まじないづくり
立見
まじないづくり
僕のおばあちゃんは優しくて、少し変わっていて、不思議な紙とペンを持っていた。
「ルロイ、貴方また遅くまで外で遊んでいて、お母さんを困らせていたわね。暗くなる前に帰ってきなさいって、いつも言われているでしょう?」
「大丈夫だって、おばあちゃん。テッドやユアンも一緒だもん」
「日がくれた後に、子供だけで外にいるのは良くないわ」
「なんで?お化けでも出るから?」
祖母はそこで、ニィィィッとわざと不気味な笑みを浮かべる。
「いいえ、お化けよりずーっと怖いものよ。ねぇルロイ、【子供部屋のボギー】って知ってるかしら?」
「……知らない」
「親の言うことを聞かない、悪い子供の前にだけ現れる妖精たちのことよ」
祖母は古い民話や妖精について詳しい。中にはゾッとするような話もあったけど、面白くてつい聞き入ってしまうのが常だった。
けれど、祖母はまず紙とペンを持ってきた。青みがかった珍しい羊皮紙に、濃灰色のインクのペン。そうして、僕が初めて聞く者たちの姿をするすると描き出す。
――そうねぇ、まずは【ペグ・パウラー】と【緑の牙のジェニー】。両方とも、水辺で遊んでいる子供を捕まえて溺れ死にさせるの。だから、川の傍では遊んじゃ駄目よ
――ほら、これは【ゴギー婆さん】。勝手にまだ熟してない果実を食べるような子供を懲らしめる、果樹園の番人。
――【トミーローヘッド】は怖いわよ。生首と血まみれ骨、なんていう名前もあるわ。暗い戸棚に住んでいて、鍵穴を覗くと真っ赤な顔が見えるかもしれない。だから、夕飯前に戸棚からお菓子をくすねようなんて思わないことね。
――【バグベア】は、言うことを聞かない行儀の悪い子のもとへ現れる。遅くまで遊んでいる子や我儘な子がいれば、すぐにやってきて子供をむしゃむしゃ食べてしまうの。
祖母が描いたボギーたちはどれも奇妙な姿をしていて、どこか滑稽だった。泡立った水面で、目から上だけを覗かしたペグ・パウラー。毛虫のような身体のゴギー婆さん。毛むくじゃらのクマみたいなバグベア。けれど、聞かされた話は恐ろしい。
「でもおばあちゃん、それって作り話でしょ?」
「そうだといいわねぇ」
祖母はボギーたちが描かれた紙をくれた。僕はそれを自分の机の引き出しにしまった。そんなに怖くはなかったけど、不気味なものを毎日見ようとは思わない。
ある日、僕はこっそりと台所へ忍び込んだ。母は外で洗濯物を干している。棚にしまってある焼き菓子を少し失敬して、また遊びに行くつもりだった。
戸棚に手をかけて、そこでふと祖母が話してくれた恐ろしい妖精を思い出す。戸棚に住むのは、確かトミーローヘッド。ほんの少しの好奇心にかられて、ふざけ半分に戸棚の壊れた鍵穴に目を近づけてみた。視界に広がるのは真っ暗闇。
の、はずだった。
「…ヒッ」
ぎょろ、とぬめった赤が鍵穴の向こうで蠢いた。鼻先を、生臭い匂いが掠めた気がした。思わず後ずさり、背後の机にガツンと背をぶつける。
貼り付けられた視線の先には、ゆっくりと内側から開いていく戸棚。中から何かが現れるより先に、その場から駆け出していた。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
気づけば、近所の祖母の家を訪れていた。ゆったりと椅子に凭れ読書をしていた祖母の前で、呼吸も荒いまま起こった事をまくし立てる。
祖母は終始落ち着いていた。むしろ話を聞いたあとには、微笑ましいとでもいうように口を緩ませている。
「おばあちゃんが言ってた話、あれって作り話じゃなかったの?!」
「いいえ、私の考えたオリジナルよ。あなたのお母さんが、あまりにもひとり息子には苦労してるって聞いて。少しお灸を据えようと思ってね」
「でも僕見たよ!ほんとにいたもん!」
「あぁ、そりゃあ」
祖母はクスクス笑う。僕の頭をそっと撫でた。
「私があなたに聞かせたのは作り話よ。けど、それに近いモノがいないとは限らないじゃない。ルロイが見たのは実は、家の戸棚に昔から住んでる“隣人”だったかもしれないわね?」
「あんなのがいるなんてヤダ……」
「ルロイがいい子でいたら、彼らは何もしないわよ。それよりまだお昼ご飯でもないのに、戸棚に用があったのはどこの悪い子かしら?」
それ以来、何となく家にも早く帰るようになった。帰り道の途中には淀んだ池があって、どうしても【ペグ・パウラー】を思い出す。日が暮れる前に帰って母の夕飯の支度を手伝うと、とても喜ばれた。
祖母はそれからも、時折不思議な者たちの話をしてくれた。才能を与える代わり、男の命を吸う【リャノーンシー】や、異国の精霊で鶏の足を持つ【キキーモラ】。
「ねぇ、またあの紙に描いてみせて」
「みだりに“彼ら”の姿を描くわけにはいかないの」
「ボギーは描いてくれたのに?」
「あれは私が考えたものだもの」
そういえば、祖母があの紙とペンを使うことは多くない。
次に祖母がそれらを使ったのは、10年以上あとのこと。僕の母が亡くなったときだった。女手一つで育ててきた息子がようやくひとり立ちして、ホッとしたしたのかもしれない。病に倒れてあっさりと逝ってしまった。
葬儀も終え、いつまでも沈み込んでいる僕の横に、祖母はずっといてくれた。
早朝なのか黄昏なのかも分からない。薄明が射し込む部屋で、祖母は1枚の絵を見せてくれた。例の青っぽい羊皮紙に濃灰色のインクで描かれたそれが何だったのか、どうしても思い出せない。祖母は言った。
「これはね、ゆっくりとあなたの悲しみを吸い取ってくれるものよ。だから今は、好きなだけ泣きなさい」
僕はゆるゆると首を横に振る。この悲しみを忘れたいとは、到底思えなかったからだ。祖母は、そんな気持ちを汲んだようにあとを続けた。
「悲しみを吸うかわり、これはあなたの心にある物を埋めていく。思い出、面影、些細な言葉や優しい手のひらの感触。お母さんがあなたに与えたすべてが、心の空いた処を塞いでいくわ。長い時間かけてね」
僕は小さく震える手で紙を受け取った。それに滴るのも構わず、大粒の涙を流した。
長い間、僕を支えてくれた祖母だった。少し変わっていて、とても優しい人だった。
そんな祖母も僕が結婚し、僕の子供が大きくなった頃に亡くなった。ずいぶん長生きしてくれて、ひ孫にもたくさんの不思議な話を語ってくれた。僕が昔描いてもらった【子供部屋のボギー】の絵は、僕の子供にも見せた。「悪いことをしたらお化けが来るぞ」なんていう脅しより、ボギーたちのほうが効果覿面だからだ。
祖母の死後、遺留品を整理していると、あの紙とペンがどこにも見当たらないことに気づいた。形見として残したかったので残念だが、仕方がない。祖母はあれをどこで手に入れていたのか。
そしてもう一つ、おかしなことに、祖母が描いてくれた絵が消え失せていた。【子供部屋のボギー】の絵と、母が亡くなったときに描いてくれたものだ。紙はまっさらで、何の痕跡もない。心なしか、紙自体が茶色っぽく、くすんでいるような気すらした。
祖母が描いたものは、結局何も残らなかった。けれど、語ってくれたものは残る。子どもたちは曾祖母に何度もせがんで聞いた物語をそらで言えるし、僕も祖母が語ってくれた不思議なモノたちは心の奥深くに根付いている。
祖母が描き、語ってくれたものは“まじない”のようなものだったのかもしれない。“彼ら”のことを伝え、また僕を守るための、優しい祈り。
僕は祖母のような不思議な紙もペンも持たないけれど、祖母が見せてくれた“彼ら” の片鱗を伝えていくことはできる。そんな“まじない”があってもいいだろう。
まじないづくり 立見 @kdmtch
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます