文学部は今日もかしましい

砂部岩延

第一話『夢十夜』夏目漱石

 ページをめくる音が響く。

 茜色に染まった日の光が窓から差し込み、室内に濃い陰影を描く。

 使い古された長机、安っぽいパイプ椅子、壁際に立てられた小さな本棚。

 そして、斜向かいに腰掛ける、先輩へと。

 白く怜悧に整った顔は輝くような朱色に縁取られている。

 黒く長くつややかな髪は肩を流れて背中の濃い影に溶けていく。

 くっきりと二重の刻まれた流麗な瞳は憂いがちに伏せられて、手の中の文庫本へと注がれていた。

 やがて、そっと本が伏せられる。

 艷やかなため息をついて、先輩は視線を窓の彼方へと投げかけた。

 とても、絵になる人だ。

「そうしていると、まるで文学少女のようですね」

「あら、心外ね。私はいつだって文学少女なのだけれど?」

 まるで貴婦人のような仕草でふりかえった先輩の口元には、ほんのりといたずらっぽい笑みが浮かんでいた。

 夕日の中でかすかに小首を傾げる姿は、今まさに額縁で切り取ったなら、すでにひとつの作品になる。重ね重ね、絵になる人だ。

 もちろん、その本性を知らなければ、だけれど。

「文学少女は名作の背表紙にいかがわしい本を隠して学校に持ち込んだりしないんですよ」

「官能も立派な文学だわ」

「意見が割れそうなところですね」

 言葉というよりは擬音語か感嘆詞と呼ぶべき文字の羅列に埋め尽くされた本を、果たして『文学』と呼んでよいのかどうか。個人的な意見はさておき、世の中の大半の人間は認めないだろう。

「それに、あれはたまたまよ。今日は、ほら」

 手の中の本を広げてみせる。

 見て確かめるまでもなく、岩波文庫から出ている夏目漱石の『夢十夜 他二篇』だ。

「知ってますよ。僕が貸した本なんですから。むしろこれで中身がすり替わってたら泣きますよ、僕は」

「それは惜しいことをしたわね。今からでも」

「やったら絶交ですよ」

 隣の椅子に置かれた鞄からナニかを取り出そうとする先輩を半目で睨む。

「冗談、冗談」

 ころころと笑う先輩の姿に、ため息が漏れる。

「その様子だと、あんまりお気に召さなかったんですね」

「そんなことないわ。好きよ、これ」

 手にした本の縁を、白魚のような指先でなぞる。この先輩の仕草はムダに艶めかしくて困る。

「だと良いんですけど」

 個人的に夏目漱石の『夢十夜』は五本の指に入るお気に入りだ。

 その表題があらわすとおり、ほぼ独立した十の夢の話から構成され、夢らしいリアルさと不合理が入り乱れる、やや不思議な話になっている。

 それでいて、どこか胸に染みる話があったり、くすりと笑える話があったりと、名状しがたいバランスの上に成り立っていて、そこが気に入っている。

 とはいえ、好き嫌いは分かれるところだろう。

 どこかつかみどころがなく、虚をつくような不可思議な表現や描写も多い。

「どれか気に入った話はありました? 僕はけっこう、豚の話とか好きなんですけどね。ステッキで鼻を打つと、こう、ころりと転がって」

「残酷ね。豚を何万匹と崖下に突き落として虐殺する話が好きだなんて」

「いやまぁ、たしかにそう言ってしまえばそうなんですけど。それで、先輩はどうなんです?」

「私は、戦に出た旦那のために子どもを背負ってお百度参りをする女性の話とか、処刑される恋人の死に目に会うために馬に駆って夜を駈ける話とか」

「それこそ、どちらもオチは残酷ですけどね」

「愛する人のために闘ったのよ? それに、ほとんどのお話はもの悲しい終わり方でしょ」

「第一夜はどうでした? 僕はあれが一番好きなんですけど」

「物悲しいようでもあるし、美しくもある。よくわからなかったわね。好きだけど。神話に見るような、不可思議さもあって」

「たしかに、深く考えるとなかなか奥深いですよね」

 第一夜は、男と女の話だ。

 愛する女が死んだ後、男は女の遺言どおりにその体を埋める。

 百年待てば再び逢えるといった言葉を信じて、待ち続ける。

 やがて、女は百合の花となって生まれ変わり、二人は再会する。

 素直に解釈すれば、そういう話だ。

 でも、それだけでは終わらない深みがある。

「……そうね」

 先輩はおとがいに手を当てて考えこむ。

 嫌な予感がする。

「じゃあ、試してみましょう」

「……また、ですか?」

 思わず呆れた声が漏れる。

 先輩はにっこりと微笑んで、

「もちろん。だって私たちは『実践的文学部』だもの」


   ・ ・ ・


 リノリウムの床の上を軽く掃除してから、制服の上着やらジャージやらを広げて敷きつめる。

「それじゃあ、どうぞ」

「ありがとう。紳士ね」

「あたりまえですよ」

 女性をそのまま床の上に転がすなんてできるわけがない。

「仰向けでいいのよね?」

 先輩が即席の敷物の上に体を横たえる。

 そこで失態に気づく。

「あー、すみません、ひざ掛けを忘れていたんで、一度、体を起こしてもらえると」

 いつもは膝丈のスカートが広がって裾がやや上がり、形のよい膝頭がむき出しになっている。すらりとした太ももまで見えてしまいそうだ。

 昨今の女子高生事情からすれば膝や太ももくらいどうということはないのかもしれないが、そのあたりをきちっとしているのが先輩なので、なにやら罪を犯した心持ちになる。

「平気よ、たいして動くわけでもないのだし」

 先輩は横になったまま平然と見上げてくる。

 信用されていると喜ぶべきか、男に見られていないと嘆くべきか。

「ええと、じゃあ」

 なるべくそちらを見ないようにしながら、手にした『夢十夜』に視線を落とす。

 実践的文学部、より正しくは『実践的文学研究会』という。

 この同好会は「文学世界を実際に体験することでより深い理解を促す」という理念のもとに設立された。

 作ったのはもちろん、今目の前に横たわる、この先輩だ。

 入学早々、ひょんなことからこの同好会に引っ張り込まれて、以来、こうしてよく実地検証のようなものにつきあわされている。

 今から二人で、『夢十夜』第一夜の状況を再現してみるのだ。

「”こんな夢を見た。腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう”――」

「”もう死にます”」

 光を宿した黒く大きな瞳が真っ直ぐに見つめてくる。

 ”女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている”。

 まさにその”女”の姿を、先輩の姿に見て、おもわずドキリとする。

「えー……”真白な頬の底に温かい血の色が程よく差して、唇の色は無論赤い”。たしかにこれは、”到底死にそうには見えない”ですよね」

「”でも、死ぬんですもの、仕方がないわ”」

 先輩は一言一句違えず、女の台詞を辿る。

「じゃあ、もしかしたら本当は死んでなかったとか?」

「生きたまま私を埋めたのね。ひどいわ、あなた」

「いやいや、埋めろって言ったのは先輩……じゃなくて、女の方ですよ?」

「あなたになら、殺されても良いと思ったの」

「急に話が重たくなってきましたね」

「でも、それくらいの仲には見えるでしょ?」

「それはたしかに」

 生き生きとしながら死ぬ死ぬと言う女と、本当に死ぬのかなぁといぶかしむ男の、ちょっとずれた掛け合いが続く。

「まぁ、順当に考えれば、お話を重くしすぎないための工夫と、あとは二人が気のおけない男女の仲であることを表現するための仕掛けですかね」

「まっとうすぎて面白みに欠けるわ」

「いいんですよ、それで」

 それから、女は言う。

「”死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。天から落ちて来る星の破片かけ墓標はかじるしに置いて下さい。そうして墓のそばに待っていて下さい。また逢いに来ますから”」

 女は、先輩は、静かに語る。

「いつ、会いに来る?」

「”百年待っていて下さい”」

 声にかすかな熱を込めて、

「”きっと逢いに来ますから”」

 切々とした黒い瞳に射抜かれて、胸がつまる。

「……待っててくれないの?」

 先輩がわざとらしく上目遣いで目を潤ませる。

 それで正気に戻った。

「”待ってる”」

 先輩はにこりと笑うと、また頭を横たえる。

 黒い瞳がぼんやりと焦点を失いはじめる。

 ”静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の瞼がパチリと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた”。

 恐るべき喪失感と悲しみが、音もなく胸を穿ち、声を失う。

「……どう?」

 先輩がパチリとまぶたを開けて見あげてくる。

「色々と台無しですよ」

「ということは、悲しんでくれたのかしら?」

 いたずらっぽく笑う。

「さて、埋めないと」

「あなたに生き埋めにされたい」

「物騒なこと言わないで下さい。ふりだけですよ。せいぜい布でもかけるくらいですけど、今日は何もありませんから」

「残念ね。今度、おふとんのあるところでやりましょう」

 黒い無地の靴下に包まれた流線型のふくらはぎが床の上のジャージをかく。

「あー……ええと、この先の描写が特に好きなんですよ」

「ファンタジックなのに、生々しくて、でもそれが美しいわよね」

「拾い上げた星の破片のぬくもりが、ここの描写そのものにも温かみを与えてくれているような気がして」

「丸くて、温かくて、まるで赤ちゃんのようね」

「もしかしたら、命を象徴しているのかもしれませんね」

 そして男は星の破片の墓標に向かい、日が昇っては沈むのを、ひとつ、ふたつと、数えていく。

「百年分の太陽の浮き沈みですか」

「おおよそ三万六千五百回、正確には閏年が入ってくるから、三万六千五百二十五回かしら」

「そう聞くと意外とそうでもない気がしてきます」

「百十六歳になるまで待っててね」

「本気で頑張ればギリギリ届きそうなのがまたリアルな」

「生まれ変わったら百十六歳差の年の差婚よ」

「恐ろしく好色なエロ爺になった気分です」

「でも、愛は本物だわ」

「百年も待つわけですからね」

「ふと思ったのだけれど、この間、女性の意識はあったのかしら?」

「もう死んでますよ」

「でも、自分の意思で生まれ変わるのでしょう? 人の身から、姿を変えてでも、愛する人に再び逢うために。ならそこには、常に彼女の意識があったのではないかしら」

「そう考えると、実は女性の方が大変だったのかもしれませんね。男はただぼんやりと待っているだけですから」

「百年、待つのよ? 本当か嘘かもわからない言葉を信じて、ただひたすらに待ち続ける、並大抵ではないと思うわ」

 事実、男はやっぱり”欺されたのではなかろうか”と訝しむ。

 愛する人の墓標を見つめて、百年待つ。

 きっと逢いに来るという、その言葉だけを信じて。

 それは恐ろしく残酷で、とてつもなく美しく、尊いことのように思えた。

「あたかも男性の愛と信頼を糧に育つかのように、ついには墓標の下から、一輪の百合が咲くのね」

 先輩はゆらりと体を起こして、ちょうど胸の下あたりまで顔を持ち上げる。

 ”一輪の蕾が、ふっくらとはなびらを開いた”

 あたかも花の香が濃密に香るがごとく、先輩の笑みがすぐ目と鼻の先にある。

 ”花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花辯かべんに接吻を”――

「……はっ!?」

 慌てて、首を引っ込める。

 作品の空気に飲み込まれていた。

「ちっ」

「……今、舌打ちしました?」

「それで、どうかしら? 何か感じられた?」

「えぇと、どうでしょうね……」

 百年を想いあって再び逢った男と女の間には、理屈もなにもかもが必要なかった。

 ただ、そこにあって、惹かれ合う。

 一瞬、身も心も忘我の彼方にあって、自然と体が動いていた。

 人は愛しさが高じると自然と口づけをするものらしい。

 ……などと、そんなことを言えるわけもなく、適当に誤魔化す。

「先輩はどうでした?」

「さぁ、どうかしら」

 先輩もまた、百合の花の笑みを浮かべてはぐらかす。

 チャイムの音が鳴る。

 もう下校時刻だ。

「今日はここまでにしましょうか。この本、今日のところは貸しておいてくれるかしら?」

 白魚の指が『夢十夜』をするりと抜き取る。

「いいですけど、中身をすり替えたりしないでくださいよ?」

「ええ、もちろん」

「言っておくけど、フリじゃないですからね?」

「あら、心外ね」

 他愛ない軽口を交わしつつ、片付けをして、部室を後にする。

 窓の向こうの遠い空で、黄昏の一番星が瞬いていた。

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