第8話 期限


 自宅のドアを開けると、まだ誰も帰宅していないせいで玄関は真っ暗だった。

 鞄から携帯電話を取り出し、ライトを点けて室内の電気のスイッチを探して押す。明るくなったことではっきりした室内はいつもと変わりない。

 つい先ほどは、物語の世界のようなものを見聞きしたというのに。

 慶太は押し寄せてきた疲労感から溜め息を吐いて、リビングに足を向けた。

 鞄を床に無造作に置き、ソファーに倒れ込むように横になった。身を捻り、ぼんやりと天井を眺める。


(今、僕は夢を見ているんだろうか……)


 あまりにも現実離れした状況に、頭がうまく処理しきれていない。

 あの公園に向かうまでは、確かにいつもどおりの日常だった。そこから何かの拍子に眠ってしまって、夢を見ているのだろうか。それにしては、背中からじわじわと伝わる合成皮のソファーの冷たさや、壁に掛けた時計の秒針の音はやけにリアルだ。

 そんな慶太に現実であると決定付けたのは、仕事から帰宅した母親の声だった。


「ただいまー……あら? 慶太、どうしたの? 制服のままで。具合悪いの?」

「……あ、お帰り」


 リビングに入って来た母は買い物袋を台所に置きながら、ソファーで横になっていた慶太の服装を見て目を丸くした。

 普段、学校が終わって帰ってくれば五時前後だ。今の時間は九時を回っている。今まで慶太の身に起こっていたことを知らない母にとって、制服のままというのは違和感のある格好だった。

 ソファーの横まで歩み寄った母は、上体を起こした慶太の制服に汚れを見つけるなり何事かと顔を曇らせた。


「しかも汚れてるじゃないの。どこかで転んだの? 怪我は?」

「ううん、大丈夫。友樹もいたし」

「『ゆうき』?」

「そう。ちょっとふざけてたら転んだだけ」


 正確には殺されそうになったのだが、そんなことは口が裂けても言えない。

 きょとんとした母の様子に引っ掛かりを感じながら説明すれば、彼女はとりあえず納得したのか優しく笑みを浮かべた。


「そうなの。……ふふっ。“新しいお友達”ができたのね」

「うん、そう……え?」

「え?」


 今、彼女は何と言ったか。友樹は「新しい友達」ではない。

 友樹の家とは家族ぐるみの付き合いだ。もちろん、母だけでなく父も面識はある。

 しかし、彼女は不思議そうに小首を傾げており、ふざけて言ったのではないと分かる。

 ふと、破綻者が消滅したとき、周りがどうなるのかを思い出した。関係者の記憶から消えるのだと。


(そういえば、友樹の家族は誰もこっちに来る気配がない……)


 夜九時を回っても帰ってこない息子を心配するなら、まずはここに来るはずだ。だが、そんな様子は微塵もない。

 既に友樹は破綻して消滅したのかと思ったが、そうだとすると慶太からも消えてしまうはず。

 当初、特務が慶太から記憶を消すつもりだったことを考えると、彼らは意図的に記憶を消すこともできる。また、幻妖世界のことは広く知られてはならない。友樹の帰宅が遅いと家族が探し始めれば、幻妖世界を知られる可能性もある。

 ならば、考えられる答えは一つ。


(特務の人が記憶を消した……?)

「お友達と違った?」

「あ、ううん。そうじゃなくて……」


 きょとんとする母は、本当に友樹についての記憶が抜けてしまっている。

 何と説明すればいいのか。そもそも、この状態で友樹について説明してもいいのか。

 こうなったら自棄だ、と慶太は思いきってストレートに言った。


「その……『友樹』って、大澤友樹のことなんだけど……」

「大澤って……近所の大澤さん?」

「そうだよ」


 何気ない会話が、とても恐ろしいものに感じる。

 まだ目を瞬かせる母に焦燥感を覚えはじめた頃、彼女はハッとして声を上げた。


「あ、ああ! そうだったわね。ごめんね。母さん、ちょっと物忘れが激しくなってるのかしら。いやねぇ、もう。昔からお世話になってるのにね」

「あはは……。きっと仕事で疲れてるんだよ」

「そうかもしれないわね。さて、ご飯まだ食べてないでしょう? 遅くなっちゃったけど、今から作るわね」

「あ、手伝うよ」


 自身が忘れていたことを驚いている母に笑って返すも、脳内では焦りが生まれるばかりだ。友樹に何が起こっているのか。彼女に思い出させてしまっても良かったのか、と。

 その後、母はいつもどおりに慶太と一緒に食事を作り、仕事の遅い父を待たずに二人で済ませる。片付けはやるから、と母は慶太に風呂を勧めてから自らは家事に移った。

 普段と変わりない光景だが、それが先ほど友樹を忘れていたことを助長させる。普段と同じならば、なぜ忘れていたのかと。

 風呂で一人考えていた慶太だったが、どうやっても良い方向にはならず溜め息が零れた。


(特務の人が消しているなら、何か理由があるのかもしれない。けど、これじゃあまるで、助からないみたいじゃないか……)


 心配した友樹の家族からの連絡は未だない。ただ、友樹の家も両親は共働きの上に帰宅は日付を越えることもある。ならば、朝になるまで気づかない可能性もあるだろう。

 ちら、と脳裏を掠めたのは、名刺とその持ち主。

 何かあれば連絡をと言ってはいたが、さすがに早すぎるかと自問する。


「……明日、相談してみようかな」


 水滴のついた天井をぼんやりと眺めながら呟けば、僅かに気持ちは軽くなった。

 風呂から上がり、帰宅していた父と軽く話をしてから自室に戻ってベッドに寝転がる。

 たった二、三時間の出来事だが、内容があまりにも濃密で長く感じた。


「夢なら、良かったのに……」

『何度思おうが、これが現実だ』

「へ? うわっ!?」


 慶太以外はいないはずの部屋に別のものの声がして、近くで聞こえた声の主を見ようと寝転がったまま顔を横に向ける。

 すると、ベッドの端から顔を覗かせる一匹の狐に気づいて飛び起きた。


「なっ! き、狐? というか、一体どこから……」

『ははっ。窓の鍵くらい、我々幻妖にとってはないに等しい。まして、結界すらない一般家庭はな』


 窓を見やって鍵が閉まっていることを確認した慶太を、九本の尾を持つ狐は楽しげに笑った。そして、眩い光を放つと瞬く間に見覚えのある姿へと変化した。


「あ! さっきの!」

「特務はどうだったかな?」

「なんでそれを……」

「我々、妖狐の中でも一部のものは千里眼を持つ。離れた場所の出来事はもちろん、未来をも視ることができるのでね」


 妖狐とは林の中で別れて以来会っておらず、慶太が特務に連れて行かれたことは知らないはずだ。

 理由を話されても今ひとつピンとこない慶太に気づいたのか、妖狐はベッドの縁に座るとすぐに話を変えた。


「それはそうと、記憶を消されずに済んで良かったな、少年。友人はまだ捕まっていないようだね」

「あなたのせいで友樹は大変なことになっているのに、よくそんなこと……!」

「望んだのはあちらだ。私はそれに応え、そして鍵を渡したまで」


 あくまでも自身に非はないと言う妖狐だが、確かに、友樹は妖狐を自ら探し、自ら力を望んだ。その際、妖狐はきちんと条件を提示しており、友樹はそれを呑んでいる。


「『人には戻れない』と言ったはずだ。ならば、私に拒否する権利はない」

「何でこんなことをしているんですか? 仲間を増やしたいなら、自分達の世界から呼べばいいんじゃないんですか?」

「まあまあ。私の目的はともかくだね。お前は、私に訊きたいことはないのかい?」

「訊きたいこと?」


 話題を変えられ、慶太は自身が抱いていた疑問がなんだったかと考える。

 そして、明日にしようとしていた疑問を思い出した。


「そうだった。母さんが、友樹のことを忘れていたんです。それって、友樹の身に何かあったってことなんですか?」

「だろうね」

「『だろうね』って」

「正直、私は力を与えた後のことはほとんど知らない。特に、ああいう『復讐』だの『特別になりたい』だのという私欲には興味がないからね」


 あっさりと言ってのけた妖狐は、懐から水晶玉を取り出した。手のひらに収まるそれは、中に淡く放つ光を閉じ込めている。

 不思議な存在感を放つ水晶玉を眺めながら、妖狐は言葉を続けた。


「人として過ごせば、それはそれで幸せな日々だったというのに。どうしてこうも変化を求めるのか。さて、人であるお前ならば分かるかい?」

「え?」

「私は長らく人を見てきた。だが、人は進化している反面、変わらない部分もある」


 まだ二十代にも見える妖狐だが、実際は数えることすら面倒なほどの年齢だ。最も、幻妖に年齢という概念は薄く、数えるものはまずいない。

 そんな遥か長い時を生きていても、分からないことはある。


「私は人間のことを知りたくてね。答えはないのだろうから、私が納得すれば良しとしているよ」

「…………」

「一つ目の変わらない部分は、何かを『守ろうとする意志』だ」

「!」


 一度は視線を落とした慶太だったが、妖狐の言葉に再び顔を上げる。

 妖狐の金色の目が、闇夜に浮かぶ月を連想させた。


「お前もそうだろう? 友を助けたいと願うそれは、今も昔も人の変わらない部分だ」


 良い意味でね、と付け足した妖狐はベッドから立ち上がると窓辺に歩み寄った。そして、思い出したように振り返って言う。


「ああ、そうそう。あの友樹とやらだが」

「何か知ってるんですか?」

「今、視てやっただけだ。ただ……」


 言葉尻を濁した妖狐に嫌な予感がした。

 慶太の表情が強張ったのを見て、彼はなぜか口元に微笑みを浮かべる。


「少々、厄介になりそうだよ」

「もしかして――」

「望まぬならば口にせぬことだ」

「……なら、僕が友樹を助ける手段ってありますか?」

「は?」


 訊かれることまでは視なかったのか、妖狐は間の抜けた声を出して目を瞬かせた。

 慶太は幻妖に詳しくない以上、そちらに詳しい誰かに頼るしかなかった。たまたま、そこに妖狐が現れただけだ。


「あなた自身が言ったんですよ? 人は誰かを守ろうとするのは変わらないって」


 妖狐が表情を引き締めた。慶太の未来を視ているのか、それともただ真意を読み取ろうとしているのか、慶太には分かる術はない。

 それでも、慶太は構わずに真っ直ぐに妖狐を見る。その目に、人外のものに対する恐怖心はもうなかった。


「約束、したんです。桜庭さんと」

「……ああ。あの雷鳥の子か」

「僕も方法を探すと言ったけど、でも、僕に出来ることなんて全然分からなくて……」


 どう対応すればいいのか、方法はまったく分からない。探すと言っておきながら何もできない自分が苛立たしくなった。

 しばらく黙ったまま慶太を見ていた妖狐だったが、視線を窓の外に向けると独り言のように呟く。


「お前も同じになればいい」

「え?」

「方法は至極簡単だ。ただ、発現した力によっては困難になるがな」

「それって、妖狐にも分からないんですか?」


 先を視ることができるなら、慶太が友樹を救えるかどうか分かるはずだ。

 しかし、現実はそう甘くはなかった。


「継承に際してその者の運命は大きく変わる。だからこそ、お前が依人となった後、どのような力が出るかは分からない」

「じゃあ、一か八かの賭けっていうことですか」

「ああ。だが、発現した力次第では、あの少年の暴走を阻止できるかもしれない」


 友樹を救える力が発現すればすべてが丸く収まる。妖狐が言うように、力次第では意味のないものになり、自身の人生を捨ててしまうことにもなりかねない。

 救いたい気持ちは確かにある。だが、自身の未来を失うと考えたとき、本当にいいのかと囁く自分が確かにいる。


「まぁ、どうするかはお前次第だ。私自らここへ来たのは単なる気まぐれだが、可能性は教えてもいいだろうと思ってね」


 自身の気持ちに戸惑う慶太を見て、妖狐は小さく笑みを漏らす。

 手元に視線を落としていた慶太は、窓が開く音に気づき顔を上げた。


「お前が継承するかしないかは自由だ。また、友樹とやらが本当に救われたいかどうかは本人にしか分からない」

「…………」

「残された時間は僅かだよ」

「っ!」


 明日一杯とはいえ、それは友樹に何も起こらなければの話だ。

 告げられた制限時間ははっきりとしたものではないが、慶太を焦らせるには十分だった。


「これも私の気まぐれだが、しばらくはお前の声に応えてやろう。何かあれば呼ぶといい」


 妖狐はそれだけを言うと、淡い光を発して一瞬で姿を消した。

 しばらく呆然としていた慶太は、やがてやり場のない感情に押し潰されるようにベッドに横たわった。

 妖狐に言われた言葉が頭の中で繰り返される。結局、自分一人では諦めるしか手段がないのかと悔しさで歯を食い縛った。


(やっぱり、僕は一人じゃ何もできないんだ……)



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