豊穣の季節は過ぎて

@akira404

苛烈な日差しが目や肌を焼く季節がやってきた。ただでさえ暑いのに、太陽が何人たりとも逃さぬとばかりに真上に陣取るので、日陰を探すのにも苦労する。

そんなある日、画業を営む叔父から、珍しいものが手に入ったので見に来ないかと誘いがあった。叔父の家は僕の住む家からも歩いて行ける距離にあるので、気が向いた時に度々遊びに行くのだ。母は叔父が倒れていないか見てこいと言って僕を送り出した。

合鍵で扉を開けて入った部屋には、相変わらず飾り気が無かった。美術家の家と言えば、調度品にもこだわりがあって、棚には珍しい美術品が並んでいるところを期待してしまうけれど、叔父はそういう人ではなくて、書架に写真集や美術書が並べられるのが精々だった。キャンバスの外側はあまり気にならないらしい。

「叔父さん、来たよ」

「ああ、いらっしゃい」

短い挨拶を交わすと叔父はまたキャンバスに向き直った。テーブルの上に果物が盛られ、叔父がそれらをキャンバスに写し取っていく。叔父が人と会話する時も手を止めないのはいつものことなので、特に気にしなかった。

いつもと違うのは、その傍らに一人の少女が座っていたことだ。その膚は透けるように白い。雪国の生まれにしても、あまりに白すぎる。流れる黒髪がその印象を一層強くした。彼女の顔がゆっくりと僕の方に向けられる。その眼を見た僕は眩暈がした。何かがおかしい。

「動く死者を見るのは初めてだろう?」

叔父の言葉で僕は引き戻される。動く死者。そういう技術があるとは聞いたことがある。

噂では遥か遠い北の国、雪に閉ざされた死体安置所で興った技術だという。人間の死体に対する防腐技術は古くから研究されていたし、生鮮食品の鮮度を保つ技術だって発展し続けてきたけれど、死者の身体を長期にわたって動かしてみせるなんて芸当には程遠い。動く死者はそれらを大きく引き離す高度な技術の結晶だ。その技術は幾つかの本に纏められているが、既知の科学とはかけ離れた理論に溢れ、人道的にも問題があるため再現もされず放置されているとか。

そういった話は大体が、歯車仕掛けの機械に獣の皮を被せたような粗悪で悪趣味な動く剥製を売る行商人が喧伝する謳い文句であったが、そこにも多少の真実が含まれていたのかも知れない。

「彼女が、そうなの? 動く死者なの?」

もう一度彼女の眼を見る。あらゆる感情の影が油膜のように流れていき、僕にはすくいとることができない。だが、そこに実際何もないのなら、それも当然だった。彼女が動く死者だと知っていれば、悲しみだとか苦しみだとか、そういうものを見出したがる人達も居るだろうけれど、僕には何も見えなかった。その眼は僕に向けられてはいるけれど、本当に僕を見ているのかも分からない。人なのか、物なのか、それすらも曖昧だ。

「そう、動く死者。死んで意思もなく、ただ生前の動きを基にして動くように仕立て直されたもの。パトロンの一人から譲り受けてね」

 動く死者は静物画に似る。失われていくはずの形を、多少の変化や脚色を加えながらもその美しさを留めて残そうと試みたもの。だから、画家である叔父のもとへ渡ってきたのだろう。

「それって、いいの?」

 僕は恐る恐る尋ねたが、叔父は平気な顔で言った。

「作るのは違法さ。でも所持だけなら大丈夫。既に作られてしまったものを、誰かが所持して管理するのは仕方ないんだ。死者といってもまだ動くものを焼いたり埋めたりできないからね。まあ、良い顔もされないけど」

死者を燃やしたり埋めたりすることが善い行いなら、それが動くからと言ってやめたりするのはおかしい気もするけれど、実際そういうものなんだろう。考えてみれば、死者の身体を燃やしてしまったり、見えないところで腐敗に任せるより、綺麗に保っておく方が丁寧で好ましいとも思う。全ての死者を保存しておくことに比べて、死者を焼くのは衛生上有効な手立てではあるし、体積も大幅に圧縮できるけれど、それは社会的な都合であって倫理とはあまり関係ない。焼いたり埋めたりできないのに、所持しているだけでも白い目で見られるのは理不尽な気もするけれど、それは叔父に言っても仕方がないことだ。僕はここに彼女が居ることについて、ひとまず納得することにした。

「名前は?」

 動く死者とどう向き合えばいいのか分からなくて、僕は初対面の人間にするような無難な質問をした。

「かつてはあっただろうね。生前の名前や、以前の持ち主が付けた名前。でも、今はない。名前だけで何かを知った気にはなりたくないし、そもそも彼女は死者だ。過去に誰かであったとしても、今はもうその誰かではない。動く死者は、誰でもないことにこそ価値がある」

 それは少し予想外の答えではあったけれど、死者である彼女に対して名前で呼びかけることは無いだろうし、叔父と会話するだけなら、名前が無くてもそれほど困ることもないだろう。彼女のことは、単に彼女と呼ぶことにした。生前の彼女やその家族、動く死者になった経緯など、気になることは他にもあったが、彼女が誰でもないことに価値を置くのなら、彼女の過去に関する他の事も、叔父は知らないか、あるいは聞いても答えないだろう。

喋っている間に叔父の絵は完成したらしい。叔父は筆を置くと代わりに小さなナイフを取って、果物の皮を剥き始めた。その動きに鮮やかさは無いけれど、さすがに手先が器用なのか、皮はするすると剥けていく。剥き終わると、そのまま実を小さく削って彼女の口に滑り込ませていく。

「動く死者も物を食べたりするんだね」

 僕はてっきりその果物は叔父と僕の軽食になって、残った分はその後の叔父の食卓の彩りにでもなるのだろうと思っていた。

「食べるわけじゃない」

 叔父は少し笑ってそう言い、今度はグラスを持って立ち上がり、彼女の背後に回ると、彼女の服の後ろを留めるリボンをほどいた。僕は目を背けた方がいいのか少し迷ったけれど、見ておくことにした。彼女の滑らかな背中、その中心には銀の栓があった。叔父がその下にグラスをあてがい、そっと栓を抜くと、僅かに濁った透明な液体が流れだした。華やかな香りが辺りに漂う。

「これは……酒?」

 何故ここで酒が出てくるのかはよく分からなかったが、香り高い琥珀色の液体がグラスに入っている様子は酒にしか見えなかった。

「使わなくなった臓器を抜いて醸造器官を組み込んだらしい。果物を口から入れてしばらく経つとこうやって果実酒ができる」

 僕は混乱した。削った果実を放り込むだけで果実酒になるのはなかなか高度な技術な気はするけど、可能な範囲だろう。動く死者そのものの是非についてもある程度は納得した。使わない臓器を抜いてしまうことも理解できる。でも、それらが繋がらない。空いた空間があってもそれを酒造には使わないだろう。

「えっと、なんで? どういう理由でそんなの入ってるの?」

 よく考えれば、彼女が誰でもないことに価値を置くような叔父がそんな事を知っているわけは無いが、それでも訊かずにはいられなかった。

「製造者に聞いてみないと分からないよ。ただの飾りとして置いておくより丁寧に扱われるからとか、倫理的にそれらしい理屈をこねることもできるけど、まあ、趣味だろうね」

叔父は肩をすくめてそう言った後、その果実酒をグラスから匙にすくって僕に差し出した。味見してみろということだろう。

「趣味って……それいいの?」

「付けちゃったものは仕方がないし、飲んだところで罪に加担したことにはならないよ。糾弾するあても無いんだろう?」

 動く死者に醸造器官を付けることは承服しかねるけど、確かに今更それをどうこう言ったところでどうにもならない。それを使うことにも、大きな問題があるとは思わない。彼女には何ら罪は無いし、叔父が何かしたわけでもない。彼女にそれを付けた人間には問題があると思うけれど、僕がその人間を知っているわけでもない。

僕は迷った末に、叔父から匙を受け取った。匙から舐めた酒は、甘酸っぱかった。

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