記憶している。酷く狭い山道が続いて、僕は早々に車に酔った。申し訳程度のガードレール越しには断崖絶壁で、荒い道を突き進む様に肝を冷やし、ふらふらになった僕を道の駅で介抱してくれたのだ。
「あった」
その道の駅は、僕が先ほど降りた駅から階段を下って数分の場所にある。
ここに来たらもう一度食べようと思っていたもの、栃餅だ。
かつては米がほとんど取れない山村では重要な食糧だったらしい。
甘すぎず それでいて大福のように柔らかいこの餅が僕は大好きだった。
昔祖父に読んでもらった絵本でこの餅が出てきたことがある。僕はその絵本が大好きで、きっと栃餅が好きな理由の一つなんだと思う。
お土産用に包装された6個入りの栃餅を買って、外のベンチに腰を下ろした。
古びたベンチがぎりりと音を鳴らす。
目の前の比較的大きな道路は、未だ車が通らない。そういえば、人も見当たらない。
風に揺れる木々の音だけが偶に耳をくすぐるだけで、本当に静かなところだなあと思いながら、僕は栃餅を口に運んだ。
「君窪くんけ?」
自分のすぐ後ろ、左の耳のすぐ近くで酷くしゃがれた声が聞こえた。
突然掛けられた声に驚いて跳ねるように立ち上がる。
腰をおおきくひしゃげた、老婆がいた。
「君窪くんけ?」
再び囁くような、震えるような、それでも耳にはっきり聞こえる声で、老婆は話しかけてくる。
空気がきぃぃいと甲高い音を上げたように感じた。あるいは、僕の口から洩れた音かもしれなかった。重たく、張り詰め、まるで車に酔ったような嫌悪感。
その顔は酷く酷く歪んでいた。この世の苦しみを全て受けたような、そして今なお受け続けているような、何かを憎むような。何かを呪うような。しわのひとつひとつに苦痛と苦悩がにじみ出たその顔で。
一歩近づいてきた。
ち、
「違います」
ひゅぅと掠れた声で精一杯の否定をする。
頭の中でがんがんと音が鳴り響く。危ない人だ。物凄く僕の害になる人だ。
一歩。二歩。
足を後ろに下げる。
「帰ってきたんねぇ」
瞬間。僕は踵を返して走り出した。
頭の中の警告音は更に激しくなる。鼓動の音が耳に響く。左手に持っていた箱から栃餅が弾け飛んだ。
一目散に道路の向かい側へ。
「おかえりねぇ」
か細い消え入りそうな声なのに、その言葉ははっきりと耳に届いた。
頭の後ろから生暖かい空気が、べたべたと纏わりつく。それを振り払うように目の前の坂道をかけ上げる。
走る。走る。つま先を引っ掛け転びそうになる。走る。
坂の中頃まで走ったとき、ふと、先ほどまであった悪寒が退いていることに気が付いた。
振り向くと、先ほどの場所に老婆の姿は無かった。
坂の下の道には未だ車が通らない。人の姿もない。
風に揺れる木々の音。
目をぎゅうと瞑り、呼吸を整える。
心臓の音は未だ耳に大きく響いている。
嫌悪感はもう感じない。
もう一度、老婆の居た場所を見る。
「なんなんだよ」
口から洩れた声はか細く、震えていた。
左手に持った箱を見れば、中には栃餅が一つ。
無意識に栃餅を摘まんで口の中に放り投げた。
おいしい。
おいしいけれど、
僕の頭の中には、いつまでも老婆のおかえりという言葉が反響していた。
(仮)春の休みと君の死体 S●NY @kurouzu_1
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