梟の麓

狗須木

切り札はフクロウ

「――――――ッ、はッ」


 青年が未開の地を走り抜ける。腐った草葉が足首に纏わりつく。低木から突き出た枝が頬を掠める。ざわざわと不安を煽る不快な音は、果たして己の身の内から聞こえるのか、はたまた森から届く警報か。


「ッ!」


 地を這う蔓に足を取られ、草藪へと身が投げ出された。剥き出しの肌に幾筋もの擦傷が刻まれる。暗闇の外へと転がるようにして藪を掻き分け、這い出た先で立ち上がろうとその場で手を突き膝を立てる。しかし、意志に反してその身体は柔らかな地面にずぶずぶと沈んでいった。

 これは掟を破った者への罰なのか――――村の喧騒は遠く離れ、視界は一面鬱屈とした深緑だけが広がっている。戻ろうにも既に方角は見失っており、闇雲に走り続けるしか選択肢はない。


 震える膝を叱咤し、不格好にも四肢を地面に突き立てて身体を起こす。粗末な服は泥に汚れ、至る所が擦り切れていた。しかし、森の奥を見据えるその瞳には未だ途絶えない力強い光が宿っていた。


「まだ……まだ、王に、この声を届けるまでは……!」


 耳に届くのは己の息遣いと鼓動のみ。他に野生動物の気配はおろか、葉擦れの音さえも響かない”王の森”で、青年は再び走り出した。




 森は万物の命である。村で生まれ育った青年は周囲の大人からそう言われて育ってきた。その言葉通り、森にはありとあらゆる動植物が暮らしていた。人間もまたその中に含まれ、森からの命を頂きながら細々と生きていた。

 森の奥へと入ってはいけない。周囲の大人はそうとも言っていた。なぜなら森の王に食べられてしまうから。その言葉通り、村の人間の制止を聞かずに多くの動物と木々を貪ろうと森へ入った余所者は誰一人として帰ってこなかった。


 森の王。その姿を見た者はいない。しかし、村の誰もがその存在を疑っていない。その伝承は迷信と切り捨てるには余りにも多くの害意を退け、真実と呼ぶには何一つ証拠が無かった。


 王の棲む森が秘境を目指す力ある者に狙われるのは今に始まったことではない。

 しかし、人間の王が国を挙げてその地を支配しようとするのは初の事だった。



 森の麓にある小さな村に住む人々は、その特徴的な外見や言動から森の番人とも呼ばれていた。

 大樹に覆われた村に届く陽光の少なさに伴い、その髪や皮膚、瞳に含まれる色素は少ない。また、質素な食生活からその身体は線が細く、色白さと相まって妖精と謳われる儚さを持っている。しかし、原始的な狩猟採集生活により見た目とは裏腹に強かで丈夫な心身を誇り、悪意ある余所者をその腕っ節で容赦なく追い払うことも珍しくない。

 余所者が森へ入ることを制止、あるいは追い払う行為は彼等にとって善意以外の何者でもないのだが、その真意を知るのは森へと消える時である。


 そうして帰らぬ人となった多くの者達を偲ぶ声は、長い時を経て森が広く知れ渡るに伴い、森の番人達を人殺しと呼ぶ怨嗟の声へと姿を変えていった。

 その声を聞きつけた大国の王は言葉巧みに燻る人心を焚きつけた。世論は殺人罪で森の番人達を捕縛し、事件を解明すべく森へと人を送り込むことを望んだ。


 そして今、虚構の正義感と肥大した欲望が、森の麓へと手を伸ばしていた。



 ***



 森がうるさい。

 とある一匹の雄シカはイライラしていた。瑞々しい草花を食み、緑の香りを口いっぱいに含んで咀嚼し続ける至福の時だというのに、先程から木々が騒めいて集中できない。


 自慢ではないが、雄シカはそれはそれは繊細な神経の持ち主だ。ほんの少しの刺激で喜怒哀楽のボルテージは一瞬でマックスになる。そんなセンシティブな雄シカにはこの小さな騒めきがどうしても許せない。

 もちろん、森が静かでない時など滅多に無いが、それにしても今日の騒動はに響く。例えるならば、クマだとかウシだとか、そういった雄シカよりも大きな図体の動物達が雄たけびを上げながら何度も何度も飛び跳ねて地面を転がり木々をなぎ倒し、それでも飽きずに押し固めた地面の上でバラバラに歌いながら四肢をフル活用したタップダンスを延々と踊っているような、そんな耳障りな衝撃が絶えず角を揺らしているのだ。


 角を通じて脳を揺さぶられるようなこの感覚が雄シカは大嫌いだ。気が立って仕方がない。がむしゃらに角を振り回してみても地面を蹴ってみても、常に角を揺らされていては気が散ってしまう。

 イライラしながら森を駆けていると、視界に白いモノを見つけた。いつもならすぐに動きを止めてその正体を探るところだが、今の雄シカにそんな余裕は無い。


 異常な森で見つけた、異様なモノ。今日の森がおかしいのはコイツが原因に違いない。理由は無いが、とにかくイライラしていたのでこの鬱憤を晴らす対象を見つけたことで雄シカの気分はいくらか晴れた。しかしイライラは止まらない。

 その勢いのまま、雄シカは自慢の立派な角を振り回しながら白いモノの前に飛び出した。ふんすと荒い鼻息をつき、そこで初めて白いモノをよく見てみれば、森の外れに集団で暮らしているヒトであることに気づいた。

 こんな森の中にまで入ってくるとは珍しい。滅多に見れるモノでもないので、雄シカはこの機会にじっくりと眺めてみることにした。


「あなたは……王、ですか?」


 ヒトの鳴き声は複雑だ。物知りなヤツに言わせてみれば、ヒトはその複雑な鳴き声で互いに意思の疎通をしているらしい。頻繁に鳴くことのない雄シカにはよく分からない。


「お願いです、逃げてください……森に、武装した人間の集団が来ます」


 雄シカに難しいことは分からないが、耳が良いのでヒトがどんな音を発しているかは分かる。物知りなヤツがヒトの鳴き声に詳しく、頼んでもいないのに度々教えてくれているので、雄シカもその気になればヒトの鳴き声を真似できる程度にはヒトの鳴き声を知っているのだ。


「今までの集団とは質も量も違います。森を焼き払われるかもしれません。私達は最後まで彼等に抵抗しますが……王は、動物達を連れて、遠くへ逃げてください。あなた達がいれば、命は、森は何度でも蘇ります。だか、ら、ぁ」


 雄シカは気づいていたが、目の前のヒトは気づいていなかったらしい。樹上からリスが立派に実ったドングリをフルスイングしたところ、見事にヒトの脳天に直撃した。よく見ればこのドングリ、ヒトの頭と大差無い大きさをしている。さぞ痛かったことだろう、ヒトは鳴くのをやめて地に伏した。


「おいおいリスよ、このヒトは悪いヤツじゃあないだろう」

「え、マジ? やべえ、ついヤッちまったよ、どうしよう」

「さあなあ。オレは今のヒトの鳴き声でも練習するから精々頭を使うといいさ」

「そんなあ、後生だからよう、助けてくれよう」


 リスも根はいいヤツなのだが、如何せん臆病で気が短い。見慣れない顔の動物を見ると衝動的にドングリをぶつけてしまうのだ。その度にどうしよう、どうしようとウロウロしている。


 雄シカは難しいことは考えたくないので、リスのことは忘れて先程のヒトの鳴き真似をしつつ森の中を散策し始めた。ついでにフクロウの姿を探す。いつもヒトの鳴き声について講釈を垂れているのだ、たまには意趣返しをするのも悪くないだろう。この鳴き声が何を意味するのかフクロウに聞いてみよう。思いつきではあったが、雄シカにとっては妙案としか思えなかった。

 角を揺らす振動は止まないが、雄シカはこれからを思うと楽しくなってきた。気の昂りのままに大きな声でヒトの鳴き真似をした。




 雄シカは若かった。

 そして王の棲む森の中でも一際頭が悪かった。


 雄シカはフクロウのことをただの物知りな、気に食わないヤツだと思い込んでいる。何か変わったことが起きて頭を使わねばならない時があれば、全てフクロウに丸投げすればよいと考えている節がある。そうすれば万事うまくいくことは今までの経験で明らかであるし、フクロウは雄シカにとって都合の良い便利屋のようなものなのだ。

 周囲はそれとなく雄シカに態度を改めるように言うのだが、何分雄シカは頭が悪かった。なぜフクロウを敬わねばならないのか、理解できなかったしする気もなかった。結局、今の今まで雄シカの態度が改められることは無かった。


 しかし、今回ばかりは雄シカの短慮が森を、強いては世界を救うこととなる。



 雄シカの声を耳にしたフクロウは、森を護るべく数百年ぶりに飛び立った。

 森の王が人間の歴史にその名を刻んだ瞬間である。

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