ラストチャンス
川崎涼介
第1話
真夜中。男はビルの屋上で、目を閉じて待っていた。
暦は、春を示しているのに、頬に当たる空気は、とても冷えていた。しかし男には心地良く、リラックスさせてくれた。時折強風が、男を包む毛布を捲ろうと吹いてくるが、その都度、男の意識は目覚め、毛布をしっかり掴んで、捲れる事を防いだ。現在の男にとって強風は、良い眠気覚ましになっていた。周りには、誰もいない。日頃の喧騒も、深夜のこの高い場所では、別世界を想わせる程、とても静かだった。そしてこの静寂は、男の集中力を蓄えていった。こうして男は、ビルの屋上で夜明けを待っていた。
ピピピ…ピピピ…ピピピ…ピピピ…ピピピ…
突如、男の腕時計のアラームが鳴り、夜明けが始まった事を知らせる。そして男は、目を見開いた。
包んでいた毛布は、男が放り捨てた事により、強風によって何処かに飛んでいった。冷気によって、心地良かった感覚は、蓄えていた男の集中力により、気持ち良い緊張感に変わった。男は、事前に設置していたカメラのファインダーを覗きこんだ。ファインダーの先には、5キロ以上も離れた山々が、赤い線で自らの輪郭を描き始めていた。
男は、それをカメラで撮った。しかし男が撮りたい写真は、これではなかった。男にとって、今撮った写真は、撮りたいモノの為の準備運動だった。それから暫く、男は、ファインダーを覗きこんだまま、ある瞬間を固唾を飲んで待った。
4年掛かった。撮りたい写真を撮る為、男は、過去に6度挑んだが、天候不良やカラスの妨害、はたまた警察官の職務質問で、撮りたい一瞬を逃してしまった。それでも、諦め切れなかった。春と秋の年2回しかないこのチャンス。ビルは老朽化の為に、今年の夏に取り壊される。ラストチャンスになる今回、ようやくそれを活かす事が出来る。時間は、10秒あるかないか。たった10秒足らずの為、男は半年間、心身の辛苦に耐えて待ち続けた。そして今、大願は成就すると、男は確信していた。
山の輪郭を描いていた線が、赤色から白色に変わる瞬間、男は、シャッターを押し始めた。ファインダー越しでも判るほどに、その変色は、男にいつまでも見続けていたいと思わせる程に、とても美しかった。そんな中、男のターゲットが現れた。
朝陽は、いつもと変わらぬ容姿と調子で、登って来た。男の希望する場所から、いつもと変わらぬ容姿と調子で登って来た。今日この時間、この場所から東の空を見ると、朝陽の光が、一直線にビルの足元の道を白く染め上げ、朝陽と繋がった一本道になる。朝陽が登りきるまでの3分間の内、10秒にも満たない短い時間だが、確かに道は、朝陽と繋がる。多くの画家によって何百枚も描かれた光景が、今日この時間この場所に、確実に出来る。合成やCGではない実物が、目の前に出来る。男は、その瞬間を写真に収めるべく、今ここでシャッターを押し続けていた。そして男の全神経は、その瞬間の為に注がれ、「もう少し…もう少し…」と、無意識に呟きだした。その言葉に合わせるように、道は、手を伸ばして掴むように、朝陽に近づいていった。そして、あと一呼吸で繋がる所まで、道は伸長した。
しかし、男は撮影に失敗した。朝陽と道が繋がる瞬間、下から黒い影が現れ、被写体と撮影している男との間に、割って入って来た。そして影が上に移った時には、既に道は無くなっていた。
男は、空を見た。そこには、鳥が優美に飛んでいた。その飛び方は、嘲笑っているように、男には見えた。男は、空の鳥に向かって、恫喝した。しかし鳥は、何事もなく、ただ飛んでいた。その姿を見て、男の恫喝は、罵倒に変わった。思い付く限りの言葉を、飛び続ける鳥に向かって、罵倒し続けた。しかし鳥は、何事もなく、ただ飛んでいた。その姿を見て、男の罵倒は、段々と慟哭になった。
『本日は、快晴』、と云わんばかり澄んだ青空の朝。そこに、ただただ男の泣き叫ぶ声が空しくこだました。
完
ラストチャンス 川崎涼介 @sk-197408
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