第89話「包丁包丁、刻んでる」
台所に立つキン・トゥは、
まな板を敷いて魚を載せ、手に取るのは、ユージンの村でファンが語っていた
「本当にお持ちだったのですね」
ファンからキン・トゥがペティナイフを持ち、料理に使っている話を聞いていたのにも関わらず、台所に立つ光景を現実に見るまで信じられなかった。
「料理するのに使うじゃろうが」
さも当たり前だという風な口調のキン・トゥであったが、エルは首を軽く横に振る。
「料理そのものを、なさると思っていなかったのです」
「他に作ってくれる者がおらんのだから、自分でするだろうが」
もう一度、当たり前だというキン・トゥは、手早くペティナイフの背を使って鱗を落としていく。
「もう何年も一人で生活しておるわ」
元より草庵はキン・トゥが隠居するための住処である。息子夫婦が城の近くに住んでおり、息子夫婦と共に孫と住むのが一般的な世ではあるもの、武官である自分と違い、息子は文官として仕えている等々の理由をつけ、キン・トゥは一人で暮らす事を選んだ。
――成る程、確かに手慣れてらっしゃる。
エルから見て、キン・トゥの手付きは料理に不慣れなものではなかった。
「お魚?」
エルに続いてザキも台所を覗きに来た。内陸で育ったザキにとっては、魚は何もかも珍しく、興味を引かれる。
「年がら年中、取れる白身の魚ッスね。お城どころか、場合によったら皇帝家へも献上されるくらいなんスよ」
説明は、居間で
「白身魚は癖がないから、塩振って焼いても、出汁きかせて煮ても
「そうなの?」
ザキが振り返るが、この理由は台所から聞こえてきた。
「西の奴らは時期を知らん。年がら年中、同じものばかり食べている、とな」
魚には旬がある事をいっているのだ、とキン・トゥが教えてくれた。
「確かに、年がら年中、食べてるッスね。サクラ、麦わら、モミジって、全部、同じ魚なのに名前が違う」
ファンが笑いながら、海の方へ目を遣る。遠浅の海岸がずっと続く内海は、大型魚はいないに等しい。だが産卵場所には困らないため、白身の魚ならば高級魚と呼ばれる魚も雑魚同然にいる。今、食べようとしている魚とて、東へ行けば高級魚だ。
「春先に卵を抱えているのがサクラ、産卵後のが麦わら、越冬のために脂をたっぷり蓄えてるのがモミジなんスけどね、ただ名前がない時期が一番、旨い」
旬を知らないのではなく、隠しているというのが正解だとファンはいった。
「そうなの?」
ザキが身を乗り出すと、ファンは「そうッスよ」と頷き、
「冬の一番、寒い時が旨いッス。産卵前で栄養を溜め込んでるからッスね」
その場合、特別な名前はない。
「へェ」
「それに、魚の旬より出汁を取ってる野菜の旬の方が大事ですから。野菜は東より西でいいものが取れます」
そこはエルが教えてくれた。
魚の旬は知らないといわれる程でも、野菜の旬には細かいのが、この国の西に住む者たちだ。
「東は騎士たちが一から建てたといっても過言ではないですからね。騎士は味の濃いもの、脂っ気の多いものを好みます」
穀物と炙った赤身が大好きだというエルの視線の先には、それとは真逆の男が座っている。
ザキは不思議そうに目を瞬かせ、
「ファンは、パンとかお粥とか嫌いっていってたよ?」
しかも肉や魚より果物が好きというのは、どちらかといえば貴族的な嗜好といえた。
「芸人ッスからねェ」
騎士でも貴族でもないと戯けていうファンは、半分は冗談だが、もう半分は本気だ。元より「本業は旅芸人、剣士は不本意な副業」という男なのだから。
「ほうほう、じゃあサボってないな?」
そこへ投げかけられる不意の声がある。
「お師匠!」
ファンがハッとした顔を向けると、そこにあるのはキン・トゥと並んでファンの師となる
「お師匠?」
ちょこちょこと居間へ戻ってきたザキは、小首を傾げて老爺を見上げる。皺の刻まれた顔にハゲ頭という風貌は愛嬌があり、短躯と相まってファンにとって何の師であるかは明白だった。
「芸の方のお師匠ッスわ」
「レスリーじゃ。よろしくな」
ファンに紹介されて名乗った言葉には名字がないのだから、レスリーは騎士ではない。
レスリーはザキを頭をひょいと撫で、ファンを振り返る。
「帰ってきたと聞いて、祝いを持ってきたぞ。ゲタじゃがな。小麦粉をまぶして焼いてもいいが、小さな子がいるなら煮魚がよかろうな」
ゲタと雑魚のような名前であるが、このゲタも他の領地では違う名前で呼ばれ、高級魚とされている地域がある。
「ありがとうございます」
ファンは一礼するのだが、レスリーはカッカと笑い、
「サボってなかったのなら、ちょっと逆立ちして見せぃ」
旅芸人としての修練を続けてきたのだろうなといわれると、ファンは「当然ッスよ」と軽々と逆立ちをした。
「平衡感覚と筋力は軽業の基本ッス。弛まぬ努力が――」
逆立ちなんぞ軽々と
「脇が甘い」
脇をくすぐられると、これは
「逆立ちしてるんだから脇が空いてるの当たり前でしょ……」
打ち付けた肩を撫でながら起き上がるファンだったが、レスリーは首を横に振った。
「それの、どこで笑ってもらうつもりだ?」
芸人のリアクションとしてどうなのだいわれると、ファンもぐうの音も出なかった。軽業を決められる事だけが芸ではない。
「じゃあ、お師匠もやって下さいよ」
「おーおー、やってやろう、やってやろう」
レスリーが逆立ちすると、すかさずファンが脇をくすぐろうと手を伸ばす。
「甘いわ!」
だがファンの手を、レスリーは片手を上げるという手段で避けた。
「あ、すごーい!」
ザキがパチパチと手を叩いた。
「ありがとう、ありがとう。わしは片手どころか、右手の人差し指と親指だけでも逆立ちができるよ」
ひょいと手を変えるレスリーに対し、ファンはもう一度、手を伸ばす。
「甘い甘い」
だがレスリーは片手で跳躍するという荒技で回避した。
「まだだ! まだ俺には奥の手がある!」
思わず芸人の仮面が外れてしまうファンだったが、伸ばした手は考えつく中で最も愚かだが、最善手といえば最善手ともいえるものへと伸ばされた。
即ち――、
「はぁ!?」
エルに
「!?」
レスリーも、こればかりは動きを止めてしまい、パタリとその場に倒れてしまう。
「おお……これは、試合には負けても、勝負には勝ったぞ……」
大の字に寝転がりながら、レスリーは握り拳を突き上げた。
「いやいや、自分の勝ちッスよ! ねェ!?」
振り向くファンだったが、ザキとインフゥは笑っているし、エルからは無言で平手を喰らう羽目になり、
「食べ物があるんじゃぞ。埃を立てるな!」
キン・トゥからは叱責がとんで来るのだから、勝負も試合もファンの負けだ。
皆が一層、笑い出す。
笑い出す中、エルは思った。
――ファンは、自分の腕だというけれど……でも、
エルが見上げる窓の外は、いつの間にか
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